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ロバート・キャパ
1951年ルース・オーキン撮影 東京富士美術館蔵©ICP/ Magnum Photos
報道写真家であるロバート・キャパ(1913-1954)は2013年で生誕100周年を迎えました。その約40年の人生には、スペイン内戦を始めとする戦場の取材だけでなく、人々の日常を見つめる温かい視線や、唯一結婚を望んだという女性の死、イングリッド・バーグマンとの恋や、ピカソ、ヘミングウェイなど著名人との交友がありました。
東京都写真美術館では、報道写真家というだけではない、人間キャパを紹介する写真展「101年目のロバート・キャパ 誰もがボブに憧れた」を開催中です(~5月11日)。
ロバート・キャパとはどんな人物だったのか。
記事と写真でご紹介します。
― 報道写真家・キャパ
― もう一人のキャパ?
― 華麗なる交友関係
― 日常見つめた視線
― 写真の謎
― 開催概要
ロバート・キャパ(本名アンドレ・フリードマン)は1913年、ブダペストに生まれた。18歳で左翼学生運動に加担したという理由で逮捕され、釈放後、ハンガリーを去り、ベルリン、ウィーン、パリへと移り住んだ。
キャパはスペイン内戦や第二次世界大戦の戦闘の現場を取材。世界が注目する戦争の現場を伝える技術として写真が初めて登場した時代ということもあり、臨場感のあるキャパの写真は注目を集めた。共和国軍の兵士が撃たれた瞬間をとらえたとされる「崩れ落ちる兵士」や、「Dデイ」などはその中でもよく知られている。
ノルマンディー上陸作戦の第一陣の船に上陸し、銃弾飛び交う中で撮影した「Dデイ」は、フィルムをアメリカの「ライフ」に送ったものの、現像を担当する暗室係が焦って溶剤を加熱しすぎたためフィルムが解けてしまい、100点を超える写真のうち、残ったのはわずかに11枚だったという。
1954年に亡くなる直前には日本を訪ね、東京、奈良、大阪などで人々を撮影した。その後、雑誌「ライフ」の要請でフランス領インドシナへ向かい、撮影のための移動中に地雷を踏み、40年の生涯を終えた。
「ロバート・キャパ」はアンドレ・フリードマンと、恋人だったゲルダ・タローの2人が生み出した架空の写真家だった。
自分たちの写真を「アメリカのすごい写真家」の作品とすることで、フランスの編集者に本来の倍近い値段で売ることができたという。語学も得意だったタローは、当初はフリードマンのマネジャー的な役割を果たしていたが、しばらくすると、自身も写真の技術を習得し、一人で戦場に撮影に行くこともあった。
やがてキャパの名はフリードマンが使い、タローが撮影したものは「フォト タロー」名で発表するようになったが、撮影者「キャパ」としている初期の写真には、その後亡くなってしまうゲルダ・タロー撮影のものも含まれていると考えられる。
左:キャパが撮影したゲルダ・タロー ©ICP/Magnum Photos 右上・下:パリにあるゲルダの墓
キャパは、多くの友人たちに愛され、また彼らを愛した人物だった。交流のあった、アーネスト・ヘミングウェイやピカソとは休日を共に過ごし彼らのリラックスした表情をとらえた写真も残る。作家のジョン・スタインベックとも親しく、一緒に冷戦時代のロシアを巡り、旅行記「ロシア紀行」を記している。
映画「カサブランカ」などで知られる米女優イングリッド・バーグマンとの恋も有名だ。1945年にバーグマンがアメリカ軍の慰問のために訪れていたパリで出会い、一時恋人関係に。キャパは彼女を追うようにハリウッドでスチルカメラマンの仕事もしたが、その後破局を迎えた。彼女はキャパとの結婚を望んだが、彼が拒んだとも言われている。
■キャパと深い親交のあった元「ライフ」誌編集者のジョン・モリスさん(97)
私はボブを知る最後の生き残りかもしれない。写真雑誌「ライフ」の編集者時代に知り合い、彼が亡くなるまでの15年間、友人であり、仕事仲間だった。
1939年冬、戦時下のパリを離れてニューヨークに渡った彼が編集部を訪ねてきた時のことだ。私は昼休みに職場仲間とボブを連れてスケート場に遊びに行った。彼はうまく滑れなかったのに、きれいな女の子を見つけるなり、彼女にしがみつくようにしてリンクを一周し、編集幹部の前で派手に転んで見せた。
なんと女の子は編集長の秘書。そんなボブの人間味あふれるユーモアにふれ、私たちは笑い転げた。
女優のイングリッド・バーグマンをはじめ、多くの女性にボブが愛されたのはたしかだ。時には求婚されることもあったが、本物の家庭を築くことを恐れていたのか、米国の市民権を得るための形式的な結婚以外は拒み続けた。自宅を構えず、ロンドンでもパリでも、定宿を渡り歩く生活を好んだ。
ボブは誰よりも、平和な暮らしを願って仕事に身を投じ、貧富の差や国籍の違いなどに関係なく、人々のありのままの姿を伝えようとシャッターを切り続けた。(米国と鋭く対立していた)ソ連を米国の作家ジョン・スタインベックと旅し、女性と子どもの暮らしぶりを活写したのはその好例だろう。
戦場を離れて日常に戻ると、ボブは映画スターや監督と酒をあおり、ばくちも楽しんだが、それはお金への執着心からではない。過酷な記憶から逃れるためだったのではないか、と私は思っている。
ボブの実像を表す場面が脳裏に刻まれている。ロンドンの定宿で歓談していると、彼の友人が訪ねてきた。貧しい身なりの友人を見るなり、彼はさらりと自分の高価なスーツを手渡した。彼はとても寛容で、心の温かい人だった。私の人生の出会いの中でもっとも偉大な人物ではなかったかも知れない。ただ、もっとも記憶に残る人物だったのはたしかだ。
(聞き手 稲田信司)
キャパの視線は人々の日常にも注がれた。自転車レースを観戦する人たちのどこかコミカルな姿や、ドイツ軍から解放されたパリで、戦車の上で鼻をほじる子供の姿など、どこか笑ってしまうような人々の表情をとらえている。
防空壕へと急ぐ女性 スペイン、バルセロナ
1939年1月 東京富士美術館蔵©ICP/Magnum Photos
ツール・ド・フランス
1939年 東京富士美術館蔵©ICP/Magnum Photos
ドイツ軍から解放された街で フランス、シャルトル
1944年8月 東京富士美術館蔵©ICP/Magnum Photos
ロバート・キャパの出世作ともなった「崩れ落ちる兵士」は、兵士が撃たれる瞬間という珍しさや構図などから、やらせ疑惑などさまざまな議論がいまなお続いている作品だ。昨年には、作家の沢木耕太郎氏が、撮影場所と考えられるスペインのコルドバでの調査を元に「キャパの十字架」(文芸春秋、\1575)を発表。同じ兵士が写った別の写真なども参考に、実際は兵士らのマスコミ向けの演習中に坂で滑った兵士を撮ったと結論づけた。また撮影したのも、角度やカメラなどからキャパ(アンドレ・フリードマン)ではなく、この時同行したゲルダ・タローだとし、話題を呼んだ。
1954年、雑誌ライフの要請で第1次インドシナ戦争の現場に日本から赴いたキャパは、撮影中に地雷を踏み死亡した。今回の展覧会では、キャパが最後に使っていたニコンのカメラと、最後に撮影した際のフィルムも展示されている。カメラのレンズには地雷を踏んだ時のものなのか、泥のような汚れもそのまま残されている。
キャパが死の間際まで使用していたカメラ(東京富士美術館蔵 ※最後の写真〈ポジデュープフィルム〉と共に特別出展)
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