2023/04/02 - 2023/04/02
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gianiさん
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江戸時代が始まったときは、海の底だった土地です。慶長年間に葦を植えて、土砂が堆積するようにして、その後干拓を行いました。
独特の自然環境に耐えうる構造の民家、重文山口家は訪問の価値ありです。
世界遺産に含まれる三重津海軍所跡は、有明海の自然環境を活用し土木工学上の傑作。
黒船来航前に、国防殊に海防の重要性を悟り、幕府の理解がなくても自力で洋式海軍と兵站を整備した佐賀藩主鍋島直正。
いろいろなエッセンスが詰まった興味深いエリアです。
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まずは、山口家へ向かいます(友人の名前ではありません)。
佐賀駅から市営バス23系統で、終点大宅間まで乗車。 -
その先は徒歩で数分。
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このエリアは2007年に佐賀市に編入されるまでは、佐賀郡川副町でした。
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山口家住宅(国指定重要文化財)
19世紀初頭の建築です。築200年超とはいえ、
一体何が凄いのかというと、、、国重要文化財山口家住宅 名所・史跡
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漏斗谷造り
何よりも、屋根の形。口の字型です。家のど真ん中に雨水が集まる構造!
漏斗谷造りと呼ばれ、筑後川下流域でしか見られない伝統的かつミステリアスな構造です。 -
まずは外観から。
母屋の正面部分。玄関には郵便ポストが設置してありますね。
正方形の部分の軒下の寸法は、1辺が6間(10.971m)です。 -
口の字型から手前に張り出した部分は馬屋でした。
屋根の飾りは[みんのす]と呼ばれ、馬の耳に似た形です。 -
側面
横から見る限り、口の字型という構造はわかりにくいです。 -
45度移動。
右側の面に裏玄関があります。 -
裏玄関の向かいに管理棟があります。
というか離れです。声掛けをして、ご主人に中を見られないか尋ねてみましょう。立て込んでいない限り、快く応じてくださいます。
※文化財保護法では、国宝.重文は所有者が公開することになっています。 -
裏玄関から入ると、表玄関へ通じる広い土間があります。
入ってすぐ左側には、現役を引退した竈が設置してあります。
屋根の中央部に溜まった雨水の行先も気になります。 -
あがりばな
家屋の中央部分で、土間に隣接。住民はここで靴を脱いで上がります。
土間から撮影。その奥には、中の寝床。昼間はガス水道完備の離れで生活し、就寝時は毎晩こちらで過ごされるそうです。 -
天井部分に注目。
写真は土間の真上で、枠外右部分が「あがりばな」。
中央から屋外へ向かって(写真だと右端から左端にかけて)滑り台のような緩いスロープが走っているのがわかりますか? -
拡大すると、こんな感じ。
防腐防虫のために囲炉裏の煙の燻しているためにわかりづらいですが、
瓦製の樋を通して、中央にたまった水を排出するシステム。 -
こんな感じで屋外まで続き、
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このように排水。
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屋内から天井を眺めると、漏斗谷造りが明快です。
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屋根に注目すると、茅葺(麦藁)ではなく葭(葦)葺でした。
佐賀平野では、水路沿いに自生する葭を簡単に手に入れられました。麦藁は10年以内に葺き替えなければなりませんが、葭藁は丈夫で30年は持ち堪えます。 -
屋外パネル
1979年に大規模修復されましたが、2010年屋根を葺き替える際は大変な苦労をされたそうです。文化財保護法によると、公開と修理は第一に所有者の責任とのことですが、個人ではとても修理できず、伝統的技能を持つ特殊な職人の確保を含め、県や市の補助で何とかやり繰りしたそうです。山口さんからは、いろいろ興味深い話を聞けました。 -
山口家の立地
山口家は、筑後川の三角州を構成する中州に位置します。島の中に県境が走る珍しい例です。1601年に入植がはじまり、干拓が行われました。もともとは北側の雄島、南側の雌島という別々の島でした。柳川藩が雄島、佐賀藩が雌島ということで領土問題を解決しましたが、堆積が進み、両島が陸続きになってしまい、再び問題発生。筑後川から御幣を流して、漂着した場所を境界線とした。佐賀藩側は大詫間と呼ばれ、明治以降は佐賀県になった。 -
大詫間を拡大
福岡県側の名称である大野島部分を含めて、350年間で50回も干拓を行ったために、皴皴の地割です。 -
水田馬耕
農家が馬を飼うのは大変贅沢なことで、農耕は人力が当たり前。
そんな中、佐賀平野では、江戸時代から馬耕が行われていました。
この地域は水田が川や堀(水路)よりも高い位置にあるので、耕地の土砂流出を防ぐ必要があるために、床締めが必要なことが背景です。贅沢ではなく、ほかに選択肢のない死活問題でした。 -
揚水:汲み桶
干拓地ということもあり、佐賀平野の水田は水源(川・水路)よりも高い位置にあった。そのため、桶で水をくみ上げる必要があった。4本の縄で結んだ汲み桶を堀に投げ入れ、2人で汲み上げた。1a(0.01ha)を潤すのに4,5時間かかる重労働。 -
踏み車・水車
18世紀までに普及。汲み桶より揚水効率は優れるものの高価で、炎天下の重労働という意味では変わらなかった。 -
ゴミクイ
堀の底に溜まった泥土(ゴミ)を掬い上げる。いわゆる浚渫。堀と畔の間に丸太の足場を組み、4人ずつ向き合ってゴミクイ桶を一気に引き上げる。毎年2,3月にコミュニティで行う共同作業。泥土は乾燥させ、肥料として麦の土入れに利用された。 -
航空写真
上流側の大野島上空から大詫間・有明海方向を望む。
写真左が筑後川、中央が分流の早津江川。 -
ここからは、佐賀県立博物館で反省会。
海岸線の変遷
6,000年前の縄文海進時は、佐賀平野は海の底。
江戸時代が始まったころは、大詫間のみならず、旧川副町も海の底。
現在の土地は、江戸時代からの干拓で形成されました。 -
漏斗谷造りのサンプルとして、山口家の模型も設置。
鳥の視点で嘗め回せます。 -
山口家屋根の漏斗状の部分の写真。
現地の看板では、「武士以外は梁の長さが厳しく制限されたために、短い梁材を繋げて作ったらこういう形になった。」という社会面での仮説が載せられています。 -
クド造り
コの字型の屋根。鹿島市の旅行記で紹介したタイプです。
こちらも佐賀県を中心に分布します。 -
実際の写真も。
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分布図
凡例 ■漏斗谷造り +クド造り
漏斗谷造りは筑後川下流かつ有明粘土層(縄文時代は海だった)に分布しています。
クド造りはメインが有明粘土層、残りは県西部の谷間や川沿いに偏っています。 -
クド造りの分布
佐賀県南部と筑紫平野に集中し、熊本県の有明海沿いにも点在することがわかります。熊本北部には、クド造りのルーツと考えられる二つ家(ニの字型)が包含されます。
以上が、地形との相関関係です。 -
なぜ佐賀平野には、独特の屋根の民家が多いのか?
県博では、因果関係を自然環境からアプローチしています。
上記の分布図も含めて、館報第120号で特集された内容です。
漏斗谷造りは、現在も地盤沈下中の軟弱地盤「有明粘土層」の上に分布します。その上に家を建てるには、柱を多く立てて荷重を分散させる必要があります。 -
成立要因
漏斗谷造りは、現在も地盤沈下中の軟弱地盤「有明粘土層」の上に分布します。その上に家を建てるには、柱を多く立てて荷重を分散させる必要があります。同じ床面積の家屋で比較すると、漏斗谷造りは柱の本数が多く、しかも等間隔で均等に荷重を分散させています。
※ある学術調査によると、漏斗谷造り家屋の8割は2間毎に柱を立てているそうですが、山口家では必ずしも等間隔ではありませんでした。 -
普及要因
隣接する二つ家型屋根の家屋の技術の延長線で発展したという説。
屋根の向きと風上の相関関係から、強風に強い構造であること。等が挙げられます。 -
総評
ほかにも幾つかの学術論文を拝見しましたが、統計結果は興味深いものの、論拠は腑に落ちないものばかり。しかも、山口家が特殊なのか、当てはまらないものも多く、もやもやでした。家の中に雨樋を通してまで漏斗造りにする必然性に触れたものは見つかりませんでした。
ただ、屋根は大きいほど風に弱いという記述には注目します。台風、季節風が強いので、小さな屋根を組み合わせて1棟を建てることは道理にかなっています。また豪雨時も迅速に排水できる点にも注目できます。個人的には、大風と大雨という災害に強いことが要因と推察します。 -
佐野常民記念館へ移動します。佐賀駅から市営バス20系統で行けます。
以前は大詫間バス停から路線が出ていましたが、令和4年10月に廃止されました。
写真は、記念館付近の佐野常民生誕地。
大きな顕彰碑が立っています。 -
佐賀の七賢人ないしは八賢人(大隈重信・江藤新平etc.)という地元あるあるがあります。佐野常民もその一人で、周知の日本赤十字社を創設した人物です。
早津江村の下級武士の子供として生まれましたが、優秀さゆえに藩医佐野常徴の養子になります。城下の藩校に入学し、医理工系で頭角を現します。佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館 美術館・博物館
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31歳で藩の製煉方(理化学研究。写真)の主任になり、2年後には蒸気で走る機関車模型を製造した。
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36歳の時には、三重津海軍所(軍船製造、演習、修理)の初代監督に就任。1865年(43歳)には国産第一号の蒸気船を完成させます。佐賀藩は反射炉で鉄の生産も成功しており、圧倒的な軍事技術を持っていました。
※生家と海軍所が100mほどの距離です。三重津海軍所跡 名所・史跡
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1867年には、幕府と共に佐賀藩がパリ万博に参加。常民は佐賀藩代表として訪欧。現地で赤十字社のことを知る。
※薩摩藩は主権国家として参加し、幕府の怒りを買う。
明治政府では博覧会御用方として1873年のウィーン万博(写真)や1877年の内国博覧会(東京)に関わり、万博男と呼ばれる。 -
上:1877年に西南戦争が勃発すると、博愛社を設立し、敵味方に関係なく負傷者の救護活動を行った。総長には、西郷に対峙した政府軍総督の有栖川宮熾仁親王が就任。
下:1882年には大蔵卿(現在の財務大臣)に任命される。同年には元老院議長にも就任。 -
1886年に日本はジュネーヴ条約(戦時国際法)に調印。陸軍大臣大山巌が政府代表で調印する。条約は、専ら傷病者や捕虜の扱いに関するものだった。博愛社は国際赤十字社の一員となる。写真は、ジュネーヴの大山から熾仁親王への報告。
1887年には、日本赤十字社に改称。佐野は初代社長になる。 -
欧州の王室は、赤十字活動に積極的に参加した。トレンドに倣い、昭憲皇后が名誉総裁に就任し、歴代皇后が名誉総裁を務めることが慣例となる。
写真は、1887年に現在の慈恵医大病院で傷病者を見舞う皇后。 -
翌1888年に磐梯山が崩壊し、甚大な被害が生じる(写真)。
本来赤十字社は戦傷者が対象だが、政府に願い出て自然災害の救助にも参加。世界初の事例。以後、関東大震災をはじめとする様々な災害救助に参加する。
佐野は、当時にしては珍しく、人前で泣くことを憚らない男性だった。 -
三重津海軍所跡は、有明海に注ぐ筑後川下流域、分流した早津江川沿いにあります。対岸は大野島で、柳川藩領(福岡県)です。
4県を跨ぐ、九州最大の河川です。 -
上流部から順に、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区より構成されます。
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併設のミュージアムで学習。
名前からして海軍関係と推察されますが、なぜ地味県の佐賀かというと、、、
佐賀藩には長崎警備(1642~異国船の監視)という特別な任務が課されていたからです。 -
鎖国制度の根幹を支える重要任務に対し図のように、6か所の船倉を設置して対応しました。そのうちの一つが、今津に次いで城下に近い三重津でした。
※著作権の関係で一部資料を撮影できなかったために、接続の悪い箇所が生じることをお詫びします。 -
黒船来航と海軍伝習
1853年には、幕府のお膝元江戸湾に黒船到来。幕府は海防力を上げるべく、オランダ経由で黒船(蒸気船)を購入しようとしますが、当時ヨーロッパはクリミア戦争の真っ最中で調達不能でした。そこでオランダ商館は、次善策として海軍士官の養成(海軍伝習)を提案します。 -
海軍伝習
幕府は1855年に長崎海軍伝習所を開設し、オランダ海軍士官によって2期4年に渉る伝習(1859年閉鎖)が行われました。洋式海軍の伝習が主で、ほかにも西洋医術、化学、測量なども含まれました。諸藩の藩士130名が入所し、そのうち佐賀藩士は48名(約4割)を占め、佐野常民も含まれます。 -
三重津の伝習所
佐賀藩は1858年に御船手稽古所を設置し、海軍伝習所を卒業した佐野常民を監督に据えます。機関術、砲術、船砲術、造船所、造船術、運用稽古、航海術、測量術等を講義しました。演習先も藩内の深堀のみならず、薩摩、五島、壱岐にまで及びました。 -
洋式船の運用
基本は、任務→修理→洋上訓練→任務…、のサイクルです。
1858年の電流丸を皮切りに、佐賀藩は洋式蒸気船をオランダより購入します。船を自在に操り、かつ戦闘訓練を行う必要があります。平時は、人員や物資を藩内や大坂へ輸送するために航海しました。
船は筑後川河口の沖合に係留され、三重津から小舟で沖合まで移動しました。 -
メンテナンス
運用を重ねるにつれ。部品の交換や修理も必要になります。こうしたメンテナンス全般は、三重津や諫早で行いました。より大掛かりなものは長崎の幕営製鉄所、より高度なものは上海で行いました。 -
★日本初の西洋式ドライドック★
メンテナンスは、水に浸かっている部分も必要。というわけで、水を抜いて、船全体を点検修理するドライドックが必須です。直接の動機は、船底を覆う銅板の張替えが必要になったからで、1862年に完成。
※和船は、船体を横に倒して底部を修理します。
※写真のように、発掘調査後は遺跡保護のために埋め戻されています。 -
御修覆場(ドライドック)の壁
丸太と木の板で壁を作り、外側には砂と粘土を交互に積み重ねた層を作ります。それを階段状に4段作って、高さ3.5mの壁を作っています。地盤が軟弱なために、石やレンガを組んで壁を作ると、重みで沈んでしまうからです。軽くて排水性の良い材料を選択したゆえんです。金属は湿気に弱いので、速乾も重要です。 -
潮位差
有明海の干満差は最大6m以上で、日本一です。海に近い三重津も、写真のように潮汐作用に強く影響されます。干満差が大きい毎月大潮の日の満潮時にドック入りし、干潮時には海水が引いて陸地になります。ドックの扉を閉めて、満潮時も水が入り込まないようにします。三重津ならではのアドバンテージです。 -
蒸気船の開発製造
洋式海軍の要は蒸気船、蒸気船の要はボイラー(蒸気機関)。
鉄道模型の蒸気機関車から始まり、輸入蒸気船のボイラー交換で自家製に積み替えることを経て、1865年に国産初の実用蒸気船凌風丸を製造。風を頼りに動く帆船を凌ぐ存在、という気持ちが伝わるネーミング。10馬力の木造船で、浅河床の航行も可能な仕様。 -
写真は、発掘物。
銅を精錬する坩堝が見つかっています。石製の三角柱の上に坩堝を置き、周りで木炭を焚きました。見つかった容器には、銅以外にも青銅(銅と錫の合金)真鍮(銅と亜鉛の合金)も含まれます。 -
ボイラー組み立て
1857年に購入した電流丸の蒸気機関が損傷しました。買い替えではなく損傷部分の部品交換で済ませば、費用を大きく節約できます。ネックになるのが、リベット装着の技術でした。翌年には、幕府が製造した軍船の蒸気機関部分の製造を佐賀藩が担当し、国産ボイラーを製造しました。 -
リベットの装着
①リベットの長さを、繋ぎ合わせる鉄板の厚さに合わせて切断する。
②リベットを焼き入れし、穴に差し込む。
③当て盤で頭を押さえ、先端にリベットハンマー(半球状の窪みがある)を打ち込んで、変形固定する(かしめ作業)。
④鉄板とリベットの間に隙間がないことを確認する。ダメなら外して①からやり直す。
⑤熱収縮。冷却に伴って上下に締め付けられ、しっかりと固定される。 -
軽く触れましたが、なぜ佐賀藩は率先して、そして自腹を切ってまでして近代化を推し進めたのか?
詳しく見ていきます。 -
長崎警備
1639年に幕府はポルトガル船来航禁止令を出しますが、1641年には禁を犯して来航し、通商を要求。幕府は61名を処刑して断固対処。オランダ商館も出島へ転居。福岡藩に異国船監視のための長崎警備を命じます。翌42年には佐賀藩も加わり、両藩が1年交代で在地勤務しました。 -
異国船警備は、外海に面した五島・大村・平戸諸藩も領内で担当しました。
佐賀・福岡両藩は当番年は長崎港、非番年は周囲(長崎湾)を警備しました。季節風に乗ってオランダ船が来航する春と出航する秋は、警備の最高責任者である藩主が領地で有事に備えることが課されました。なので参勤交代は特殊で、秋に江戸へ向かい冬のうちに領地へ戻る短縮バージョンでした。あくまでも、長崎警備優先のシフトです。
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フェートン号事件
藩主斉直の治世の1808年にイギリス軍艦が出島に上陸し、商館員らを人質にして水や食糧を要求。当番年だった佐賀藩は、本来の十分の一の僅か100人しか配備していなかったことが判明。改易こそは免れたものの、家老たちが詰め腹を切らされ、斉直に閉門が課されるなど、厳罰を食らいます。
写真は、1810年までに長崎湾に設置された台場。訓練の際は、中央の神崎・女神両台場間の海峡に舟橋を並べて封鎖するなどしました。 -
鍋島直正(統治1830-61)
佐賀七賢人の筆頭、20歳で父斉直の跡を継ぎます。長崎警備は監督官庁の幕府長崎奉行所と密接に連携して働くため、多額の出費と引き換えに最新の西欧情報に絶えず触れられました。とりわけ聡明な藩主に、こうした情報は馬の耳に念仏ではありませんでした。
近代技術導入には多額の費用が必要ですが、藩政財政改革を推進し、財政破綻寸前で就任して以来、借金を完済して黒字化させました。藩士の教育も重視し、優秀な藩士を多く輩出しました。明治政府に参画した唯一の大名出身者です。島津斉彬とは、いとこ同士です。 -
アヘン戦争(1840-42年)
直正は長崎経由で、大国清がイギリスに負けたことを知ります。原因は艦隊(蒸気船)や装備(鉄製大砲)の差だと知ります。また、自らオランダ軍艦パレンバンに乗り込み、西欧の装備を視察。海防の要は、湾の入り口の強化とわかり、幕府に台場増設と鉄製(従来は青銅製)大砲の配置を提言します。 -
両島台場
残念ながら、幕府も相方福岡藩からも却下されます。直正は天下への奉仕と位置づけ、自腹で建設配備することを宣言します(1850)。1854年に伊王島と神ノ島両島に計10か所の洋式砲台(台場)を建設します。江川が江戸品川に台場を建設したのと同じ年です。 -
洋式製鉄:最古の反射炉建設
洋式の製鉄施設である反射炉を築地地区に建設する(1850)。火入れの18か月後、14回目の鋳造で初めて36ポンド砲(重さ16.3㎏の砲弾を撃ち込める大砲)製造にも耐えられる品質の銑鉄を取り出せた(1852)。その後も、品質安定へ向けて試行錯誤する。翌年の黒船来航後に、慌てて鉄製大砲の重要性を認識した幕府とは対照的です。
※日本では高品質の銑鉄を取り出せるたたら製鉄が行われていたが、時間と手間がかかる割に、ごく少量しか生産できなかった。写真の築地反射炉跡地は、現在日新小学校が建っている。築地反射炉跡 名所・史跡
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多布施反射炉
1853年の最初の黒船来航に伴い、品川台場用に幕府が大砲を大量発注(50門)され、需要に応えるべく建設(1854)。こちらは最初から安定した品質の鉄を生産した。
※有名な韮山反射炉が完成したのは1855年。 -
伝統技術
反射炉建設の際は、材料のレンガ焼成などに、藩特産有田焼の技術が役立った。どちらも窯業という点で一致。 -
砲弾の直径
和式砲では、12ポンド砲と同じサイズです。砲弾は、鉄よりも軽い合金かと思われます。佐賀藩が設置した洋式砲弾とは比べ物になりません。1850年代以降、大砲は日進月歩で、アームストロング砲など様々なものが登場しました。 -
精錬方
いわゆる理化学研究所で、1852年に開設。初代主任は、佐野常民。大砲の火薬や、火傷の薬等の研究を行った。その後、軍船用の蒸気機関の研究、新型銃砲の研究開発、電信機の試作等が行われた。技術者には、東芝創業者の田中久重・儀右衛門等がいた。 -
境界線の河川を渡ります。
高潮対策で、支流の河口部は水門でガードされています。 -
この先は、旧諸富町。
2005年に佐賀市に編入。 -
有明早津江大橋が架かっています。
その奥が早津江橋です。初代は1951年に竣工、1953年の水害で流出しました。 -
在りふれた堤防も、春満開です。
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川沿いの金立権神社には、徐福上陸の地が。
秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を求めて旅立った方士です。徐福上陸地 名所・史跡
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蓬莱山の形状と一致する金立山を発見しして杵島の竜王崎に上陸を試みますが、あえなく失敗。盃を浮かべて、辿り着いた先に上陸します(浮盃江)。それが、諸富町です。浮盃という地名も残っています。先述の領土争いと似たストーリーです。上陸して直ぐに手を洗うための井戸を掘ったために、手洗い→寺井という地名に変化したとか(現住所は寺井津)。
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正直1ミリも信じていませんが、先人の言い分を聞いて所縁の地を訪れるのは、なかなか面白いものです。人間の夢のある想像力に触れられるからです。
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上陸時に嵐となりましたが、船にアミがびっしり付いて転覆から守ったので、以来地元ではアミを食べないとか、上陸時に葦を手で掻き払進んだので、以来片葉の葦が自生し、落ちた葉は斉魚(エツ)になったと伝わります。
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徐福伝説の続き
金立山まで千反の布を敷いて歩いて行ったとか(地名「千布」の由来)、道中に茶屋の娘お辰と恋に落ちたとか、金立山で見つけた仙薬はクロフキ(黒蕗)だった等です。
茶が伝来したのは徐福の時代の1400年後ということなど、江戸時代の庶民が知る由もありません。クロフキは漢方として胃痛腹痛のぼせ頭痛等に効能があり、不老不死が訛ったものというこじつけと合わせて、なかなかのセンスです。金立山 自然・景勝地
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その先には昇開橋が。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11820285
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