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 「週刊電藝」4/2で、キムチ氏が自民党のホンネとタテマエ、そして戦後体制の禁忌について書いていた。それを読んで、先日愛知県美で観て来た岸田劉生展のことを思い出した。

 というのも、私はこの、今では日本の近代美術史を語る上で欠くべからざる存在である「王道」的な画家をめぐる人々の挙動の中に、ある種の「美」の体制によって発動された禁忌の裡に見え隠れするホンネとタテマエを感じないではいられないからだ。

 ここで言う“ある種の「美」の体制”とは、すでに定式化された美術史の中での作家としての評価という程度の意味だが、私たちは一般 に、少なくとも美術館で多数の鑑賞者に囲まれた中で、その絵を前にして、セザンヌやゴッホを「ヘタね」と公言することが憚られるのと同様に、やはり劉生に対しても(「気持ち悪い」とか「不気味ね」とは囁けたとしても)「ヘタね」と口にすることが難しい。それは、「できない」のではなく、やはりどこか「憚られる」のだろう。なぜなら、そう言うと「この絵の深さが分からない美術オンチ」と指差される不安があるからなのだ。

 だが、私は言いたい。確かに劉生の絵は「深い」。なぜ「深い」か? それは、画家自身が「深さ」を求めたのでなければ到底あり得ない造形を観る者の前に歴然と顕しているからだ。だが、それを画家自身が言うところの「内なる美」としての「美」ととるか否かは、観者の自由である。それはもしかしたら、「内なる醜」かもしれない。かもしれないが、なんといってもそこには「深さ」があるには違いない。そしてその彼の油彩 画に見られる「深さ」こそが、彼の画家としての独走的な独創であることも確かであり、そこに我々は、時に劉生の「巨匠」たる所以を感得する。んがしかし、だ。さりとてそれは、「ヘタ」であるか否かとは無縁のことである。にもかかわらず、「そんなわけだから『劉生がヘタ』だなんて言うも憚って」はイケナイのだ。私は言う。どう見ても、劉生は「ヘタ」である。だが、誤解してはならない。私は劉生のすべてをヘタだというのではない。劉生の何がヘタか。それは言うまでもなく、おそらく大半の観者が、素人であれ玄人であれ内心は多少とも密かに思っているであろう、「デッサン力」においてである。


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fig.1《斎藤与里氏像》
1913.4.30 油彩・カンヴァス 愛知県美術館

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fig.2《岡崎義郎氏之肖像》
1928.5.11 油彩・カンヴァス 個人蔵

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fig.3《童女舞姿》
1924.3.7 油彩・カンヴァス 大原美術館


fig.4《子守り(想像図)》
1907.8.16 水彩・紙 東京国立近代美術館

 劉生はデッサンがヘタである。かつて若かりし日の中川一政が、キャンバスの前で自分のデッサン力のなさに途方に暮れ、「どうしたらデッサン力がつくでしょう」と劉生に訊いたら、「実は僕もデッサンが駄 目なんだ」と言った、というような内容の文章をどこかで読んだ記憶がある。その時一政は、劉生ほどの人がそんなことを言うのだから、と恐れ入ったというようなことを書いていたような気がするが、私はハッキリ言って、この時一政に吐露した言葉は、劉生の本音だったのではないか、という気がする。自尊心剥き出しのこの独尊者の、心許す愛弟子の前だけで見せた本音だったのではないか、と。

 くどいようだが、劉生はデッサンがヘタである。それはもう、額縁の下辺から「ニョッキリ」現れた“手”を持つ多くの肖像画群(《斎藤与里氏像》【fig.1】《画家の妻》《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》《麗子肖像(麗子五歳之像)》《近藤医学博士之像》《麗子十六歳之像》《岡崎義郎氏之肖像》【fig.2】など)を見れば、誰の目にも明らかだろう。それらの絵の中に描かれた“手”は、どれも、まるでモデルとは別 の人物によって添えられた手のように、どこか不自然な角度と大きさで、とってつけられたように描かれている。また《童女舞姿》【fig.3】の垂れ下がった左手、扇子を上に掲げた右手、この両腕を見ると、それはもう絶望的なほどにそのことに頷かざるを得ないだろう。

 ところが、劉生自身は次のようなことを言っている。

 「古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉(すぐ)れた美を知っている画家であるという事が云い得る。」(「美術上の婦人」『女性改造』第1巻第1号、1922年10月)

 果たして、これはどういうことか。このような“手”を意識する劉生ゆえに、これらの絵に描かれた不自然な手の構図は意図的なデフォルメと言えるのだろうか。

 いや、私はそうは思わない。むしろ、それほどに手の描写 にこだわるからこそ、その手の「生きた感じ」の描写に念入りになりすぎたために全体のバランスを欠き、何か手だけが独立した存在として在るかのような「構図の破綻」を生じさせる結果 となったのではないか。――これは劉生のデッサン力の本質に通 じることのように思える。劉生にはどうも、そのような細部にこだわるあまり全体のバランスを欠くという傾向があるように思うのだ。それは、最初期の水彩 画の中の人物像の構図の破綻(例えば《子守り(想像図)》【fig.4】)から一貫している、いわば「天性」の性分であるかのように感じられるのである。

 だが、このことは画家の特質ではあっても、無論、欠点などではない。

 部分の「生きた感じ」にこだわるあまり構図的には全体のバランスを欠く結果 となる、ということは、おそらく劉生自身も十分に承知していたに違いない。そのことは、次の本人の言葉からも察せられるのである。

 「ゴオホの絵は一枚一枚に破綻と創造である。どの絵の様式も内からくずれて居る。彼は常に現在の中で溢れる程一杯になって居た。彼は斯く描こうと努力しないでよかった。一杯になって居るものが内から内からと湧きくずれて行く事でよかったのだ。」(「ゴオホとゴーガン(感想)」『フュウザン』第4号、1913年1月)

 この「内から内からと湧きくずれて行く」感じ、これこそが、私には劉生の言うところの「内なる美」ともっとも直接的につながるイメージであるように思えるのだ。

 画家がある人物、あるいはある風景を描く対象として見つめる。すると、その視野の1点に視界全体を特徴づける「生きた感じ」をみとめる。画家はしばし、その1点に集中し、その物象の表面 に漲る力を画布に宿らせようと、画家独自の筆触と色相を重ねながら繰り返し絵筆を動かしていく。それはあたかも、その物を生かすために、その物を象る行為が、その物の内側から外部へと、実在感を湧き上がらせるべく「くずして行く」営みへと転位 していくかのようだ。――それが劉生の独自のマチエールの秘密であるように、私には思えるのだ。

 突然だが、先日テレビで「マチエールは画家の指紋だ!」と喝破していたのは、菊畑茂久馬だったか。そう、まさしくマチエールだけは、どのように誤魔化そうとも、犯罪現場に残された指紋のように、隠し遂せるものではないのだろう。

 岸田劉生もまた然りであり、それどころか、劉生ほどそのことが鮮明に見て取れる画家も少ないようにさえ感じる。



fig.5《天地創造:3.石を噛む人》
1914 エッチング・紙 東京国立近代美術館

 そして私は、その「劉生的」マチエールがある意味でもっとも分かりやすく露顕されているのが、初期の数少ないエッチングである《天地創造》のシリーズ3点であるように思うのだ。

 版画でありながらマチエールがもっともよく露顕されているというのは奇妙とも思えるかもしれないが、むしろ版画という間接的な媒体を通 して描かれた絵であるからこそ、劉生の筆遣いともいえるものが、客観的に露呈しているのかもしれない。

 とくにこの3点の中でも、《石を噛む男》【fig.5】には、劉生の止むに止まれぬ 手先の動きが露骨に現れている。それは、一言で言えば「ムラムラモコモコ」とした筆遣いだ。内側から何かが肉を突き破らんばかりにいびつにモコモコと膨れた男の肉体。また、その周囲の「ムラ雲」のまさにムラムラモコモコと増殖を止まないような筆致。ここに現れた、対象の形態を象るのに小さな弧 を描くようなタッチで執拗に線を重ねていき、それが結果として形象の内部からのふつふつとした盛り上がりのような力感を生むことになる筆致、これは、他の劉生の油彩 画の中でも、ある時期まで、よく見れば多用されている方法であることが分かる。



fig.6《道路と土手と塀(切通 之写生)》
1915.11.5 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館

 たとえばその好例が、言うまでもなく劉生の代表作の一つである《道路と土手と塀(切通 之写生)》【fig.6】である。ここに描かれた大地の、まるで今にも内部からマグマが湧き出てきそうな、ムラムラモコモコとした力感。

 もちろん、この表現は、画家にとって偶然の結果 などではない。この絵がなぜ劉生の絵の中でももっとも質の高いものと認めることができるか言えば、いわば指紋とも言うべき「逃れ難い」己のマチエールを画家自身が十分に熟知した上で、それを目に見える対象としての自然と通 底させ、意識下の方法論として浮上させた次元で描かれ、否、描き切られた作品であるからだろう。

 劉生は当時を振り返って言うのである。

 「この頃、道を見ると、その力に驚いたものだ。地軸から上へと押し上げている様な力が、人の足に踏まれて踏まれて堅くなった道の面 に充ちているのを感じた。」(「自分の踏んで来た道」『白樺』10巻4号、1919年4月)

 また同じ頃、こうも言っている。

 「力は美で、美は力だと思った。自然を見ると只力を見た。道路でも土でも、人の顔でも皆力の美であった。」(「雑感(その一)」『芸術』2巻3号、1919年3月)


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fig.7《黒き帽子の自画像》
1914.3.6 油彩・板 個人蔵

 その言葉通り「力の美」を「人の顔」に見たこの当時の肖像画の代表的作品が、たとえば《黒き帽子の自画像》【fig.7】だろう。(ただし、この作品が構図の破綻をあまり感じさせないのは、例の“手”が描かれていないからにちがいない。このことは他の肖像画でも言えることである。)

 ともかく当時の劉生にとっては、人の顔であれ道路であれ、その物象の「面 」に充ちた「力」をムラムラと感じないではいられなかったのだろう。

 ここで注意しなければならないのは、劉生の言う「内なる美」とは、描く対象の中にあるのでは実はない、ということだ。劉生にとっての「内なる美」とは、劉生の次の言葉からも分かる通 り、対象を描こうとする画家自身の中にあるものとして理解できるのである。

 「(前略)人の顔は、画家の前に画家の内なる美を誘い出す力を持っている。」(前掲「美術上の婦人」)

 画家の内部にある精神の投影、それこそが画布の上に現前する「内なる美」の正体なのである。つまりそれは、その「内なる美」とは、画家の内部に宿る生命感だとも言える。その生命感が、見る対象の「面 」に投影され、対象の面に物象のマグマのような内なる力となって表現される。このような表現方法、あるいは感性の原理とは、しかしそのまま白樺派的大正生命主義へと、さらには人間主義的倫理観に基づく白樺派的人道主義にも、一足飛びに結びつくものであるように思われるのだ。

 その意味では、やはりある時期までの劉生は、白樺派の「絵による代弁者」だったと言うことができる。

 そして、この時期の劉生の絵を指して、私は「岸田劉生モコモコ主義」と呼びたい。だが、このモコモコ主義は、他の草土社の同朋たちがどのように様式的に模倣しても近づけない、唯一人劉生だけのものだった。その最大の理由は、追随者河野通 勢らが劉生に比べてあまりに「デッサン力」がありすぎたから・・・という天性の逃れ難き素養に求められるように思われるのだ。

 さて、ここまで私は、たびたび「この時期の劉生」「ある時期までの劉生」と書いてきたが、その通 り、「岸田劉生モコモコ主義」がもっともピークを迎えるのは、肺結核になり鵠沼で療養生活を送るまでの、代々木・駒沢時代(〜1917年)までであり、それから先は、病との関係も絡んでか、「内なる美」も変容を迎えることになる。

 それは要約すれば、モコモコ主義的「内なる美」、言いかえれば白樺派的生命主義を払拭するのではなく、少なくともさらにある時期までは、より一層その生命感を強化するために、内へ内へと力を溜め込んでいく方向への画歴の変遷と理解できるのだが、しかしそれについて述べ始めると、さらに数倍の紙面 を要することになるので、今回はここまで――「岸田劉生モコモコ主義」の段にて終わりとしたい。※本稿の岸田劉生引用文は画文集『岸田劉生 内なる美 ―在るということの神秘―』(北澤憲昭編、二玄社刊)に拠った。記して謝す次第である。

「生誕110年 岸田劉生展」

2001年2月9日〜4月1日/愛知県美術館
2001年4月7日〜5月20日/神奈川県立近代美術館
2001年5月26日〜7月8日/笠間日動美術館

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