1章
マッカーサーがやって来た
2章
焼け野原から復興
3章
追及される戦争責任
4章
揺れる政治・外交
5章
空手チョップにわいた
6章
高度成長の足音
7章
高度成長とひずみ
8章
激動の政治、冷戦下の外交
9章
揺れる国内
10章
流行を追って
11章
娯楽とともに
12章
「バブル」と昭和の終わり
13章
失われた20年
14章
グローバル化のうねり
15章
あの日の衝撃
16章
世界で活躍
17章
平成のトレンド
18章
災害列島
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2000(平成12)年4月1日「ポスト小渕」で密室批判
小渕首相は自由党、公明党との党首会談で、自由党との連立解消を明言した。首相は2日未明、首相公邸で体調不調を訴え、順天堂大付属順天堂医院に緊急入院。政府・自民党は4日、小渕内閣の総辞職を決め、後継首相に自民党の森喜朗幹事長が選ばれた。後継首相を自民党主流派の幹部らが「密室」で決めたとの批判が強まった。小渕氏は5月14日、死去した
2000(平成12)年5月15日「神の国」発言
森喜朗首相は、神道政治連盟国会議員懇談会の祝賀会で「日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかりと承知していただくという思いで活動をしてきた」と述べた。この発言に批判が高まり、首相は26日、陳謝したものの、発言の撤回はしなかった
2000(平成12)年6月25日苦戦、汗をぬぐう
6月25日の衆院選で、自民、公明、保守の与党3党は271議席を確保したものの、選挙前勢力から大きく後退した。野中広務幹事長は選挙協力した公明、保守両党が大幅に議席を減らしたため「私は万死に値する」といったんは辞任する意向を示唆したが、その後続投を明言した
2000(平成12)年11月21日加藤の乱
自民党内で非主流派の加藤紘一、山崎拓両氏が、野党が提出する内閣不信任決議案に賛成する意向を固め、党内の抗争に発展した。森政権を支える主流派は切り崩しを進め、11月21日未明、内閣不信任決議案は与党の反対多数で否決された。加藤、山崎両氏ら非主流派の多数は欠席。加藤、山崎両氏は否決後、「敗北」を認め、陳謝した
2001(平成13)年1月6日省庁再編
戦後日本の政治・経済のけん引役を自負してきた官僚機構が、1府22省庁から1府12省庁に再編された。総務省、国土交通省、厚生労働省、文部科学省が誕生し、大蔵省は財務省に、通産省は経済産業省に、それぞれ名称が変わった
2001(平成13)年4月24日小泉劇場
森喜朗首相に対し、与党内で参院選を戦えないとの声が強まり、森首相は4月6日の閣僚懇談会で辞任を表明。4月24日、自民党総裁選で小泉純一郎氏が約6割の得票で圧勝した。自民党は勢いをかって7月の参院選で圧勝。06年9月に退任するまで5年間の長期政権となった
2002(平成14)年1月30日大臣vs次官
1月29日、小泉純一郎首相はアフガニスタン復興支援国際会議へのNGO(非政府組織)排除問題をめぐる国会の混乱を受け、対立している田中真紀子外相と野上義二・外務事務次官の両者の更迭を決めた。首相は30日未明、「苦渋の決断だった」と述べた
2002(平成14)年2月13日ムネオハウス
日本政府の途上国援助(ODA)で北方領土につくられた施設などが、現地では自民党の鈴木宗男衆院議員の名前をかぶせて呼ばれている。2月13日の衆院予算委員会で、共産党の佐々木憲昭氏がこんな話を紹介しながら追及した。鈴木氏は取材に対し「何もやましいことはしていない」と話した
2002(平成14)年3月26日さようなら、議員バッジ
社民党の辻元清美衆院議員が前参院議員の私設秘書だった女性を政策秘書として登録し、給与を事務所の人件費に流用していた問題で議員辞職願を提出した。「ミスをきちんと認めないと政治不信につながる」と辞職理由を語った
2002(平成14)年4月8日こぶし
加藤紘一・元自民党幹事長は衆院予算委員会での参考人質疑で前事務所代表の脱税事件の責任をとり議員辞職する考えを明らかにした。政治団体を経由した政治資金を自宅マンションの賃料などに充てていたとして追及されていた
2002(平成14)年5月14日「国策捜査」批判するも・・・
国際学会への学者らの派遣費用などを国際機関に不正に肩代わりさせたとして、東京地検特捜部は外務省の佐藤優・前国際情報局分析1課主任分析官らを背任の疑いで逮捕した。佐藤氏と親しい鈴木宗男衆院議員は、6月19日、国有林への伐採をめぐるあっせん収賄容疑で逮捕された。両氏は「国策捜査」と検察批判を繰り返したが、最高裁は上告を棄却し、刑が確定した
2002(平成14)年8月9日元外相も辞職
田中真紀子元外相は、自身の公設秘書給与の流用疑惑の責任を取る形で衆院議員を辞職した。田中氏は同日夕、「このまま議員をやっていても政治不信が高まる」と辞職理由を説明した
2003(平成15)年7月25日怒号
2003(平成15)年9月24日笑顔で握手
2003年11月に衆院選が行われる方向が固まるなか、民主党の菅直人代表と自由党の小沢一郎党首が9月24日、合併協議書に調印し、国会議員204人を擁する野党第1党が誕生した
2003(平成15)年11月9日表情険しく
11月9日の衆院選で自民、公明、保守新の与党3党は絶対安定多数の269議席を確保。自民党は237議席を獲得したが、目標の単独過半数に届かなかった。民主党は選挙前の137から177議席へと伸ばした。両党が政権を競う「二大政党」の様相が深まった
2005(平成17)年8月8日郵政選挙
小泉純一郎首相が成立を悲願とする郵政民営化法案が自民党議員の造反により参院本会議で否決された。小泉首相は8日の臨時閣議で衆院解散を決定した。法案に反対した自民党候補は公認せず、対立候補を擁立。9月11日の衆院選で自民党は296議席を獲得し、公明党と合わせて327議席を占めた
2006(平成18)年2月16日メール事件
民主党の前原誠司代表は、永田寿康衆院議員が偽のメールをもとに国会で質問した問題で混乱を招いた責任をとり、代表辞任を表明した。05年9月の衆院選の敗北を受けて就任したが、半年で退いた
2006(平成18)年9月20日第1次安倍政権
自民党新総裁に、安倍晋三官房長官が選ばれた。小泉政権で党幹事長や官房長官を務め、「ポスト小泉」に有力視されていた。戦後最年少で初の戦後生まれの首相となった。「構造改革の加速」や「21世紀にふさわしい国造り」を掲げた
2007(平成19)年3月13日相次ぐ閣僚の不祥事
安倍内閣で閣僚らの不祥事や辞任が続いた。3月、松岡利勝農水相が光熱水費問題で追及され、松岡氏は5月に自殺。後任の赤城徳彦氏も事務所費問題で、更迭された。7月の参院選で自民党は惨敗。続投した首相は8月に内閣を改造したが、9月12日、辞任を表明した
2007(平成19)年9月23日福田政権
元官房長官の福田康夫氏が第22代総裁に選ばれた。参院で野党が過半数を握るなか、首相就任後、民主党の小沢一郎代表と大連立を模索するなど打開を図ったが、08年6月に参院で問責決議案が可決。9月1日に退陣した
2008(平成20)年9月24日麻生政権
福田氏の後継の首相に麻生太郎氏が選ばれた。リーマン・ショックはじめ経済危機に力を注いだ一方、自らの失言などへの批判もあり、支持率は低下。首相交代論が強まるなか、09年7月21日に衆院を解散し、衆院選を8月18日公示、同30日投開票とする意向を表明した
Q21
小泉純一郎氏が2001(平成13)年の自民党総裁選で訴えたスローガンは何でしょうか?