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よつばの学校 全職員向け講座 番外編 報告

私たちはなぜ農村を目指したのか(上)



 さる8月27日、「よつ葉の学校・全職員向け講座――能勢農場・よつ葉の活動を通して社会を考える」の番外編として「私たちはなぜ農村を目指したのか」と題するシンポジウムが行われた。能勢農場・よつ葉が食べものの生産・流通にかかわる事業をはじめた1970年代前半、日本各地でも社会運動の拠点づくりを農村に求めた試みがはじまっていた。それぞれ異なる動機や背景を持ちながらも、当時、日本が直面していた社会の変化に対応するものだったと言える。彼らが何を求め、何を生み出そうとしたのか、当事者お二人の発言(今号)と質疑応答(次号)で紹介する。



地に足のついた社会変革をしなくては…


北海道標津町・興農ファーム:本田廣一さん



アメリカに勝つ農業をしたい


 僕の農場は北海道の知床半島の付け根、ちょうど知床の国立公園が始まる境界線上のあたりにあります。いまから42年前に東京から移って農場をはじめたわけですが、あのころは、橋本さんとは違って、何しろでっかい牧場を作りたいというのが僕の夢でした。アメリカに絶対勝ってやろうと思ったわけです。アメリカに勝つためには、日本で最低でも100ヘクタールの面積はやりたい。その土地で集約型農業をやれば、アメリカ型粗放農業に対して5倍くらい効率性が上がり、500ヘクタールの規模に匹敵する。そのためにはどこがいいかと考えた結果、北海道の根釧原野しかないと分かったんですね。

 そこで、その土地を買うために、22歳の時に東京でお金づくりをはじめました。いまから50年近く前になりますが、ビルの清掃の会社を立ち上げて、そこで金を貯めました。僕はけっこう営業能力もあるんです。最高裁判所の掃除をしたり、大林組の本社の掃除をしたり、なんと検察庁の寮までやったことがあります。僕は前科者ですが、会社の社長は別の人がしていたので、大丈夫だったんですね。

本田廣一さん
 ■本田廣一さん
 そんなことで必死に仕事をして、5年間で2500万円ぐらい貯め、そのお金を持って北海道に行って、農地を買うことにしました。

 あのころ、根釧原野では農家一軒あたり40~50ヘクタールで酪農・畜産をしていましたが、ちょうど「農家の規模を拡大しましょう」という時期だったんですね。当時は中川一郎さんが農林水産大臣でしたが、ヨーロッパを追い越す農業をするために、現在の営農面積にさらに50ヘクタールを加えてやっていこうというのが国の方針になっていました。まさに規模拡大の時期にあたっていたんですね。その流れにぶつかったということもあって、僕らも、標津町の中心からちょっと離れたパイロットファームのところに、ちょうど離農者が出るという情報を聞いて、最初に45ヘクタール農地を買いました。それ以降も次々に拡大して、いまは140ヘクタールくらいの面積でやっています。


獣医から酪農への転換

 今日は、津田さんから、なんで農村を目指したかという話をしろと言われています。実は、僕は日本大学の獣医学科にいました。日大闘争が起こらなければ、本来はいまごろきっと日本中央競馬会の獣医として過ごしていただろうと思います。実際、中央競馬会への就職が決まっていて、あとは卒業するだけという状況でした。というのも、僕の叔父さん(父親の兄)が本田憲二さんという中央競馬会で障害専門の騎手で日本記録を持っていますが、その伝手があるのと、日大の獣医学科は中央競馬会の中で一番出身者が多いということで、大学一年の時から就職は決まったようなものでした。

 ですから、日大で闘争が起こらなければ、そのまま就職したんでしょうが、運命のいたずらということでしょうかね。ただ、僕は中央競馬会に入るということが前提だったので、学生の時から馬術部で馬に乗っており、家畜を扱うことについてはある程度慣れていたと言えます。大学を辞めさせられ、新たに農業(酪農)をやろうと決めた時にも、家畜を扱うことに抵抗感はなかったですね。

 20歳の時、日大闘争が華々しい時に全国指名手配されて、伊豆の下田で逮捕され、刑務所に持って行かれるわけですが、こんな簡単に警察に捕まるようじゃ、世の中を変えようなんて言ったって全然話にならないなというのが、捕まった時の第一印象でした。やっぱり地に足のついた社会変革をしなくてはいけないということで、刑務所の中で一生懸命、何をやるべきか考え、本を読んだりしていましたが、農業をやるしかないというのが自分の結論でした。

 それで、自分で農業をやるとすれば、どこでやるかということですが、100ヘクタールの面積を確保して反あたりの生産性を上げれば、もともと日本は反あたりの生産性は非常に高くてアメリカに勝っていますから、100ヘクタールあればアメリカの500ヘクタールの農業に対抗できる。だからそんなに難しい話ではないだろうと思いました。

 ところが、当時、僕らみたいな若い人間が農業をやりたいと言えば、ただで農業ができるくらいに思っていたのに、現実には農地を買わなくてはいけないと初めて知ったわけです。そこでいったん北海道に行ったのを東京に戻って、ビル清掃の会社を作ったということです。結局5年間でお金を貯めて農地を買うことになりました。

 学生運動でドンパチが始まって、どうしたら世の中を変えていけるのかというときに、一つは、よって立つ基盤みたいなものが、当時は大学の中でドンパチやっていましたから、なかったというのが一つと、もう一つは、世の中の矛盾がどういうふうにあるのかということを勉強する場所がないということもあって、それには自らが生産することと学ぶことが同時進行できるようなものとして、やはり農業をするのがいいというのが僕の基本的な考えでした。そのために農地を手に入れて、自分たちが農業者になっていくということを考えました。


有畜複合総合農業を確立

 ですから、そのためにどういう農業をするのか問われた時に、いま日本で畜産をやるにしても何にしても、日本の畜産の実質的な自給率は16パーセントです。というのは、飼料はほぼ100%輸入していますから、飼料の輸入が止まれば日本の畜産はゼロになる。つまり、飼料そのものを自分たちで作らない限り日本の畜産の未来はないという状況です。そこで当時から、飼料を作ってなおかつ家畜を飼う、そのために有畜複合総合農業という名前を付けて、飼料を自給しながら、日本の畜産として自立していけるような農業をしたいというようなことを考えていました。面積にこだわったのは、そんな理由もあったんです。

 いま、僕の農場の飼料には、輸入のものは一切使っていません。もともと飼料用トウモロコシは日本にないものなので、トウモロコシは使いません。世の中には、トウモロコシを使わないと畜産などできないという「トウモロコシ神話」みたいなものがあるようですが、別にトウモロコシを食べなくても家畜は大きくなります。まったく心配はありません。むしろ、トウモロコシを食わせれば食わせるほど肉はまずくなるし、牛乳は腐りやすくなる。トウモロコシには害はあっても益はないというのが僕の考え方です。

 だから、基本的には麦を使っています。北海道は麦の産地なので規格外の麦も結構あり、それを年間1000トンくらい手に入れて使っています。農場でも麦を作っています。いまでは菜種も作るようになったし、あとはジャガイモです。麦と菜種とジャガイモがあれば、基本的に外部の餌を使わなくてもできるだろうと考えています。輸入はもちろん、自分たちの農場の外からできるだけ買わないようにしようというのが基本的な考えでやっています。

 日本の畜産の有り様というのは、はやく大きくしようとか、肉や牛乳をできるだけたくさん生産しようとしています。牛乳の場合は、できるだけ脂肪分の多いものにしようとしている。僕からすれば、そんなことをすればするほど味はまずくなるし腐りやすくなる。

 だいたい牛から搾る牛乳は3%くらいの乳脂肪分で十分なんです。というのも、本来、牛乳というのは子牛を育てるためのものですから、たとえば乳脂肪分4.5%なんていう牛乳は、子牛が下痢してしまう不自然なものなんです。それなのに、濃い牛乳がいいんだということで、高タンパク高カロリーの餌を与えている。ところが、細胞分裂の数は決まっているので、いくら高タンパク高カロリーの餌を与えても、細胞膜がしっかりしないまま成長させるため、小児肥満のような状態になっちゃうわけです。それで小児肥満の子どもが風邪を引きやすいとか病気にかかりやすいのと同じように、家畜もなってしまう。

 僕は逆に低栄養でゆっくりと細胞膜のしっかりした牛や豚を作るようにしています。作物も化学肥料や農薬は使わず、堆肥を基本にしていますが、ただし、世間で堆肥を使う人の中には、成分分析をして肥料成分が何%だなんて言っている人がいますが、そもそも堆肥は肥料成分として入れるものではありません。いかにして土壌内の微生物が速くたくさん分裂していくかということで使うわけで、それで微生物が土壌内の有機物を分解したり、微生物が死んでいった結果としてできる残渣が栄養分として作物に吸収され、作物が育っていく。

 いずれにしても、自然界の生物はそんなに急に成長しません。だから、本来の動物の生理に沿った飼い方、植物の生理に沿った栽培方法をきちんとやって、それをいかに多くの人に食べてもらうか。つまり、違いが分かるものとして作っていくというのが、農業をする上で一番大事なものだと思っています。現在の農業技術や栄養学に疑問を持つ農業を実践し、それを通して人も育てることが重要だと考え、僕たちの農業を有畜複合総合農法という理論にまとめたわけです。


自然界の仕組みに沿った農業

 だから、化学肥料や農薬を使わないのはもちろんですが、堆肥についても完熟したもの以外は入れない。そうすると肥料成分はほぼありませんが微生物はたくさんいるので、土壌内は活性化しますから、非常に味のいい作物ができます。家畜の草の食い込みもいい。豚なんか放牧地に放牧すると餌の時間になっても畜舎に帰ってこない。草がおいしいのでずーっと草を食べている。春の草はとくにおいしいらしく、2~3日畜舎に帰ってこないこともあります。つまり、おいしい草を作れば、牛も豚も喜んでそれを食べ、おいしい肉になる、ということです。

 土壌内の微生物が増えて活性化すればするほど土壌がよくなっておいしい草ができます。それは同時に、いわゆる雑草が増えるということでもあります。多くの農家は雑草がはえる農業は大変だと思うでしょうが、雑草が生えないような農業の方が恐いことは言うまでもありません。

 雑草が生えると何が問題か。作物が吸収する栄養を横取りされると考える人がいますが、そんなことはあり得ません。たとえば一個の作物が吸収する栄養分なんてほんのわずかです。ところが、作物の光合成を邪魔するような、背の高い草があると作物の成長は阻害されるので問題です。逆に言えば、光合成の妨害にならないような雑草なら取る必要はないと思っています。

 実際、うちの農場は雑草がたくさんあり、その中に作物が点々と育っています。農場で働いている従業員も、経験者でなければ、最初から雑草が生えているのが当然だと思って違和感を持ちません。ところが、なまじ農業の経験があったりすると、雑草こそ農業の敵だと思いこんでしまっているので、薬を使おうかという話になってしまう。

 雑草を取ってしまうとどうなるか。太陽光線が直接土壌に当たります。作物の栽培に使う土壌の層は、だいたい地表から4センチくらいです。だから、必要な土壌が太陽光で殺菌されてしまう。逆に雑草が生えていれば、土壌内の微生物はどんどん繁殖し、土壌は良くなる。こういう農業をいかにして増やしていくのか、ということです。

 なぜ興農ファームが有畜複合かと言えば、農業と家畜との関わりに遡ります。もともと農業に家畜が入ってきた理由は、肉や乳よりも糞尿にありました。糞尿をいかにして堆肥にして土壌に還元するかということです。

 人間が定住するためには、同じ土壌で繰り返し作物が収穫できる必要があります。しかし、一度収穫すればその分の土壌の栄養素は失われてしまい、その分を補填しなければ継続的な収穫はできません。そのため、人類は長い間、苦労して土地を点々と移動しなければならなかったんです。ようやく定住できるようになって、そうした苦労をしなくてもよくなったわけですが、そこで大きな役割を果たしたのが家畜の糞尿です。家畜の糞尿を堆肥にして土壌に還すことで、同じ土壌で繰り返し作物が取れるようになりました。ですから、家畜のもともとの役割は肉や乳よりも糞尿にあったわけです。

 僕らも基本的には、そういう想いでやっています。つまり、いかにして家畜の糞尿を堆肥にして土壌に還すか。畑を耕すためには、いろんな微生物が必要なので、僕らが畑を作る時にも、微生物が生きていくために必要な栄養をどうやって与えていくか考えて、これまでやってきました。


学びながら働く学校づくりを

 僕としては、このようにこれまで考えてきたようなことを勉強する学校を作りたいと思っています。人間と自然がうまい具合にかみ合った農業をみんなが学べるような学校を農場の中に作りたいと、あれこれ構想しているところです。

 学校ができれば学生が来ますから、地域の人口も増えます。学びながら農場で働き、農場で生産されたものを加工する。加工の現場ができれば地域の人々を雇用することもできる。学校を出た人も標津で働くことができる。そんな空間をどう作るかというのが、これからの興農ファームに与えられた使命だろうと思っています。

 そう簡単にはいかないでしょうが、少なくとも方向性ははっきりしている。

 いまから40数年前、僕が標津町に来た時、人口は7500人でした。いま、5400人です。このまま行けば、いつか町が成り立たなくなるのではと思っています。なんとか人が減らないようにしたい。そのためには、地元に働く場所、子どもを育てられる場所がなければいけません。そんな場所づくりを、農場を中心にやっていきたい。

 実際、農場で働く人たちのための保育施設を作ろうと準備しています。預かった子供には農場の生産物を食べさせたい。子どもの頃からまともなものを食べさせることで、きちんとした味覚を育てていく。幼い内にまともな味覚が育たない限り、大人になってからでは手遅れです。ここにいる皆さんは手遅れでしょう(笑)。

 ともあれ、この間、農場も世代交代で僕は経営から退いたこともあって、やりたいことをやれる状況になりました。いま言ったような構想を実現するために力を尽くしたいと思っています。みなさんも時間があればぜひウチの農場に来て下さい。



原点に戻りたいという気分があった

京都府日吉町・アグロス胡麻郷:橋本 昭さん


 アグロス胡麻郷の橋本です。支離滅裂な話になるかもしれませんけれども、過去の話を思い出しながら喋らせてもらいます。

ヒマラヤを歩いた大学時代

 先ほどの本田さんとほぼ同じような時代で、今から43年くらい前に京都市内から南丹市の胡麻というところに、今風にいえば新規就農ですが、移住という感じで入りました。

 もともとは京都府立大学に6年間ほどいました。よほど勉強が好きだったのかというと、そうではなくて、山岳部で遊んでいたら、いつのまにか6年たっていました。そのあと京都大学の大学院にお世話になって、大学の在籍は12~13年という感じです。

 山登りにのめり込んでいましたが、あの当時はヒマラヤに行くような先輩たちがいて、その先輩たちが威張っていて、僕たち後輩はいつも兵隊のようにヒマラヤ登山の手伝いなどをしていました。先輩たちは「エクスペディション(海外遠征)」などという英語を使って、東京オリンピックのようなお揃いのブレザーを着て、飛行機のタラップを上っていきました。そういうのを見ていて自分は、ヒマラヤの山を見てみたいという思いはあったけれども、ああいう隊列を組んで、金に物を言わせるようなやり方は気にくわないなと思っていました。それで、22~3歳の頃にヒマラヤの方に一人で出かけました。ヒマラヤの山を半年ほど、合計1000kmくらいトレッキングというのか、自分の足で歩いてみました。その辺から少し自分の進路がおかしくなってきたのかもしれません。

 そんな生活をしながら、ちょっと休憩でカトマンズの日本大使館に行ったら、日本の新聞があって、日大の全共闘だったか、東大の安田講堂だったか、学生運動が活発になっているというニュースが載っていました。その頃、エベレストのナムチェバザールという村のあたりに日本人がホテルをつくるという話があって、ぶらぶらしていた僕も一緒にやらないかと誘われて、ホテルづくりに関わろうかなと思っていましたが、大使館で見た新聞記事を読んでいたら、大学の時に自分が考えていたようなことが学生運動の問題になっていて、ヒマラヤにホテルをつくるよりも日本に帰った方がいいと思うようになりました。大使館の庭にはサルビアが咲いていたことを覚えています。帰ってからは大学院に行くという道がいちおうは開いていたので、ネパールは引き揚げて日本に帰ってきました。


学生運動と世間とのギャップ

 それで大学院なるものに行ってみたのですが、らちがあくような勉強をしているわけでもないし、全共闘運動がさかんになっていた時期で、ご多分に漏れず大学にバリケードを張って封鎖するなどということがありました。僕は政治的なことはあまりよく分かってはいなかったのですが、なぜかブントというセクトと近いところにいて、少し影響を受けたと言えば受けたのですが、ノンセクトのラジカルという立場で、大学のあり方をどう考えるかという問題に主に関わっていました。

 農学部を封鎖しているのですが、夜中にはバリケードを抜け出して、ラーメンを食いに行くこともありました。百万遍に「ランブル」という喫茶店があって、たまたまコーヒーを飲みに行ったら、いつも通りタクシーの運転手とか、おっちゃんたちが集まってコーヒーを飲んで、明日は競馬はどれが勝ちそうだとか、なにげない話をしていました。僕らは大学の中では「こうあるべき」という議論を激しくやっていたのですが、大学の中と外とが全然つながっていないように感じて、このまま大学の中にいても仕方がないなと思うようになったのです。

 これからどうしようか考えていたとき、僕は母一人子一人で勤めをしていた母親の世話になっていましたが、その母親が社長とケンカして辞めたと言って帰ってきました。「明日からあんたを食わしてやることはできない」と宣告を受けて、なんとか自分の生活を立てなければならないし、大学での闘争も捨て去るわけにもいかない。だいぶ悩みました。それで、ランブルで感じたことというのか、自分たちは大学でわいわい言っているけれども、世間はそんなには思ってはいないという実態、そのつながっていないのをなんとかしたいという思いで、もちろん現金もいるので、自宅を改造して飲み屋を開業しました。
橋本昭さん
 ■橋本昭さん

 飲み屋で、酒や食べものを出したりして、いろんな人が来ていろいろ喋ったりという場をつくるなかで、大学闘争で思ったり考えたりしたことを、みんなと交わしたいと思ったわけです。いろんな人がたくさん来て喋ってという、そんなことをやっていました。

 でもいろいろな問題はもちろん解決していないわけです。世の中は、平和と民主主義のベースの上に、資本主義というのか近代化がどんどん進んでいく。便利と言えば便利になっていくけれども、自分が小さいときに見ていたものとはまったく違うものになってきて、恐怖感か危機感か、自分の思いはそんなものに根ざしていたように思います。そのへんの自分の問題意識とか感覚というものを、飲み屋さんという場でやろうとしたけれども、飲み屋を5~6年やってみて分かったのは、飲み屋には酔っぱらいしか集まってこないということです。続けてもお金しか儲からない。それで思い切ってやめることにしました。

 ちょうどそのころ変なお坊さんと出会ったのですが、これがなかなか豪傑なお坊さんで、妙法蓮華教を唱える一方、イスラム教と仏教とキリスト教を横に並べて、比較宗教学みたいなことをやったり、朝3時くらいまで祇園で飲んでいるかと思えば、ちゃんと5時にはお経を上げ始めるという不思議なお坊さんでした。僕がやっていたお店に怪しげな人をいろいろ連れて飲みに来ていたのですが、ある時、俺と代われと言うわけです。お前は坊主になれと。じゃあちょっと交換するかというので、僕がお寺に入った。そんな出会いもあって、宗教のこともかじったりしました。


原点に戻りたいという思い

 一方で、酔っぱらいしか寄ってこない飲み屋からはちょっと身をひいて、すこし酔い覚ましかたがた農業の方にというので、土地を求めたのが今の胡麻の場所です。酔っぱらいを相手にしていたというのもありますし、全共闘の行き詰まりみたいなこともあったけれども、なにか自分としては原点に戻りたいような気分が、農業というか農村に自分を向かわしめたのかなと今になって思っています。

 胡麻の土地自体は、紹介してくれる人があって入ったのですが、当時は家もなにもなくて、もちろん水道も電気もなかった。水は近くに沢の水が流れているので、引っぱってきて蛇口から水がでるようにする。街中で蛇口をひねれば水がでるのはアタリマエですが、田舎というか山の中に入ったらそんなものです。そういうこと、飲み水はこういうふうにして得るのだとか、それから広がって、種を播いて、野菜を作ったり米を作ったりということをしてきました。牛も黒毛の和種を二頭ずつ8年ほどだけ飼ったことがあります。

 そんなことをしながら、最初はいわゆる野菜セットみたいなものを作って、京都市内100軒分ぐらい配達しました。100ヵ所も回ったわけではなくて、たとえばYWCAへ行ったらそこで10軒分を下ろすとか、給食をやっているところへまとめて下ろすというようなことです。すごく傲慢な野菜ボックスで、そのときに採れたものが入って、量があろうがなかろうが一回2000円。にんじんの端っこが2本入っていて2000円の時もあれば、南瓜もスイカも入って2000円の時もあるみたいな。そんなことを3~4年、胡麻の土地から京都市内、鷹峯から入って山科を最後に回って、ぐるっと9号線を西へ帰ってきて、夏場2回、冬場1回というような流れでやっていた時代がありました。

 野菜を売ること自体はそんなにやりたかったわけではないのですが、田舎に入って、薄々は分かっていたのですが、現金がないとガソリンも買えない。現金をなんとか得なければならない。他のところへ勤めに出てしまうと、畑や田んぼが回りきらないので、よせばいいのに野菜を売るようになって、地獄へ入ってしまいました(笑)。

 その当時一緒にやっていた人がいろいろ事情があって辞めてしまい、僕一人になって、野菜を作って、セットを用意して、売りに回ってというのがとても厳しくなって頓挫しかけた頃に、「使い捨て時代を考える会」の方から紹介があって、安全農産供給センターとのご縁ができました。それから10年ぐらい、そちらの生産者としてやってきたわけです。

 安全農産の時代には米も野菜も作り、一部薫製加工の仕事もやっていました。廃鶏を使ったスモークチキンだとか和歌山の有機豚をやっている人の肉を使ってハム・ソーセージを作るみたいなことです。本場ヨーロッパのスイス、ドイツ、フランスの薫製づくりを一度見に行こうと、20数年前ですが、ヨーロッパをウロウロしていたこともあります。

 これは本田さんから叱られるかもしれないけれども、ヨーロッパのパリなんかの街中でお肉屋さんや薫製を売っているお店に行くと、豚の鼻から足から、あらゆる部位をちゃんとみんな買って食べています。日本の肉屋というのは、ごく限られたロースとモモとバラとみたいな感じで、肉を買って全部食べるような関係性を結ぶのではなく、やわらかい良いところだけを食べるようになっている。そういうことで、僕は薫製の仕事をするのも、なにか格好をつけているだけみたいな、嫌な感じがしまして、その結果、研修から帰って止めることにしました。それでもお金も必要だし、180度転換して、餅米を作ってお餅を作るということに、加工の方は切り替えました。


アグロス胡麻郷と村の状況について

 その間、いろいろな農関係の小さな雑誌、ミニコミ誌などに投稿していた経緯もあって、若い人で往き来した人はいっぱいいて、何人かがうちにとどまって、胡麻に今でも住んでいるという人が7~8人います。ちょっと言葉が荒いかもしれませんが、街中の資本主義的なサイクルや、あるいは水ひとつとっても人に預けてしまっているような生活から、ちゃんと自分のところに引き戻して生活したいというような感覚の人たちです。

 それから地元ですが、本田さんのところとは話が違って、僕らのところは昔からの村です。最近、僕らは「ジモピー」と呼んだりしていますが、地元の人たちジモピーと、よそから来た人たちとはちょっと意識の違う部分があるのですが、アグロス胡麻郷というひとつの組織作りのときは、地元の安心・安全な野菜づくりや小さな農業にある程度共鳴した人たちを中心に組織をして、名前だけみたいな人も含めて現在、40~50人ぐらいはいます。

 その人たちが10年ぐらい前までは結構元気に動いてきましたが、だんだん高齢化しています。30歳だった僕がもう70歳過ぎたので、その時にいた農家の方々も80歳であったり、亡くなっていたり、リタイヤされるという状態になっています。その人たちとの関係の累積みたいなものが、40年のあいだに結構深まるというか広がってできています。

 自分自身がめざしたものと現状とを比べると、今まではやれてきたと思うけれども、ここ7~8年ぐらいのギャップが、最近はちょっとしんどいなと感じています。農家が農業をしなくなってきたんです。うちの近郷の農家というのは兼業農家ですから、勤めに出た人たちがもう定年退職して、年金をもらって家の中に住んでいる。遠目からはこの人たちはきっと農業をやっているように見えますが、家の中には大画面のテレビを置いたりしている。とくに畑に出るわけでもなく、家の周りの草刈りぐらいはちゃんとやっているけれども、出荷するような農家はどんどん減っていっている。

 街から来た僕からすれば、農村というのは農業をやりたい人たちが集まっている地域だと思っていましたが、それはとんでもない間違いで、できたら止めたいけれども止められない人たちが続けているのが大半の場所です。本田さんみたいな志以外にはありえないところとは、ずいぶん違うと思いますが。

 そのへんがグローバリゼーションというのか、今の日本は農業に依存する部分が本当に小さくなって、他のところでお金を媒介にしてずっと進んでいくような社会情勢の中で、どんどん農業みたいなものが小さくなって、へたをすれば消えるのではないかというような状況に感じられます。

 僕自身は最初の、農村を目指したときの状況で言えば、やはり自分の食べる分は種を播いて育てる、水は谷から引いて飲むというような暮らしなり、実感のある毎日をというのを求めていたので、お金があればそれで良いというのは、僕にとっては、偉そうな言い方をすれば、過ぎ去った世界です。目指した世界がずっと続いていくのがいいなと思っていますが、いまの農村というのは、むしろ、お金があればいいのではないかという状況で、僕らは津田さんが言うように少数派なのかなと思います。

 今の若い人たちの話を少ししますと、アグロスで3~4人ちゃんと定着して農業をやっている人たちとか、アグロス以外で村に入ってきている人たちもいるのですが、志としては有機農業だという感じではあるのですが、実際的にはお金のことなどを計算すると、ある程度の量を作付けして、どうしても薬も振って、少し収量も低ければ化学肥料も足してやらないとやっていけないということがあります。戸惑いながらやっているというか、無農薬、無化学肥料の農業をみたいな、消費者のみなさんが望んでおられるような形には、実際にはなかなかなりにくい状況もある。かつ、若い人たちなので、子育てがあったり、それなりのお金もかかるから、やっぱり百姓を辞めなければしかたがない、どうかなあ、と揺れながらやっているという感じもあります。

◎話した時から少し時間が立って振り返る追伸

 現在から未来にかけての部分は一応見えてはいるのだけど見えないなあといった感じです。

 本田さんが「感性」と言うたはったものは、橋本風に翻訳すると~過去にとらわれず、未来を憂えず現在を生きよう~とする I am here and now的。  自分が生きている(生かされている)実感が農業や農的暮らしの中に、季節を含む環境とともにふんだんにある。これがあるから不安定であったり所得が少なかっても、やり続ける根拠になる。この辺が今後へのヒントかも……。
 



お話を聞いて 主催者から

 今年4月から始めている「よつ葉の学校・全職員向け講座-能勢農場・よつ葉の活動を通して社会を考える」の番外企画として8月27日、「私たちはなぜ農村を目指したのか」と題した集まりを呼びかけました。きっかけは、ちょっと前に読んだ内田樹氏の本に、以下のような記述があったことを思い出したからです。

 「若者の地方回帰」が起きたのは、もちろん3.11の後からです。これまでも若者たちの地方回帰運動というのはありました。農業に帰るという運動は過去に何度もありました。古くは白樺派の「新しき村」からですが、僕が知っているのでは70年代ですね。全国大学紛争、全共闘運動の敗北のあと、一部の過激派学生は農業に向かいました。コミューンを作ったり、ヨガをやったり、東洋回帰したり、出家したり、そういうかたちで都市文明に背を向けるという生き方を選んだ。アメリカのヒッピー・ムーブメントと同根のものです。でもこれは、かなりイデオロギー的なものだった。政治闘争の敗北を承けて、若者たちが、「頭で考えた」選択肢だった。ですから、一部農村に定着したって人もいますけれども、多くは短期間で脱落して、また都会に戻ってしまった。
(内田樹『日本の覚醒のために』第Ⅱ章より)

 ああやっぱり私たちは少数派なのかと改めて思い知ったのですが、でもこの内田氏の記述には、運動する側のリアリティーが欠落しているとも感じました。能勢農場、よつ葉を私たちがつくり始めた時代、多くの若者たちが、多様な動機と目的を持って日本全国の農村へと向かったことは事実です。しかし、そうした運動の中から、40数年の時代を経て、今も続いている活動が私たちの周囲にいくつも有ります。だから、それらの活動が、どんな動機から始まり、どんな経過を経て今日、どのように展開しているのか、当事者に語っていただく集まりを、よつ葉の学校番外編にしたいと考えたのです。

 当初、思い浮かんだ対象者は、北海道標津町で畜産を中心に140町歩の農場を生み出した興農ファームの本田廣一氏、茨城県八郷町で首都圏の生活者と結ぶ有機農業を続けている魚住農園の魚住道郎氏、千葉県で「大地を守る会」と連携しながら農業を続けている鴨川自然王国にかかわってこられた田中正治氏、よつ葉の地場野菜の生産地域の一つ、京都府日吉町のアグロス胡麻郷、橋本昭氏、そして島根県弥栄村のやさか共同農場、佐藤隆氏の5氏でした。

会場のようす
 ■会場のようす
 日程の都合や、さまざまな理由から、当日、参加していただけたのが本田氏と橋本氏のお二人になり、ちょっと残念ではあったのですが、お二人の刺激的な話に参加者も大いに盛り上がる集まりとなりました。
 個人的には、「何故続けられたと思うか」という質問に、お二人揃って、「止めようとは思わなかったから」と答えておられたのが印象に残っています。

 もちろん、危機に直面すると「救世主」が現れたとか、「菩薩」が現れたと、存続を危うくする危機が何度もあったことは想像に難くないわけですが、でも決して止めようとは考えなかったわけです。その踏みとどまる強さについて、改めて考えさせられたというわけです。

 もう1点考えてみる必要があると思ったのは、社会を構想する上で、経済活動をどう捉えるのかという問題です。現代社会は余りにも経済に傾りすぎてしまっている。そうした印象を強く持っていたのですが、お二人のお話を改めて聞かせてもらって、それが聞く者に新鮮な響きを持って心を打つ理由が、その辺りにあるのではないだろうかと考えています。

 70才をすでに超えたお二人が、共に、これからの活動の目標についても熱く語っておられたことにおおいに励まされて、自分たちも自分たちの目標をさらに明確にして、励んでいきたいと思いました。
                                              (津田道夫:北摂協同農場)



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