浜降祭伝logo
祭りphoto
祭りphoto
 神輿を海の水につけて禊(みそぎ)をさせる珍しい祭り。 東空が明るくなる頃、茅ヶ崎の西の浜辺から
「ドッコイ、ドッコイ」の掛け声と共に約四十基以上の 神輿が姿をあらわす。浜に集まってきた神輿は、祭りが 始まる前にもかかわらず盛んに練りまわっている光景は、 既に活気に満ち溢れています。
祭りphoto
伝承

   浜降祭のいわれは明らかなものがないという。
一般的に当地で言い伝えられている話はあり次のようである。

 建久2年(1191)から始まったといわれる「みそぎ祭」は、中世の懐島郷の総鎮守である鶴嶺八幡宮の参道先の海に神輿を担いで運び、海水を浴びて心身を清める神事。更に、源家の戦勝祈願などの「みそぎ」でもあるという。
 これが鶴嶺八幡宮の浜降り神事のいわれとされている。 
時経て・・
 天保9年(1838)国府祭(こうのまち)から還幸途中の寒川神輿が、 平塚馬入川の渡し場に到着し、まさに渡船に乗ろうとした時、平塚八幡宮の神輿を担ぐ 馬入の者の乱暴にあって、神輿は川に落ち、折からの梅雨で増水した激流は、神輿を はるか相模灘まで押し流してしまった。
 数日後、南湖の海で網を曳いていた鈴木孫七は、海中に沈む神輿を発見、引き上げ石 尊山に奉置し一宮に急報。三日後、無事寒川神社に戻ったとの事。
 そして、神輿が南湖の海へ行くのは孫七の漁場へお礼参りする為といわれている。
合同
 明治6年(1873)12月、鶴嶺八幡宮は寒川神社の摂社となり、翌年には共同で禊神事 が行われ、同9年両社は6月末に行われていた両神事を、農繁期という事で7月15日に共同で行うことにし、この時名称を「浜降祭」と定めた。が、しかし同10年には摂社解除とともに再び両社は別々に神事を行うこととした。
 これは、寒川側のお礼参りの主意と、鶴嶺側の禊の主意との見解の違いからではないかといわれている。実際、今のように合同で行われるようになったのは大正12年(1923)からなのである。
昭和52年2月9日  神奈川県無形民俗文化財 に指定


史話
村回り
 浜降祭から村へ戻った神輿は、部落内を一巡し村中を盛りたてる。順路は定められており立ち寄る家々もだいたい決まっているという。これら立ち寄った家々では大人にはお酒、子供にはお菓子を用意して神輿の到着を待つのです。こうして各家々に寄りながらゆっくりと神輿は進んでいくので、一日分の予定区域を終える頃は暗くなり提灯の灯を頼りに することもあるといいます。そんな時刻にもなると、それまでのお酒で酔いもピークになり神輿の足取りもおぼつかなく、宮入りまで運ぶのも一苦労なんだそうです。
神輿担ぎ
 各地の祭礼に出向いては友好と娯楽を兼ねた「神輿愛好会」が青年層を中心となって各地で生まれ、今では盛り上げ役に欠かせませんが、昭和20年(1945)のように出征によって若者が大変少なかった為、60歳までの人々が担いでいたこともあるという。
 (本来祭りの場合各戸から40歳までの男子が担ぎ手として参加すりのが習わしだった。)
 神輿の担ぎ手による話はまだありますが、それぞれ時代相をとても反映していることが感じられます。きっと、どのお祭りにもこういう事があるのでは?

浜降祭のビデオはこちら 茅ヶ崎歴史散歩はこちら

みなさまのご意見、ご感想をお寄せ下さい。
地元のお祭り情報なども募集中です!
mmbc@jcc.co.jp まで