「みかん・絵日記」考  〜我が家の動物誌〜


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この物語の中で、もっとも繰り返し出てくる言葉…って何だろう、と思って調べてみると、
それは「お母さん」でした。
「お父さん」=草凪藤治郎、「お母さん」=草凪菊子。この物語を読んでいると、時々、主役は吐夢やみかんではなくて、この二人なんじゃないかと思うことがあります。
「お父さん」と「お母さん」はもちろん息子である吐夢にとって両親であるとともに、みかんにとっても「お父さん」「お母さん」であり、そして他ならぬ藤治郎と菊子にとっても互いが「お母さん」であり「お父さん」なのです。
結婚した夫婦、まだ子供がないうちは互いの名で呼んだりするでしょう、あるいは愛称で…でも子供ができたら互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶのがやっぱり自然だし温かい感じがします。考えてみれば「サザエさん」でも「ちびまる子ちゃん」でもそうですよね。もっとも、最近は必ずしもそうでないんですってね。アイデンティティーを大事にしたいのか、子供ができてもあくまで名前だけで呼び合う夫婦も多いとか。
それはさておき。この作品で描かれているのは、この一事でもわかるようにあくまで「家族の絆の大切さ」なんですね。飼い猫であるみかんも含めて。テーマの中心に据えられているのはそれであり、その周囲に杏子ちゃんに対する吐夢の淡い恋心だとか猫仲間同士のやりとりだとか、世良との友情だとかが散りばめられているんですね。主題はあくまで「家族」。
いわば、猫の目を通して「理想の家族ってなんだろう?」と問いかけているのかもしれません。
このあたりが一般的な少女漫画とはある意味一線を画している部分があるような気もします。
少女漫画というと多くは主題が恋愛で、ともすると家族の存在などは視界の外に追いやられてしまうものですが…。
この漫画では「お父さん」である藤治郎、「お母さん」である菊子、ともに穏やかな性格に描かれていて、カミナリ親父とクドクド母ちゃんを両親に持った私にはうらやましい限りですが、なにもおっとりした親だけがいい、とは作者も書いてません。先に触れた、菊子の母親の文江などは超うるさ型の母親ですが、そこにも子供に対する深い愛情が描かれていたように。
それにしても、特に菊子「お母さん」は本当に優しいお母さんに描かれてます。
CD「みかん音楽日記」の中の原作者インタビュー(なんとインタビュアーはみかん=TARAKO)の中でも安孫子三和女史は一番のお気に入りのキャラクターとして挙げています。彼女にとっての理想の「お母さん像」なんでしょうね。
これに近いイメージを求めるとするなら…「ムーミン」に出てくるムーミンママかな。
おっとりしてるんだけどしっかり者で、何かつらいことや悲しいことがあっても「きっとまた、いいことあるわよ」と慰めてくれそうな。(^^;

「みかん・絵日記」 11巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第11巻 より)

12巻。
文江おばあちゃんがギックリ腰になってしまい、菊子お母さんは急遽看病のために実家に戻ることに。その間、お父さんと吐夢、それにみかんとこりんご(みかんの息子)でお留守番をすることになってまたさまざまな珍騒動が繰り広げられるんだけど、そこで「母の存在感」の大きさというものがそれとなく描かれるんですね。
男ばかりの合宿かキャンプのノリで?外で食事をしたのが原因か吐夢は風邪をひいてしまいます。
「日曜の日差し…のんびりとした休日の気配がそこここにあふれてて…だけど、ここで、お母さんがいてくれればいいのにな…そばにはついてくれなくても家にいてくれたら、とふと思う…」
寝入った吐夢の様子を見に来たみかんの手をつかんで思わず「お母さん…」と寝言をいってしまう吐夢。
それを聞いた藤治郎、
「『お父さん』とはめったに呼ばれないのが悲しいよなっ」
「じゃあ、そのお父さんは…イザという時、誰呼ぶの?やっぱり菊子お母さん?」
「いやっ、『母』という存在は人みな誰しもに大きくてな…実家の「お母さん」か菊子「お母さん」かわかりませんよ…」
「れ…?じゃあ、お母さんは?菊子お母さんは誰呼びまし?本当に心細くなった時…」
「そりゃやっぱりお母さんも「お母さん」って呼ぶんじゃないかなァ…「文江お母さーん」って…それが「大事な人」だってことだよ」

「みかん・絵日記」 12巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第12巻 より)

家族や親兄弟って普段あまりに身近なものだから、そのありがたさに気づいていてもついついお座なりにしてしまうこともありますよね。それが当たり前のように思ってしまっているから、父親や母親が何か言っても
「うるさいなぁ、わかってるよ」とか、
「大丈夫だよ、もう子供じゃないんだから」
なんて言ってしまったりする。たいていの人は経験してるでしょう?
それを母親は苦笑いしながら聞いてたりします。
だけど、普段空気のように思っている、その絆がいかに大事なものであるかということに人はなかなか気づかないこともある。
親の臨終のときになって、あるいは親が植物人間のようになったときになって気づいても遅いんですよね。
今の日本、大家族が核家族になって、さらに親と子が共有する時間がどんどん減ってきている気がします。ある程度大きくなったら子が親から離れるのは当然だけど、まだ年端もいかないうちから両親ともに子供と過ごす時間が少なく、子供は家で一人でゲームばかりやってる。親と子の会話の時間が減っている…それが殺伐とした世相の原因のひとつと言ってもあながち間違いじゃないような気もするんですが。
もう一度、身近な絆の大切さというものを思い起こす必要があるのではないかな、と思うんですよね。
「本当の幸福は身近なところにあるんだよ」ということをもう一度…。
「親兄弟より友人だ!」なんて言う人がいます。
でも本当にそう??
少なくとも、本当に親身になって相談に乗ってくれる友人ってみなさん、何人いますか?自らの身を挺してまで相談に乗ってくれる友人って。ふつう、そこまでしてくれる友人はいないと思いますよ。同情はしてくれても。
今たくさんいる「友人」は、遊ぶ時だけの友達なのじゃないですか?そして、それが普通だと私は思うんです。それ以上を要求すること自体、酷だと思う。
私にとっては「友人よりも親族」なんですよね、イザという時には。
だから親族同士の付き合いというものは大事にしてます。古い人間だと思われるかもしれないですけど…。
身近な家族の絆がしっかり固まっていてこそ、初めて今度は友人という枠で絆を作る余裕が生まれる。
もっとも大事な絆を捨ててしまって「友人」との絆にすべてを期待してしまうのは、あまりに危うい、あまりに悲しい…。

ネコニャン電卓

当時、実はこんなモノも買ってました。「ネコニャン電卓」。(^^;
キーを押すと「ニャン」「ニャン」「ニャン」と音階の違ったみかんの声がします。
「ニャンニャンニャンニャンニャン たす ニャンニャンニャン いこーる ニャンニャンニャンニャンニャンニャン♪」
計算エラー(「12÷0」とかやると)の場合、みかんが「やだっ!」と言います。
職場で使うと女子社員に大ウケしますが、上司がやってきてアタマを「パコッ!」と…。(^^;;;
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