一向一揆

 一揆というと反逆,或いは反抗という言葉のイメ-ジがあるが同盟あるいは組合という言葉の方が近い。 だから百姓はもちろん、僧侶や武士の間でも使われたようだ。
たとえば 家康の足元三河でも家臣が一揆側に走り閉口した時期がある。

 越前の隣国、加賀に国衆、地侍、百姓などによる一種の共和制が成立して国の権力代表である守護の富樫氏を滅ぼして自治国を形成したのは1488年だ。18世紀後半のフランス革命などよりズ−と前だ。この勢力は本願寺門徒が心棒だったから宗教による政治への優越だった。
領主と称するものはいなくて、比例代表性という現代にも通じるような一種の共和制を作り一向一揆上げ一世紀もの間機能したのは奇跡に近い。
以後織田信長により制圧されるまで(1575年)約百年も自治を維持し隣国 越前にもその勢力を広げようと試みたが越前には強力な朝倉氏ががんばっていて規模は広がらなかった。
宗教が縦糸であるとはいえ律令制下でこのような体制が成立したというのは、月が黒雲からチラッと顔をのぞかせたようなものだった。

このような勢力の形成は真宗の浄土往生、つまり死ぬことが究極の救いという救済への願望を縦糸とすれば講組織という横糸が自治体を織り上げた。講というのはユニオンまたは綜合扶助組織に近い。
ゆい(結い)という言葉がこの地方にあって共同農作業、言い換えれば助け合いを意味する。遠く離れた沖縄にもユイマ−ルという言葉がほぼ同じ意味で今でも生きている。
この気分が講の根底にうずくまっているに違いない。
元々は仏典を講義する会だったようだが寄り合っている間に水が低い所に流れ込むようにエネルギ−がたまっていったのだろう。
宗教による政治への優越は信長によりそのキバを抜かれ、その後天皇を白馬に乗せて神にするまで立ち直ることはなかった。その意味で山折哲雄氏は信長を宗教改革者という。

親鸞が源流の浄土真宗は八代蓮如によって強大な宗教勢力になった。前記加賀の自治国形成のみならず、あの信長が石山本願寺を退去させるまで11年もかかっていることからも判る。
このパワ−を武家大名でも恐れて、島津、北条、上杉などは一向宗は禁止した。

一向一揆の余韻は現代でも残っていて、この地方の浄土宗系の信者は全国平均は13%だが福井、富山では41%強と他県を圧倒している。 (NHK県民意識調査)
道元の地元でありながら禅宗系の信徒は少ない。全国平均的に5%だ。
自分の悟りをひたすら求める只菅打坐の禅の世界より、進む者 往生極楽 退く者 無間地獄とする浄土真宗の一種のご利益の方がわかりやすかったのだろう。
鎌倉仏教の特徴は民衆、大衆に仏を説いたことだ。支配階級(貴族や武士)から 大衆のモノになった仏教が一向一揆などのエネルギ−につながった。
大衆パワ−に一度火がつくと消すことが至難であることをどこの国の権力者も知っている。