令和六年四月、祖父で人間国宝だった十代豊竹若太夫の名跡を十一代目として襲名する。
「それはもう、念願でしたから、うれしいの一言です。もちろん、名前が大きいだけにプレッシャーや責任はあります。でも、いまは心中、『やったるぞ』という気持ちがふつふつと沸いてきています」
親しみやすい笑顔の奥に気概の炎が見えた。
若太夫の名跡は、義太夫節を創始した竹本義太夫の高弟、竹本采女が一七〇三年、道頓堀に豊竹座を創設するに際して名乗ったのが始まり。豊竹姓の元祖であり、文楽にとって由緒ある大名跡でもある。
呂太夫は、戦前から戦後にかけて活躍した人間国宝、十代若太夫の直系の孫。先代が昭和四十二年に亡くなって以来、実に五十七年ぶりの名跡復活となる。
「正直、若いときは自分が襲名するとは思いもしていませんでした。祖父のお弟子さん方もいらっしゃいましたし、あまりにも名前が大きかったからです。昨年四月、物語のクライマックスを語る切場語りに昇格させていただいたことが、襲名への引き金になりました」
そもそも、文楽の世界に進むとは思ってもいなかった。東京大学の受験に失敗、小説家になりたいと漠然と思っていた頃、祖父が亡くなった。通夜の日、兄のように慕っていた祖父の弟子、五代豊竹呂太夫が銭湯に連れていってくれた。「太夫になれ。声も大きいし、弁論部でも優勝したし、いける、いける」。その場で勧められたのが、この世界に入るきっかけとなった。
子供の頃から祖父の関係で劇場にも楽屋にも出入りしていた。浄瑠璃はいつも身近にあった。だが、それだけに修業の厳しさも肌で感じていた。自宅で祖父が弟子たちに稽古をつけている厳しい声が漏れ聞こえてきたからだ。「この世界に縁がないと思っていたんです」
ところが、久しぶりに道頓堀の朝日座に文楽を見に行ったとき、文楽という芸のすごさ、奥深さ、そして芸術性に息をのんだ。上演されていたのは「弁慶上使の段」。
「(竹本)津太夫師匠の迫力ある語り、先代の(鶴澤)寛治師匠の三味線の音色の素晴らしさ、そして文楽人形の横に人形遣いの顔があって、これはすごい芸や、シュールレアリスムやと、本当に、目からうろこでした」
昭和四十二年、三代竹本春子太夫に入門し、祖父の幼名の豊竹英太夫を名乗り、翌年初舞台。四十四年に春子太夫が亡くなると、人間国宝だった四代竹本越路太夫の門下となった。
いまや時代物から世話物、そして新作文楽でも活躍。なかでも、平成二十九年、自身の六代豊竹呂太夫襲名披露公演で勤めた時代物の大曲『菅原伝授手習鑑・寺子屋の段』や、祖父の当たり役だった『摂州合邦辻・合邦庵室の段』などは、研究を重ねた語りに究極の人間悲劇が描かれ、聞く人の胸を打つものとなった。
「僕の中のどこかに祖父のDNAがあると信じています。祖父の音源を聞くと、豪快でありながら深い情がある、それでいて晩年は精緻な語りになっている。これや、これや、と思うんです」と言いつつ、「越路師匠をはじめ師匠方や兄弟子方にきっちりした型を稽古していただきました。これは僕の財産です。そこに祖父から受け継いだものと自身の工夫で、自分独自の芸を作り上げていきたい。いま、やっと、いろんなことがわかってきたように思います」
かつて、祖父の贔屓だった早稲田大学の内山美樹子名誉教授に「若太夫師匠は七十歳になってからでも進化していた」と聞いたことがあった。
そう思って音源を聞くと、「確かに変化しているんですね。祖父の芸は一言でいうと豪放でしたが、それが年を取ってからきめ細かくなってきていたのです。わざと音程をはずしてるな、というところもわかってきました」
自身、七十七歳での襲名に思うところもある。
「いまの時代、祖父の頃から寿命も随分伸びています。七十七歳といっても、感覚としては六十歳くらい。それなら、僕は八十歳からでも進化してやると思っているんです」
襲名披露公演は来年四月の大阪・国立文楽劇場、同五月の東京・シアター1010で行われる。
今後は、祖父の当たり役にも改めて臨み、練り直しながら、自分独自の世界を作っていきたいと顔を輝かせる。
「まだまだ、これからですよ」
インタビュー・文/亀岡 典子
撮影/墫 怜治
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