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昭和11年(1936年)2月20日。<br />千葉県印旛郡臼井町で、農家の二男二女の末っ子として、長嶋茂雄は生まれています。父;利は、臼井町の収入役を務め、田畑の大部分は近所の人に貸し、比較的暮らしは裕福だったようだ。母;ちよの35才の子で、2,600グラムと小さな赤ちゃんだった。長女;春枝、長男;武彦、次女;藤枝に次ぐ四番目でした。<br /><br />昭和17年(1942年)。<br />臼井国民学校(現在の臼井小学校)へ入学します。小学校時代は、1年生から6年生まで1番チビで1番先頭に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会はいつも一等賞だった。天皇陛下の玉音放送を聞いたのは、国民学校4年の夏だった。干拓される前の印旛沼は広く、遊ぶフィールドはとても広く果てしなかった。印旛沼で泳いだり、越中フンドシでどろんこで遊び回った。印旛沼の干潟で三角ベースに夢中になり、兄;武彦と暇さえあればキャッチボールをした。仲間の間では、ピッチャーで中心打者、小山の大将で、お母さんに作ってもらった野球ボールが今でも忘れられないという。<br /><br />昭和23年(1948年)。<br />佐倉町臼井町学校組合立中学(現在の佐倉中学校)へ入学します。臼井から城内町まで6kmを徒歩で通った。当時陸軍57連隊の第1中隊の兵舎が校舎にあてられていました。野球ブームで新入部員が百人もいたといいます。1年から1番で正遊撃手、2年で3番を打った。このころから背が166cmと急成長し始めました。3年で主将となり、印旛沼中学対抗野球大会の決勝で酒々井中学校と対戦、9回裏のランニングホームランで試合をひっくり返し勝っています。<br /><br />昭和26年(1951年)。<br />佐倉第1高等学校(現在の佐倉高等学校)へ入学します。名門の千葉第1高等学校(現在の千葉高等学校)の熱心な誘いもあったが、地元の佐倉第1高等学校を選んでいます。前身は佐倉藩の藩校で、野球では無名校だったが、野球部強化の3年計画がスタートしていた。コーチは立教大学生の加藤哲夫(佐倉1高のOBで、長嶋が高2の時に監督になる)で、砂押邦信立教大学監督の門下生で、それは厳しい指導だった。このころ食べるのは人の倍、さらに身長はすさまじい勢いで伸び、2年生で170cm、3年生で180cmを超える勢いだった。2年生から4番打者で遊撃手だった。しかし、3年生の6月の市川高校グラウンドの練習試合で、遊撃手として4失策をし、サードに変えられる。「サード長嶋」の誕生です。そして、キャプテン、4番打者、サードで、甲子園をめざします。千葉県大会でベスト4に残り、埼玉県営大宮球場で開かれた南関東大会に駒を進めました。第1関門の準々決勝(1回戦)は、2年前の全国大会準優勝校の強豪熊谷高等学校でした。6回の第3打席、1ストライク0ボールから真ん中に入ったインコース高めの2球目をライナーでバックスクリーンの真ん中まで運び、350フィート(107m)の超特大ホームランとなった。試合は1対4で負けたが、このホームランで一躍注目の的となります。プロからの誘いは、大映、阪急、そしてあこがれの巨人からも契約金60万円ではと。ノンプロからも富士鉄室蘭から強く誘われた。しかし、父;利は、立教大学の砂押監督が「スパルタで人間を作る」という言葉にコロリと参った。学校関係者や地元の野球関係者も、立教大学を押した。<br /><br />昭和29年(1954年)。<br />立教大学経済学部経営学科に入学します。昭和29年6月2日に「シゲオ カエレ チチキトク」の電報が入った。間一髪臨終に間に合った。父の最後の言葉は、「野球をやるからには六大学1番の選手にならんといかんぞ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ。分ったか」こう言い終えると安心したように眼を閉じ、そのまま息を引き取った。家計のこともあり、これ以上お袋に迷惑はかけられないと、立教大学の中退も考えたが、お袋さんは激怒し、「何言ってるの、父さんが手を握って最後に何と言ったか忘れたのかい。茂雄、家のことは心配せんでいいから」と、気丈なお袋の言葉がどれだけありがたかったか。兄・姉たちも「大学だけは、どんなことがあっても行け」といってくれた。この後、お母さんが東京まで行商に行って、家計を助け、大学を出してくれたといいます。<br /><br />平成14年(2002年)5月20日。<br />佐倉市名誉市民として顕彰されています。<br />顕彰理由は、「佐倉市の小、中、高等学校を卒業し、立教大学卒業後、東京読売巨人軍に入団。佐倉出身のプロ野球選手として活躍され、野球界に多大な貢献をされました。&quot;ミスタープロ野球&quot;として社会に夢と大きな感動を与え、全国に向けて佐倉の名を高められ、郷土の誇りとして尊敬されています。」です。<br /><br /><br />平成25年(2013年)5月5日。<br />国民栄誉賞が授与されました。<br />授与理由は、「闘志あふれるプレイと驚異的な勝負強さにより、我が国野球史上に数々の輝かしい功績を残し、多くの国民が憧れ、誰からも愛される野球界の産んだ&quot;国民的スター&quot;として、野球界の発展に極めて顕著な貢献をされるとともに、国民に深い感動と、社会に明るい夢と希望を与えることに顕著な業績がありました」です。<br /><br />平成25年(2013年)5月31日。<br />千葉県県民栄誉賞が授与されました。<br />授与理由は、「長嶋茂雄氏は、千葉県佐倉市の出身で、プロ野球巨人軍の選手として活躍し、その勝負強さやはつらつとしたプレーは多くの国民を熱狂させ、プロ野球を国民的スポーツに発展させた最大の功労者で、県民のみならず、国民から今もなお愛される存在です。  このたびの長嶋茂雄氏の国民栄誉賞受賞は、社会に明るい希望と活力を与えるとともに、千葉県の名を高めることに顕著な功績がありましたので、同氏に県民栄誉賞を授与いたします。」です。<br /><br />平成25年(2013年)7月12日。<br />佐倉市市民栄誉賞が授与されました。<br />授与理由は、「佐倉市出身のスターとして、その華麗なプレーと野球へのひたむきな姿勢は国民に夢と感動を与え、我が国野球界の発展に多大な貢献をされました。このことは、市民の誇りであり、社会に明るい希望と活力をもたらしました。」です。<br /><br />令和3年(2021年)11月3日。<br />文化勲章が授与されました。<br />野球界初となったこの度の受章は、長年にわたる長嶋氏の、野球のみならず日本スポーツ界への多大なるご功績の賜物であり、市民を代表して心からお慶び申し上げます。 これからもお体を大切にされ、日本スポーツ界のヒーローとして益々ご活躍されるとともに、長嶋茂雄少年野球教室でお会いできることを楽しみにしております。(佐倉市長 西田三十五)<br /><br />参考文献他;<br />日本経済新聞出版社刊;「長嶋茂雄 野球は人生そのものだ」、佐倉高校地域交流施設長嶋茂雄コーナー、佐倉市岩名運動公園スポーツ資料館長嶋茂雄コーナー、ホームページ;「局長のページうすい」など。<br /><br /><br />2012/10/02 第1版<br />2012/10/24 第2版<br />2013/04/19 第3版<br />2013/05/05 第4版<br />2013/05/31 第5版<br />2013/07/12 第6版<br />2013/08/07 第7版<br />2013/08/25 第8版<br />2013/12/28 第9版<br />2015/01/18 第10版<br />2017/06/06 第11版<br />2017/07/04 第12版<br />2021/11/03 第13版<br />2021/12/06 第14版

佐倉市散策(34)・・長嶋茂雄の故郷を訪ねます。

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YAMAJI

YAMAJIさん

昭和11年(1936年)2月20日。
千葉県印旛郡臼井町で、農家の二男二女の末っ子として、長嶋茂雄は生まれています。父;利は、臼井町の収入役を務め、田畑の大部分は近所の人に貸し、比較的暮らしは裕福だったようだ。母;ちよの35才の子で、2,600グラムと小さな赤ちゃんだった。長女;春枝、長男;武彦、次女;藤枝に次ぐ四番目でした。

昭和17年(1942年)。
臼井国民学校(現在の臼井小学校)へ入学します。小学校時代は、1年生から6年生まで1番チビで1番先頭に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会はいつも一等賞だった。天皇陛下の玉音放送を聞いたのは、国民学校4年の夏だった。干拓される前の印旛沼は広く、遊ぶフィールドはとても広く果てしなかった。印旛沼で泳いだり、越中フンドシでどろんこで遊び回った。印旛沼の干潟で三角ベースに夢中になり、兄;武彦と暇さえあればキャッチボールをした。仲間の間では、ピッチャーで中心打者、小山の大将で、お母さんに作ってもらった野球ボールが今でも忘れられないという。

昭和23年(1948年)。
佐倉町臼井町学校組合立中学(現在の佐倉中学校)へ入学します。臼井から城内町まで6kmを徒歩で通った。当時陸軍57連隊の第1中隊の兵舎が校舎にあてられていました。野球ブームで新入部員が百人もいたといいます。1年から1番で正遊撃手、2年で3番を打った。このころから背が166cmと急成長し始めました。3年で主将となり、印旛沼中学対抗野球大会の決勝で酒々井中学校と対戦、9回裏のランニングホームランで試合をひっくり返し勝っています。

昭和26年(1951年)。
佐倉第1高等学校(現在の佐倉高等学校)へ入学します。名門の千葉第1高等学校(現在の千葉高等学校)の熱心な誘いもあったが、地元の佐倉第1高等学校を選んでいます。前身は佐倉藩の藩校で、野球では無名校だったが、野球部強化の3年計画がスタートしていた。コーチは立教大学生の加藤哲夫(佐倉1高のOBで、長嶋が高2の時に監督になる)で、砂押邦信立教大学監督の門下生で、それは厳しい指導だった。このころ食べるのは人の倍、さらに身長はすさまじい勢いで伸び、2年生で170cm、3年生で180cmを超える勢いだった。2年生から4番打者で遊撃手だった。しかし、3年生の6月の市川高校グラウンドの練習試合で、遊撃手として4失策をし、サードに変えられる。「サード長嶋」の誕生です。そして、キャプテン、4番打者、サードで、甲子園をめざします。千葉県大会でベスト4に残り、埼玉県営大宮球場で開かれた南関東大会に駒を進めました。第1関門の準々決勝(1回戦)は、2年前の全国大会準優勝校の強豪熊谷高等学校でした。6回の第3打席、1ストライク0ボールから真ん中に入ったインコース高めの2球目をライナーでバックスクリーンの真ん中まで運び、350フィート(107m)の超特大ホームランとなった。試合は1対4で負けたが、このホームランで一躍注目の的となります。プロからの誘いは、大映、阪急、そしてあこがれの巨人からも契約金60万円ではと。ノンプロからも富士鉄室蘭から強く誘われた。しかし、父;利は、立教大学の砂押監督が「スパルタで人間を作る」という言葉にコロリと参った。学校関係者や地元の野球関係者も、立教大学を押した。

昭和29年(1954年)。
立教大学経済学部経営学科に入学します。昭和29年6月2日に「シゲオ カエレ チチキトク」の電報が入った。間一髪臨終に間に合った。父の最後の言葉は、「野球をやるからには六大学1番の選手にならんといかんぞ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ。分ったか」こう言い終えると安心したように眼を閉じ、そのまま息を引き取った。家計のこともあり、これ以上お袋に迷惑はかけられないと、立教大学の中退も考えたが、お袋さんは激怒し、「何言ってるの、父さんが手を握って最後に何と言ったか忘れたのかい。茂雄、家のことは心配せんでいいから」と、気丈なお袋の言葉がどれだけありがたかったか。兄・姉たちも「大学だけは、どんなことがあっても行け」といってくれた。この後、お母さんが東京まで行商に行って、家計を助け、大学を出してくれたといいます。

平成14年(2002年)5月20日。
佐倉市名誉市民として顕彰されています。
顕彰理由は、「佐倉市の小、中、高等学校を卒業し、立教大学卒業後、東京読売巨人軍に入団。佐倉出身のプロ野球選手として活躍され、野球界に多大な貢献をされました。"ミスタープロ野球"として社会に夢と大きな感動を与え、全国に向けて佐倉の名を高められ、郷土の誇りとして尊敬されています。」です。


平成25年(2013年)5月5日。
国民栄誉賞が授与されました。
授与理由は、「闘志あふれるプレイと驚異的な勝負強さにより、我が国野球史上に数々の輝かしい功績を残し、多くの国民が憧れ、誰からも愛される野球界の産んだ"国民的スター"として、野球界の発展に極めて顕著な貢献をされるとともに、国民に深い感動と、社会に明るい夢と希望を与えることに顕著な業績がありました」です。

平成25年(2013年)5月31日。
千葉県県民栄誉賞が授与されました。
授与理由は、「長嶋茂雄氏は、千葉県佐倉市の出身で、プロ野球巨人軍の選手として活躍し、その勝負強さやはつらつとしたプレーは多くの国民を熱狂させ、プロ野球を国民的スポーツに発展させた最大の功労者で、県民のみならず、国民から今もなお愛される存在です。  このたびの長嶋茂雄氏の国民栄誉賞受賞は、社会に明るい希望と活力を与えるとともに、千葉県の名を高めることに顕著な功績がありましたので、同氏に県民栄誉賞を授与いたします。」です。

平成25年(2013年)7月12日。
佐倉市市民栄誉賞が授与されました。
授与理由は、「佐倉市出身のスターとして、その華麗なプレーと野球へのひたむきな姿勢は国民に夢と感動を与え、我が国野球界の発展に多大な貢献をされました。このことは、市民の誇りであり、社会に明るい希望と活力をもたらしました。」です。

令和3年(2021年)11月3日。
文化勲章が授与されました。
野球界初となったこの度の受章は、長年にわたる長嶋氏の、野球のみならず日本スポーツ界への多大なるご功績の賜物であり、市民を代表して心からお慶び申し上げます。 これからもお体を大切にされ、日本スポーツ界のヒーローとして益々ご活躍されるとともに、長嶋茂雄少年野球教室でお会いできることを楽しみにしております。(佐倉市長 西田三十五)

参考文献他;
日本経済新聞出版社刊;「長嶋茂雄 野球は人生そのものだ」、佐倉高校地域交流施設長嶋茂雄コーナー、佐倉市岩名運動公園スポーツ資料館長嶋茂雄コーナー、ホームページ;「局長のページうすい」など。


2012/10/02 第1版
2012/10/24 第2版
2013/04/19 第3版
2013/05/05 第4版
2013/05/31 第5版
2013/07/12 第6版
2013/08/07 第7版
2013/08/25 第8版
2013/12/28 第9版
2015/01/18 第10版
2017/06/06 第11版
2017/07/04 第12版
2021/11/03 第13版
2021/12/06 第14版

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  • 佐倉市北部(臼井地区と佐倉地区)の現在の地図です。

    佐倉市北部(臼井地区と佐倉地区)の現在の地図です。

  • 長嶋茂雄の生家を中心にした、佐倉市臼井の現在の地図です。

    長嶋茂雄の生家を中心にした、佐倉市臼井の現在の地図です。

  • 臼井城の本丸跡です。<br />臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、東西約1km、南北約1.5kmの城郭を配し、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。現在も空堀や土塁が良く残っています。<br />臼井地区は、鎌倉時代から戦国時代まで、臼井城の城下町として栄えました。

    臼井城の本丸跡です。
    臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、東西約1km、南北約1.5kmの城郭を配し、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。現在も空堀や土塁が良く残っています。
    臼井地区は、鎌倉時代から戦国時代まで、臼井城の城下町として栄えました。

  • 本丸跡より見た西印旛沼です。<br />臼井城跡(本丸・一の丸・二の丸・三の丸跡)は、現在の臼井・臼井田・臼井台にわたっています。臼井城跡へは、円応寺横から昇り本丸跡に出るコースと臼井台から二の丸に出るコースがあります。 <br />

    本丸跡より見た西印旛沼です。
    臼井城跡(本丸・一の丸・二の丸・三の丸跡)は、現在の臼井・臼井田・臼井台にわたっています。臼井城跡へは、円応寺横から昇り本丸跡に出るコースと臼井台から二の丸に出るコースがあります。

  • 臼井八幡社の参道です。<br />長島茂雄は、臼井八幡社によくお参りに訪れたようです。

    臼井八幡社の参道です。
    長島茂雄は、臼井八幡社によくお参りに訪れたようです。

  • 臼井八幡社の拝殿です。<br />臼井興胤が1338年に領内の総鎮守として、宇佐八幡を勘請し祀ったとされています。祭神は応神天皇で、八幡台2丁目にあります。<br />

    臼井八幡社の拝殿です。
    臼井興胤が1338年に領内の総鎮守として、宇佐八幡を勘請し祀ったとされています。祭神は応神天皇で、八幡台2丁目にあります。

  • 参道の石柱に長嶋茂雄の名前があります。<br />拝殿に向かって右側9個目の石柱です。

    参道の石柱に長嶋茂雄の名前があります。
    拝殿に向かって右側9個目の石柱です。

  • 長源寺の本堂です。<br />1570年に道誉上人により開山された、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。ここは明治6年開設の臼井小学校の発祥の地でもあります。 <br />

    長源寺の本堂です。
    1570年に道誉上人により開山された、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。ここは明治6年開設の臼井小学校の発祥の地でもあります。

  • 道誉上人の墓です。<br />1515年に和泉国日根群鳥取庄(大阪府)に生まれ、1551年に千葉大厳寺を開山し、1555年に東京芝の増上寺の第9世貫主になり、1570年には臼井の新大厳寺(長源寺)を開山するなど、関東地方で活躍されて、1574年60歳で亡くなってます。上人のお墓は長源寺の墓所にあります。

    道誉上人の墓です。
    1515年に和泉国日根群鳥取庄(大阪府)に生まれ、1551年に千葉大厳寺を開山し、1555年に東京芝の増上寺の第9世貫主になり、1570年には臼井の新大厳寺(長源寺)を開山するなど、関東地方で活躍されて、1574年60歳で亡くなってます。上人のお墓は長源寺の墓所にあります。

  • 長嶋家のお墓です。<br />道誉上人と同じ、長源寺の墓所にあります。

    長嶋家のお墓です。
    道誉上人と同じ、長源寺の墓所にあります。

  • 長嶋茂雄の父;利、母;ちよ、兄;武彦が眠っています。

    長嶋茂雄の父;利、母;ちよ、兄;武彦が眠っています。

  • 雷電顕彰碑です。<br />1767年信濃国に生まれ、1788年松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名を「雷電」。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回。1801年臼井で興行があり、臼井上宿の八重と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。臼井台の妙覚寺山門前にあります。 <br />

    雷電顕彰碑です。
    1767年信濃国に生まれ、1788年松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名を「雷電」。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回。1801年臼井で興行があり、臼井上宿の八重と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。臼井台の妙覚寺山門前にあります。

  • 雷電の墓です。<br />雷電と妻八重、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。臼井台の妙伝寺の奥の墓地にあります

    雷電の墓です。
    雷電と妻八重、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。臼井台の妙伝寺の奥の墓地にあります

  • 臼井中宿の交差点です。<br />江戸時代に入ると、臼井地区には多くの旅籠が建ち、佐倉道・成田道(成田街道)の宿場町として栄えました。

    臼井中宿の交差点です。
    江戸時代に入ると、臼井地区には多くの旅籠が建ち、佐倉道・成田道(成田街道)の宿場町として栄えました。

  • 中宿の石碑です。<br />「明治天皇臼井行在所」の石碑と臼井町の道路元標が集められています。中宿は臼井宿の中心であったところです。

    中宿の石碑です。
    「明治天皇臼井行在所」の石碑と臼井町の道路元標が集められています。中宿は臼井宿の中心であったところです。

  • 「明治天皇臼井行在所」の石碑です。<br />明治14年と明治15年に、明治天皇が三里塚種畜場に行幸の際、往復とも御昼餐を御召されたところです。 <br /><br />

    「明治天皇臼井行在所」の石碑です。
    明治14年と明治15年に、明治天皇が三里塚種畜場に行幸の際、往復とも御昼餐を御召されたところです。

  • 臼井町の道路元標です。<br />旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個づつ設置されました。この元標があることで、ここが旧臼井町の中心だったことが判ります。 <br />

    臼井町の道路元標です。
    旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個づつ設置されました。この元標があることで、ここが旧臼井町の中心だったことが判ります。

  • 平成15年の住宅地図です。<br />臼井小学校と国道296号線に挟まれた住宅地に、長嶋(武)の表示があります。ここが長嶋茂雄の生家です。長嶋(武)は、茂雄の兄;長嶋武彦の略です。

    平成15年の住宅地図です。
    臼井小学校と国道296号線に挟まれた住宅地に、長嶋(武)の表示があります。ここが長嶋茂雄の生家です。長嶋(武)は、茂雄の兄;長嶋武彦の略です。

  • 長嶋茂雄の生家前の、国道296号線(成田街道)です。

    長嶋茂雄の生家前の、国道296号線(成田街道)です。

  • 長嶋茂雄の生家は建て替えられ、兄武彦も平成23年に亡くなっています。この家は、教師をしている武彦の子供が建て替えた物で、現在千葉市に転勤になり今は空き家なっているようです。<br />長嶋茂雄はこの地(千葉県印旛郡臼井町)で、昭和11年(1936年)2月20日に、父;利、母;ちよの次男として生まれています。長女;春枝、長男;武彦、次女;藤枝に次ぐ四番目でした。体重2,600グラムの小さな赤ちゃんでした。

    長嶋茂雄の生家は建て替えられ、兄武彦も平成23年に亡くなっています。この家は、教師をしている武彦の子供が建て替えた物で、現在千葉市に転勤になり今は空き家なっているようです。
    長嶋茂雄はこの地(千葉県印旛郡臼井町)で、昭和11年(1936年)2月20日に、父;利、母;ちよの次男として生まれています。長女;春枝、長男;武彦、次女;藤枝に次ぐ四番目でした。体重2,600グラムの小さな赤ちゃんでした。

  • 国道296号線の京成電車踏切近くの、臼井町役場跡地には、消防団がありました。<br />臼井町は、明治22年(1889年)4月1日に、臼井村、臼井田町、臼井台町、角来村、江原村、江原新田村が合併して発足しています。長嶋茂雄の父;利が、収入役として務めたのがこの臼井町役場です。

    国道296号線の京成電車踏切近くの、臼井町役場跡地には、消防団がありました。
    臼井町は、明治22年(1889年)4月1日に、臼井村、臼井田町、臼井台町、角来村、江原村、江原新田村が合併して発足しています。長嶋茂雄の父;利が、収入役として務めたのがこの臼井町役場です。

  • 臼井郵便局です。<br />明治5年(1872年)に、印旛郡臼井町随一の郵便取扱所として開局しています。

    臼井郵便局です。
    明治5年(1872年)に、印旛郡臼井町随一の郵便取扱所として開局しています。

  • 臼井郵便局のすぐ向いに、和菓子の老舗太田堂があります。<br />区画整理事業以前は、向いの菓子工場のある位置で営業していました。明治時代の創業だそうです。「焼栗くん」と「緑茶きんつば」がお勧めです。「焼栗くん」は、生地に佐倉産米粉を使い、その中に渋皮付きの栗をまるまる一つ入れています。「緑茶きんつば」は、北海道産大手亡(おおでぼう)と吟味した緑茶「ささみどり」とのやさしい調和は、香り豊で味わいのある一品に仕上がっています。長嶋茂雄の少年時代には、太田堂の和菓子を食べたようです。 <br /><br />

    臼井郵便局のすぐ向いに、和菓子の老舗太田堂があります。
    区画整理事業以前は、向いの菓子工場のある位置で営業していました。明治時代の創業だそうです。「焼栗くん」と「緑茶きんつば」がお勧めです。「焼栗くん」は、生地に佐倉産米粉を使い、その中に渋皮付きの栗をまるまる一つ入れています。「緑茶きんつば」は、北海道産大手亡(おおでぼう)と吟味した緑茶「ささみどり」とのやさしい調和は、香り豊で味わいのある一品に仕上がっています。長嶋茂雄の少年時代には、太田堂の和菓子を食べたようです。

  • 臼井小学校です。<br />長嶋茂雄は昭和17年(1942年)に、臼井国民学校(現在の臼井小学校)に入学しています。小学校時代は、1年生から6年生まで一番チビで1番前に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会ではいつも一等賞だったといいます。

    臼井小学校です。
    長嶋茂雄は昭和17年(1942年)に、臼井国民学校(現在の臼井小学校)に入学しています。小学校時代は、1年生から6年生まで一番チビで1番前に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会ではいつも一等賞だったといいます。

  • 昭和41年(1966年)に、臼井小学校がこの地に移転・新築された時に、「大谷石」で出来た立派な校門を寄贈しています。これを記念して臼井小学校の校門には、長嶋茂雄のプレートがあります。

    昭和41年(1966年)に、臼井小学校がこの地に移転・新築された時に、「大谷石」で出来た立派な校門を寄贈しています。これを記念して臼井小学校の校門には、長嶋茂雄のプレートがあります。

  • 舟戸から見た西印旛沼です。<br />長嶋茂雄が泳いだ印旛沼や三角ベースに夢中になった干潟は、もう少し東よりで、現在の千葉県印旛取水場あたりだったようです。昭和38年〜44年(1963年〜1969年)の印旛沼開発事業と土地改良事業により、大規模な干拓事業が行われ(含む臼井台干拓、臼井田干拓)、印旛捷水路が作られ、工業用水や水道用水の取水が行われ、印旛沼の流水が留まります。さらに、印旛沼周辺も宅地化が急激に進み、水質汚染が進み、泳げなくなっていきました。長嶋茂雄の少年時代は、この干拓以前であり、印旛沼はずいぶん広かったことになります。

    舟戸から見た西印旛沼です。
    長嶋茂雄が泳いだ印旛沼や三角ベースに夢中になった干潟は、もう少し東よりで、現在の千葉県印旛取水場あたりだったようです。昭和38年〜44年(1963年〜1969年)の印旛沼開発事業と土地改良事業により、大規模な干拓事業が行われ(含む臼井台干拓、臼井田干拓)、印旛捷水路が作られ、工業用水や水道用水の取水が行われ、印旛沼の流水が留まります。さらに、印旛沼周辺も宅地化が急激に進み、水質汚染が進み、泳げなくなっていきました。長嶋茂雄の少年時代は、この干拓以前であり、印旛沼はずいぶん広かったことになります。

  • 舟戸の渡し跡です。<br />昭和38年(1963年)に、臼井ー師戸間の舟戸大橋が完成し、渡し船が廃止されました。長嶋茂雄の少年時代には、まだ渡し船が活躍していました。

    舟戸の渡し跡です。
    昭和38年(1963年)に、臼井ー師戸間の舟戸大橋が完成し、渡し船が廃止されました。長嶋茂雄の少年時代には、まだ渡し船が活躍していました。

  • 昭和41年(1966年)当時の臼井地区です。<br />長嶋茂雄の少年時代には、舟戸大橋はありません、川鉄印旛沼取水場もありません、市役所臼井派出所の位置に臼井町役場があったのでしょう。団地も散見されますがこれも無かったのでしょう。

    昭和41年(1966年)当時の臼井地区です。
    長嶋茂雄の少年時代には、舟戸大橋はありません、川鉄印旛沼取水場もありません、市役所臼井派出所の位置に臼井町役場があったのでしょう。団地も散見されますがこれも無かったのでしょう。

  • 昭和48年〜昭和60年(1973年〜1985年)まで行なわれた、臼井地区の区画整理事業により、京成臼井駅が移転し、王子台や稲荷台が造成されました。京成臼井駅は、大正15年(1926年)に開業し、昭和53年(1978年)に現在の場所に移転し、平成8年(1996年)に駅ビルが営業を開始しています。

    昭和48年〜昭和60年(1973年〜1985年)まで行なわれた、臼井地区の区画整理事業により、京成臼井駅が移転し、王子台や稲荷台が造成されました。京成臼井駅は、大正15年(1926年)に開業し、昭和53年(1978年)に現在の場所に移転し、平成8年(1996年)に駅ビルが営業を開始しています。

  • 国道296号線の京成電車踏切に面して、旧京成臼井駅がありました。<br />駅舎があったところには、今は臼井保線区の建物があります。長嶋茂雄の母;ちよが、行商に出かけたのもこの駅でした。2013年3月29日に、戦前から70年以上にわたり運行してきた、京成電車の「行商専用車両」が廃止されました。

    国道296号線の京成電車踏切に面して、旧京成臼井駅がありました。
    駅舎があったところには、今は臼井保線区の建物があります。長嶋茂雄の母;ちよが、行商に出かけたのもこの駅でした。2013年3月29日に、戦前から70年以上にわたり運行してきた、京成電車の「行商専用車両」が廃止されました。

  • 現在の京成臼井駅です。<br />佐倉市臼井地区には、王子台や稲荷台、染井野、新臼井田、南臼井台、八幡台、江原台などの団地が次々にできて行きました。

    現在の京成臼井駅です。
    佐倉市臼井地区には、王子台や稲荷台、染井野、新臼井田、南臼井台、八幡台、江原台などの団地が次々にできて行きました。

  • 京成臼井駅北口に建つ、「ようこそ、印旛沼湖畔のまち、長嶋茂雄さんのふるさと、佐倉市臼井へ」の看板です。まったく同じ看板が南口にも設置されています。

    京成臼井駅北口に建つ、「ようこそ、印旛沼湖畔のまち、長嶋茂雄さんのふるさと、佐倉市臼井へ」の看板です。まったく同じ看板が南口にも設置されています。

  • 佐倉中学校です。<br />長嶋茂雄は昭和23年(1948年)に、佐倉町臼井町学校組合立中学(現在の佐倉中学校)に入学しています。臼井から城内町まで、6kmの道を歩いて通学し、1年から1番で正遊撃手、2年で3番を打った。この頃から背が166cmと急成長しはじめた。3年で主将となり大活躍しています。

    佐倉中学校です。
    長嶋茂雄は昭和23年(1948年)に、佐倉町臼井町学校組合立中学(現在の佐倉中学校)に入学しています。臼井から城内町まで、6kmの道を歩いて通学し、1年から1番で正遊撃手、2年で3番を打った。この頃から背が166cmと急成長しはじめた。3年で主将となり大活躍しています。

  • 佐倉高等学校の記念館です。<br />長嶋茂雄は昭和26年(1951年)に、佐倉第1高等学校(現在の佐倉高等学校)に入学しています。身長はすさまじい勢いで伸び、2年生で170cm、3年生で180cmを超える勢いだった。2年生から4番で遊撃手を守る。3年生でキャプテンで4番、1試合4失策をし「サード長嶋」が誕生する。そして、南関東大会のライナーでの、バックスクリーンへの大ホームランへと続いていきます。<br />この記念館の建物では、NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」の撮影も行われました。主人公が、城南女子医学専門学校を受験し、その合格発表を見に来るシーンを中心に撮影されました。 <br /><br />

    佐倉高等学校の記念館です。
    長嶋茂雄は昭和26年(1951年)に、佐倉第1高等学校(現在の佐倉高等学校)に入学しています。身長はすさまじい勢いで伸び、2年生で170cm、3年生で180cmを超える勢いだった。2年生から4番で遊撃手を守る。3年生でキャプテンで4番、1試合4失策をし「サード長嶋」が誕生する。そして、南関東大会のライナーでの、バックスクリーンへの大ホームランへと続いていきます。
    この記念館の建物では、NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」の撮影も行われました。主人公が、城南女子医学専門学校を受験し、その合格発表を見に来るシーンを中心に撮影されました。

  • 佐倉高校地域交流施設です。<br />鹿山文庫を中心に、藩校時代、鹿山精舎時代、佐倉中学時代、佐倉高校時代の資料が展示されています。

    佐倉高校地域交流施設です。
    鹿山文庫を中心に、藩校時代、鹿山精舎時代、佐倉中学時代、佐倉高校時代の資料が展示されています。

  • 地域交流施設内の長嶋茂雄コーナーです。

    地域交流施設内の長嶋茂雄コーナーです。

  • 小・中学校時代の紹介パネルです。

    小・中学校時代の紹介パネルです。

  • 佐倉一高時代の紹介パネルです。

    佐倉一高時代の紹介パネルです。

  • 立教大学時代の紹介パネルです。

    立教大学時代の紹介パネルです。

  • 巨人軍選手・監督時代の紹介パネルです。

    巨人軍選手・監督時代の紹介パネルです。

  • 国民栄誉賞、千葉県民栄誉賞、佐倉市民栄誉賞の紹介パネルです。

    国民栄誉賞、千葉県民栄誉賞、佐倉市民栄誉賞の紹介パネルです。

  • 平成25年(2013年)7月12日に長嶋茂雄は、佐倉市市民栄誉賞を授与され、この日から岩名運動公園第1野球場は、「長嶋茂雄記念岩名球場」と名称変更されました。正式名称として長嶋茂雄の名前を冠した球場は、全国でも初めてとなります。

    平成25年(2013年)7月12日に長嶋茂雄は、佐倉市市民栄誉賞を授与され、この日から岩名運動公園第1野球場は、「長嶋茂雄記念岩名球場」と名称変更されました。正式名称として長嶋茂雄の名前を冠した球場は、全国でも初めてとなります。

  • 平成29年(2017年)6月4日に「長嶋茂雄記念岩名球場」は、プロ野球や高校野球の公式戦も可能な球場に生まれ変わりました。

    平成29年(2017年)6月4日に「長嶋茂雄記念岩名球場」は、プロ野球や高校野球の公式戦も可能な球場に生まれ変わりました。

  • 平成29年(2017年)6月4日のリニューアルオープン記念イベントでは、イースタン・リーグ公式戦(巨人VSロッテ)が満員の球場で行われ、長嶋茂雄が始球式で打席に入り、荻野目洋子が国家独唱を行いました。

    平成29年(2017年)6月4日のリニューアルオープン記念イベントでは、イースタン・リーグ公式戦(巨人VSロッテ)が満員の球場で行われ、長嶋茂雄が始球式で打席に入り、荻野目洋子が国家独唱を行いました。

  • 長嶋茂雄記念岩名球場展示室(記念館)です。<br />球場のリニューアルオープンと同時に、本人を迎えて球場内の展示室(記念館)も開設されています。

    長嶋茂雄記念岩名球場展示室(記念館)です。
    球場のリニューアルオープンと同時に、本人を迎えて球場内の展示室(記念館)も開設されています。

  • ブロンズ像「華」です。<br />佐倉市在住の彫刻家久保浩が、長嶋茂雄をモデルに作成・寄贈しています。

    ブロンズ像「華」です。
    佐倉市在住の彫刻家久保浩が、長嶋茂雄をモデルに作成・寄贈しています。

  • 展示室には長嶋茂雄に関する資料約90点が展示されています。

    展示室には長嶋茂雄に関する資料約90点が展示されています。

  • 写真パナルを中心に、本人のサイン入りのユニホームやバット、ボール、帽子、色紙などが展示されています。

    写真パナルを中心に、本人のサイン入りのユニホームやバット、ボール、帽子、色紙などが展示されています。

  • 岩名運動公園のスポーツ資料館です。

    岩名運動公園のスポーツ資料館です。

  • スポーツ資料館の長嶋茂雄コーナーです。<br />長嶋茂雄記念岩名球場の展示室(記念館)のオープンに伴って、以下に紹介した資料の一部は岩名球場の展示室(記念館)に移設・展示されています。

    スポーツ資料館の長嶋茂雄コーナーです。
    長嶋茂雄記念岩名球場の展示室(記念館)のオープンに伴って、以下に紹介した資料の一部は岩名球場の展示室(記念館)に移設・展示されています。

  • 「野球というスポーツは人生そのものだ」の色紙です。<br />

    「野球というスポーツは人生そのものだ」の色紙です。

  • 小学校時代の写真です。<br />

    小学校時代の写真です。

  • 高校時代の写真です。

    高校時代の写真です。

  • 昭和34年2月の写真です。<br />明石キャンプに出発する長嶋茂雄を、東京駅で見送る、高校生の王貞治です。<br />昭和34年は長嶋茂雄2年目、王貞治1年目のシーズンで、長嶋茂雄が村山実から昭和天皇の前で、サヨナラホームランを打った、有名な天覧試合があった年です。

    昭和34年2月の写真です。
    明石キャンプに出発する長嶋茂雄を、東京駅で見送る、高校生の王貞治です。
    昭和34年は長嶋茂雄2年目、王貞治1年目のシーズンで、長嶋茂雄が村山実から昭和天皇の前で、サヨナラホームランを打った、有名な天覧試合があった年です。

  • 昭和35年12月の写真です。<br />「ホームランを打って」、当時北沢の自宅ガレージの落書きも、少年ファンの願いが込められていました。35年は2度目の首位打者だったが、ホームランは16本でリーグ5位でした。<br />

    昭和35年12月の写真です。
    「ホームランを打って」、当時北沢の自宅ガレージの落書きも、少年ファンの願いが込められていました。35年は2度目の首位打者だったが、ホームランは16本でリーグ5位でした。

  • 平成25年7月の佐倉市民栄誉賞の授与セレモニーの写真です。<br />セレモニーは長嶋茂雄記念岩名球場で満員の市民の前で実施されました。蕨和雄佐倉市長より、佐倉市民栄誉賞の表彰を受けました。

    平成25年7月の佐倉市民栄誉賞の授与セレモニーの写真です。
    セレモニーは長嶋茂雄記念岩名球場で満員の市民の前で実施されました。蕨和雄佐倉市長より、佐倉市民栄誉賞の表彰を受けました。

  • 蕨和雄佐倉市長より記念品として、「銀製の祝球」が贈られました。

    蕨和雄佐倉市長より記念品として、「銀製の祝球」が贈られました。

  • <br />授与式で挨拶をする長嶋茂雄です。


    授与式で挨拶をする長嶋茂雄です。

  • スタンドの市民の祝福に、オープンカーから応えます。<br />レフトスタンドの佐倉高校の生徒の前を通過しています。

    スタンドの市民の祝福に、オープンカーから応えます。
    レフトスタンドの佐倉高校の生徒の前を通過しています。

  • 佐倉市役所です。<br /><br />昭和46年(1971年)に、黒川記章の設計で建てられました。白いカプセルの集合体のような、デザインが印象的な建物です。遠くから見ると、印旛沼に出航する船のように見えます。佐倉市は、昭和29年(1954年)3月31日に、佐倉町、臼井町、志津村、弥冨村、根郷村、和田村が合併して発足しています。<br /><br />長嶋茂雄は平成14年(2002年)5月20日に、佐倉市の名誉市民になっています。また平成25年(2013年)7月12日に、市民栄誉賞が贈られています。ちなみに、小出義雄氏と高橋尚子さんに、平成12年(2000年)10月に市民栄誉賞が贈られています。<br />

    佐倉市役所です。

    昭和46年(1971年)に、黒川記章の設計で建てられました。白いカプセルの集合体のような、デザインが印象的な建物です。遠くから見ると、印旛沼に出航する船のように見えます。佐倉市は、昭和29年(1954年)3月31日に、佐倉町、臼井町、志津村、弥冨村、根郷村、和田村が合併して発足しています。

    長嶋茂雄は平成14年(2002年)5月20日に、佐倉市の名誉市民になっています。また平成25年(2013年)7月12日に、市民栄誉賞が贈られています。ちなみに、小出義雄氏と高橋尚子さんに、平成12年(2000年)10月に市民栄誉賞が贈られています。

  • 国民栄誉賞をお祝いして、市役所に掲示された懸垂幕です。

    国民栄誉賞をお祝いして、市役所に掲示された懸垂幕です。

  • 「長嶋茂雄氏の文化勲章受章をお祝いする会」での記念写真です。<br />巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(85)の文化勲章受章を祝う会が、2021年12月6日に読売新聞東京本社で行われ、岸田文雄首相や森喜朗元首相、御手洗冨士燦燦会会長・キヤノン代表取締役会長兼社長CEO、ソフトバンクの王貞治球団会長兼特別アドバイザー、渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆らが出席し、和やかに懇談しています。

    「長嶋茂雄氏の文化勲章受章をお祝いする会」での記念写真です。
    巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(85)の文化勲章受章を祝う会が、2021年12月6日に読売新聞東京本社で行われ、岸田文雄首相や森喜朗元首相、御手洗冨士燦燦会会長・キヤノン代表取締役会長兼社長CEO、ソフトバンクの王貞治球団会長兼特別アドバイザー、渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆らが出席し、和やかに懇談しています。

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