今年、人間国宝に認定された。記者会見の席上、「寿命ある限り、後輩たちに曲を正確に伝えていきたい」と、厳しい表情で語った。自分のことよりもまず、文楽全体のことを考える。それが、いまの立場なのかもしれない。
平成二十六年に竹本住太夫さん、二十八年には豊竹嶋太夫さんという二人の人間国宝が相次いで舞台を去った後、現役唯一の「切場語り」として文楽太夫陣を牽引してきた。この間、腰を悪くした時期もあったが、治療の甲斐あって見事に復活、それだけに冒頭の言葉は重い。
スケールの大きな語り、本の深い解釈、卓越した技量で、重量感と品格の必要な時代物から、豊かな芝居心を生かして庶民の喜怒哀楽を描く世話物まで、芸域は幅広い。
八月、大阪・国立文楽劇場で開催された「文楽素浄瑠璃の会」では、本公演でもコンビを組む鶴澤燕三の三味線で、「義経千本桜」より、狐忠信が主人公の「河連法眼館(かわつらほうげんやかた)の段」を勤めた。
「人生で一番多く語った曲」というが、独特の技巧を要する「狐詞(きつねことば)」を駆使しつつ、親を慕う子狐の情や、狐に同情を寄せる義経の思いに、人間の業という作品全体のテーマを集約させて語り、聞く者に深い感銘をあたえた。
才能と環境に恵まれ、幼い頃から浄瑠璃の申し子のように育ち、順風満帆に王道を歩んできたように思えるが、二十年ほど前には腎臓の病で一時は再起不能かと絶望した時期もあった。近年も、腰を悪くするなど、厳しい時代もあった。そういう経験が、語りをより深く、豊かにしているのであろう。
人間国宝だった八代竹本綱太夫を父に、九歳で、父の師匠でもあった名人、豊竹山城少掾に入門。精進を重ね、平成二十一年、切場語りに昇格した。
「門前の小僧じゃないですが、子どもの頃からごく自然に浄瑠璃を覚えました。劇場や楽屋は遊び場代わり。父が自宅に訪ねて来られる新聞記者や評論家の方々に話す芸談を聞くともなしに聞いたり。いい育てられ方をしたと感謝しています」
初舞台のとき、父に「どんなつもりで語ったらいいの」と質問した。 父は「素直が一番」と一言。
「ようやく、ここ一、二年、そういう心境になれました」と笑う。
もうひとつ、父に感謝していることがある。歌舞伎、日本舞踊をはじめ、さまざまな芸能のジャンルの名人に引き合わせてくれたことだ。
「たとえば、語っているとき、ふと、先代(十七代目)の(中村)勘三郎さんの舞台姿が浮かぶことがある。ああ、あの感じでやればいいのかなと思える。僕も心の中で芝居しているんですよね。あるいは、十一月の国立文楽劇場で勤める『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)・大和屋の段』でも、まくらだけで昔の北新地の雰囲気を出さないといけない。そういうさまざまなことも、歌舞伎を見たり、長唄や清元などを聞いたりすることで、わかることがあるんです」
歌舞伎の人間国宝、片岡仁左衛門さんとは幼なじみで、いまもよく会って忌憚なく舞台の話などをするそう。この夏の大阪の天神祭でも一緒に文楽船に乗ったほど仲がいい。
「同世代に一緒に切磋琢磨できる友がいる。幸せなことだと思っています」
七十代半ばとなり、円熟の語りを聞かせる一方、「年のせいでしょうが、高い声が出にくくなってきた」という。
「その代わり、年齢を重ねてわかることが出てきた。ひょっとしたら、いままでできなかった語りができるかもしれない」
今後の自身の使命を「後進を育てること」ときっぱり。「野球でいうと、ずっと巨人軍の四番を打っていた川上哲治さんが、長嶋茂雄さんが登場したとき、長嶋さんに四番を任せて自身は六番に下がった。 そういう決断も大事。
この文楽というすごい芸能を次代にしっかりつないでいくために、太夫の三番、四番を育てていくことが、僕のこれからの大事な仕事だと思っています」
若手に言いたいのは、「ガツンと打たれてもいいから、まずはど真ん中の直球を投げることを覚えてほしい」。
いま、凝っているのは、落語を聞くこと。特に江戸落語が好きだという。
「勉強になりますね。いや、勉強するつもりで聞いているのではなく、楽しみなんだけど、それでも自然に勉強になっている。なるほど、廓噺はこういうふうに語るのか、とかね。人生で見聞きするもの、すべてが浄瑠璃につながります」
円熟と華の語りで現代文楽を牽引する。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/飯島 隆
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