板橋区のあらまし |
●区名の由来 |
板橋区の地名が書物に登場して来るのは古く、軍記物で有名な「源平盛衰記」や「義経記」によれば、治承4年(1180)には頼朝や義経が「板橋」の地に、陣をとったことが記されています。 今から800年前には、「板橋」の地名がすでに使われていたようです。 しかし、地名発祥の由来については、はっきりとした資料はなく、おそらく石神井川につけられた「板の橋」が当時としては珍しく、いつしか口から口へと語り伝えられ、道中の目安となったのでしょう。 江戸時代になると、中仙道の宿場名に使用され、江戸四宿(新宿・品川・千住・板橋)の一つとして世に知られ、明治以降町名として採用され、昭和7年、区誕生の時に区名となりました。 |
●位置・面積 |
板橋区は、東京23区の内、北西部に位置し、面積は、 32.17uで 23区中9番目に広い区となります。 |
●地形 |
平均海抜30m前後の武蔵野台と、荒川沖積低地で形成されている当区の地形は、おおむね北部が低地、南部が高台となっております。 高い地点は徳丸変電所近辺(約35m)などで、低いところは新河岸川と荒川に挟まれた地点(約2m)となっております。 また、南東から北西に長い地形となっております。 |
●地質 |
当区の高台は武蔵野台地の一部です。この大地は数年前、古い荒川や多摩川などが流れるはんらん原でした。武蔵野(成増)の砂利は、当時の川が積み残した川砂利です。 その後、川の流れのはんらん原を掘り下げ、今の荒川や多摩川に取り残された部分に、富士山などの火山灰(関東ローム層)がたい積し、今日の大地をつくりました。 また、地層などから、この地がかつて海の底であったようです。 |
●人口の推移 |
昭和7年10月、板橋区が誕生した当時の人口は、12万168人でした。 その後、戦時中の軍需工場の集中とともに、人口も飛躍的に増加し、昭和15年には、23万3115人と、わずか8年間に2倍近く増加しました。 終戦の年には、21万7974人に減少しましたが、戦後の復興と高度成長期を通して昭和40年まで増加の一途をたどりました。 昭和41年以降は、高島平地区の開発、工場跡地のマンション化などにより、微増傾向が続き、昭和60年の国税調査で、人口50万人を超え、平成12年の国税調査では、51万3575人となっています。 〜平成14年4月現在の住民基本台帳データーでは〜 人口=51万7390人(外国人登録1万4104人含む) 男 =25万8156人(外国人登録6553人含む) 女 =25万9234人(外国人登録7551人含む) 世帯数=25万2092世帯(外国人世帯含む) |
●区の予算額 |
1527億円(平成14年度一般会計当初) |