両国橋花火のにぎわい
両国橋は明暦大火で多数の死者を出した反省から二年後の 一六五九年(万治二年)隅田川の橋を増設した時に掛けられ、橋の両側は、火除け地とされました。
また隅田川の川開きは、一七三三年(享保十八) 徳川吉宗が前年のコレラ大流行の死者の霊を慰めるための行った供養が始まりとされ、共に災害と縁があります。
下は一八五九年(安政六年) 五雲亭貞秀の両国橋夏景色で、両国橋が出来て 二百年、明治維新まで十年足らず、江戸最後の賑わいの図です。
両国橋の夕涼みと花火は江戸の華。歌川広重・葛飾北斎他の浮世絵・絵草子を揃えました


元禄時代の 両国橋
両国橋完成から四十年程後、元禄の両国橋です。
帯刀している人が多い様に 武士の勢いがまだ有り、江戸の発展に自信を持っていた時代です


元禄時代(1700年頃) の花火
現在ならスーパーに売っていそうな花火ですが大変高価だったようです。
屋根船の中央が、大身の武家の夫婦で腰本・小姓と男女の芸者が見えます。
御用商人の接待かも知れません。

江戸の花火 玉屋と鍵屋
江戸の花火は、太平の世、不要となった火薬製造業の業種転換から始まり、江戸期を通じて技術を高めて行きました。その代表が鍵屋です
左は菱川豊春の中州納涼図の一部で、花火舟は玉の提灯から玉屋です。
玉屋が鍵屋から分家したのが、一八一○年なので、画はそれ以後です。(玉屋はそのわずか三十二年後に失火により追放されます)


江戸名所図会(1700年頃)の花火
江戸名所図会は、寛政頃の江戸を活写した貴重な資料です。両国橋の両側の火除け地が 大きな盛り場になっています。
花火も規模が大きくなりました。宝井其角の句
一両が花火 間も無き 光かな


葛飾北斎の両国橋(1700年頃)の花火
上は北斎が勝川春朗の名で修業していた頃の 江都両国橋で後の北斎の奔放さは有りませんが、明るさの残る夕空と そこに散る花火の光の良い絵です
下は江戸最後のバブル期文化文政の隅田川納凉。上と比べると画の奥行きが深くなっています。右端の歌は
不二の雪 筑波のしげみ 両肩に 荷なうて涼し 両国の橋
富士山と筑波山が、左右に見られるのが ここの自慢でした。


広重の花火
花火と言えば広重
右はは東都名所の内 両国橋花火の図
左は 名所江戸百景の内 両国花火 です


広重の花火 もう1枚
両国納凉大花火です。遠景に打ち上げ花火と流星が見えます


江戸末期
花火の絵も何か装飾的で 現実感やおおらかさが無くなって来ます。
上は一竜斎(歌川)国虎 下は歌川貞房 共に江戸後期の浮世絵師です。


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