その② 今や貴重な東京の風俗史的記録、
    木村荘八の挿画談

 
 戦前戦後にわたって、洋画家であり、挿し絵画家の木村荘八は多くの、東京の(主として下町の)歴史的情景や風俗の随筆を書き残してくれている。
 明治の怪人物の父のもとに生まれ育ち、かなり特殊で異様な家庭環境で思春期を迎え、やがて岸田劉生らと洋画家としてスタート。そして、近代挿画史上、不朽の傑作『濹東綺譚』を描くまでの画歴の“こしかた”の記。
 また挿画を描くためと共にあった東京庶民の風俗史的記録──どれをとっても筆者の木村荘八の肉声が聞えてくるような文章そして、それに添えられた挿画(ときには走り描きの小さなメモのようなものであったりする)が、なんとも魅力的で、ぼくなど、その挿画と余白に書き入れられた、それこそメモのような書き入れにも見入ってしまう。
その2
洋画家としての荘八のよく知られる作品「パンの会」(1928)。右で三味線を抱え唄っているのが本人といわれている。
 


飾り荘八のたっぷりの挿画がうれしい随筆集、岩波文庫『新編 東京繁昌記』

 その荘八の随筆、なにからご紹介しようか。とりあえず手元の全集には頼らず、これまで神保町あたりでポツポツと入手してきた戦前、戦後の元本をあれこれ手にする。『随筆美術帖』『随筆風俗帖』『東京今昔帖』『現代風俗帖』(正・続二巻)などなど。
 しかし、ここでは、比較的入手しやすい岩波文庫・尾崎秀樹編『新編 東京繁昌記』(1993年刊)から引くことにしたい。この文庫、ざっとページを操るだけで嬉しくなってしまう。
 大衆文芸と、当然のことながら挿画への深い思いを抱く編者・尾崎秀樹のディレクションか(岩波編集部内に挿画に強い関心のあるスタッフもいらした)、とにかく荘八描く挿画が、ふんだんに(ざっと数えてみたら百三十点ほど)収められているのである。
 学生のころ、荘八本と出会ったころ、描かれた、かつての東京の風景、また風俗に興味をもったものの、画の傍に書き込まれた荘八のメモがわりの一種独特の、一部変体仮名を混えた崩し文字は判読するのが難しかったが、いまは“慣れ”によってか、かなり理解できる。
 気分、気ままに馬齢を重ねることも必ずしも無駄なことではないようです。
その2
いつも傍に置いておきたい岩波文庫『新編 東京繁昌記』。
ときどき在庫切れになる?
 

飾り荘八の有名な挿画観──“作家と挿絵師は太夫と弦の関係”

 さて、本文、「はしがき」はもとより、「隅田川両岸一覧」「佃島」「東京の民家」「芝浦」「築地─銀座」「洲崎の印象」「矢場」「銘酒店」等々と、興味深いタイトルが並ぶが、荘八といえば、とにかく永井荷風『濹東綺譚』と四つに取り組んだ挿画だろう。
 ──『濹東綺譚』挿絵余談──と副題の付けられた「濹東雑話」を見てみたい。
 話は、敬愛する師ともいえる、日本画家にして挿画家・鏑木清方(清方は挿画を“卓上芸術”と提唱した)からの手紙で始まる。清方は正月、亀戸天神から向島へと遊歩したことを荘八宛に手紙で送っている。
 この清方の便りに荘八は“煽情を覚え”(本文より)向島方面や亀戸に出向くことになる。さらに江東、向島から玉の井へと遊歩は移ってゆく。そして、本題の『濹東綺譚』の挿画のこととなる。
引用する。この仕事を受けたときの“挿し絵師”荘八先生の高揚した気持ちが伝わってきます。
   今度この小説の挿絵を引受けるに当って初めから
   ぞっくりと全篇の原稿が完成されていたことは
   挿絵冥利(みょうり)に尽きる喜びでした。その代り、
   また初めから背水(はいすい)の陣を覚悟の、
   難しいことでしたが、それは当り前として
   ──(かね)て私は挿絵は本文に対する、
   浄瑠璃節(じょうるりぶし)太夫(だゆう)と弦の関係でなければならないと
   思っていますので、出来るならば太夫より以上
   といってもいいほどに弦の挿絵師は
   テキストに通暁しなければなりません。
と、かねてから自説の“作家と挿絵師は太夫と弦の関係”を唱えながら、つづけて、テキスト読み込みの重要性と挿画担当の決意を表明している。
その2
戦時中の物資欠乏の時代によくぞ!の『随筆風俗帖』と『随筆美術帖』(双雅房刊)。「濹東雑話」はこの『随筆風俗帖』で最初に接した。
   

飾り「こいつは背水の陣」

   ところが今度の私の場合の『濹東綺譚』は、
   どうでもファイン・プレー、少なくとも、
   フェア・プレーで乗切らない事には、
   挿絵師の一分(いちぶん)立たぬコンディションに
   置かれました。予めテキストは初めから終わりまで
   そっくりと(そろ)って、どうこれに通暁しようと
   ままに、そこに与えられていたのですから。
   (中略)──私はこいつは背水の陣だと考えて、
    (うな)ったわけです。()を上げますが、
   相当苦心しました。
とはいえ──苦心談など真顔ではいえたものではなく、仕事に「苦心は当り前ですから略します」としつつ、ひとつ、「亀井戸で玉の井と同じような娼家をやっている者」と縁があったので「先方の邪魔にならない、午後の一時から四時まで、このショーバイの家の構造から便所の中まで帖面にぎっしりと一冊写生した」──のが、この仕事の最初にやったことだという。
その2
「亀戸ノ娼家・タテ開閉ノ窓」と書き込みのあるスケッチ(昭和二五年十月写)という文字も見える。
 

飾り「お雪はあれでどうだろう、お雪さえよければ」

 そのときの取材の成果だろうか、娼家の正面隠し戸、女が外をのぞく小窓、開き戸、座敷内部の構造や機能が挿絵と記き入れによって解説されている。そして、それらの絵が、他ならぬ、登場人物のお雪さんのことが頭に浮かび荘八は「お雪はあれでどうだろう、お雪さえよければ、と、始終そのことを思っていました」──と述慢する。
 いいですねぇ、ぐっと胸に来ます。荘八先生の、お雪を思いはかる心。物語中の仮空の人物であったとしても、玉の井で生きる女性に対し、嘘のない挿絵を描かなければ…、と思う心立てが、さすが。「よっ、荘八師匠!」と大向うから声をかけたくなる。
 そして、この「濹東雑話」の一文は、
   ──この一篇は悪文を恐れ気もなく、(つつし)んで
   鏑木先生に献ず。──
で終っている。
 また荘八は別の「濹東新景」の中で、
   近世の文学の中から一篇を選べといわれれば、
   『濹東綺譚』を、明治の中からといわれれば、
   一葉の『たけくらべ』を挙げるに、
   一刻も躊躇(ちゅうちょ)しません。
と記している。
 敗戦後の復興時、“死んだ川”とも言われるほど、濁りに濁った隅田川だが、その川にほど近い町で育った人間(ぼく)にとっても、なんとも晴れがましく、心嬉しい荘八大人の発言である。
その2
吉原の通称「おはぐろどぶ」の情景。『たけくらべ』の世界。
 

飾り敗戦後の浅草、客の戻ってきた様子を挿画で記録

 この岩波文庫『新編 東京繁昌記』は、何度か買い求めている。荘八ファンという同好の士と知れば、うれしく、献呈してしまうから。
 いま、手にしている本の奥付を見ると、1993年1月 第1刷発行 1993年2月 第2刷発行 とある。「新編」は文庫になって1ヶ月ほどで、すぐ増刷している。これも喜ばしいことだ。
 ところで、1993年といえば、27年前である。ということは、人に差しあげて、手元になくなったので、寂しくて、また古書店で“補充”したのだろう。
 そういえば、この『東京繁昌記』には「新編」と頭に付くが、これには理由があって、まったく別に『東京繁昌記』という本があるため。「新編」ではなく“本編”の『東京繁昌記』は。ズッシリと重い、大判の立派な造本で、昭和三十三年、演劇出版社から刊行されている。ただ、ぼくが現在、手にするのは昭和六十年、国書刊行会刊の豪華復刻版。
 それはさておき、「新編」(以下、こう表記する)をパラパラとページを操るだけでワクワクしてしまうのは、くりかえすが、とにかく挿画満載(しかもカラー版、別刷り貼り込みも多し)なのだ。まず、本扉は、浅草は仲見世のにぎわい。今日とほとんど変わらない光景だが、左上の記き入れに「30・11・25」とある。昭和30年かぁ。敗戦から十年ほど経って、浅草にも人が戻ってきた、にぎわいである。
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これが『東京繁昌記』。荘八挿し絵世界の決定版(昭和62年6月・国書刊行会刊)この時代で定価1万6千円。
 

飾り“東京繁昌記もの”をコレクションして通観したかった

 本文は「東京繁昌記 はしがき」と題する一文から始まる。先の昭和三十三年演劇出版社よりの「はしがき」の収録である。ここでは江戸末の寺門静軒『江戸繁昌記』、「江戸名所図会』からはじまり、明治、成島柳北『柳橋新誌』、服部誠一(撫松)『東京新繁昌記』、また、東陽堂からの『新撰東京名所図会(「風俗画報」、臨時増刊、全五十六冊)、昭和三年、東京日々(いまの毎日)新聞社からの芥川龍之介他『大東京繁昌記』(下町篇・山手篇・全二冊)といった、江戸・東京“繁昌記もの”の変遷が述べられていてありがたい。
 右に記した“繁昌記本”、「新撰東京名所図会」は全五十六冊、すべての収集は無理で、自分に関心のある号しか入手していないが、他の書は、復刊も含めてだが、すべて手元にある。ある時期、“東京繁昌記本”を買い集めて通観したかったからだろう。
その2
『大東京繁昌記』の芥川龍之介の文に添えられた小穴隆一の河童図。芥川の著作の多くは、友人である、この小穴による装丁が多い。
 

飾り「「旧東京」の風景は、今日只今、絶滅した」

 荘八の次の頁「隅田川両岸一覧」にとても印象的な佃島に関わる一文が読める。引用する。
   東京広しといえど、すでに、水流の上に橋が
   渡って、その木の欄干の影が水中にたゆたい
   映る、いわんやその橋の上を蛇の目の女姿が
   通る──などという「清方えがく」風景を
   見ることの出来るところは、偏したりといえど、
   佃島の佃小橋へ行って見る(ほか)には、
   その時もう「手」がなかった。
と、「清方えがく」ような木橋の佃小橋の好ましさにふれている。しかし、そのすぐあと
   ──ところがそれが意外にも
   「昭和三十二年八月まで」の風景と
   (その時限りこの土地に影絶えてしまった)、
   はっきり日附を切って、こういえるように
   なろうとは!
と、木橋である佃小屋がコンクリートの橋に取って変わられるために消えてしまうことの記録なのである。さらに文章は続く。
   何も、橋は木を()って架けよ、と、
   アナクロニズムを申出るわけではない。
   既に東京には、木の橋か、
   ──そこを(しお)()のする川風が渡り、
   橋下からはすくすくと舟棹(ふなさお)や網の先が
   (のぞ)き、川岸にはぼっくい(ゝゝゝゝ)で架けた、
   船虫のいるさんばしが並ぶという
   「旧東京」の風景は、今日只今(ただいま)
   絶滅したということとを一筆はっきり書いておく、
   この一節のイミである。
と、口調は抑制を効かしているが、一気に啖呵を切るように、「一筆はっきり書いておく」と言い切っている。
 ぼくなど、今はこのコンクリートであっても、佃小橋周辺の光景がうれしくって、なにかというと月島から佃島に人を案内し、自慢気に、この佃小橋を渡ったり、その下の水の中をのぞき込んだりする。
その2
「在り日の佃小橋」と書き入れがある。荘八、思い入れの挿画。
 

飾り『濹東綺譚』挿画の戦後に書かれた、心にしみいる後日談

 「新編」には先に紹介した「濹東雑話」の他に、やはり『濹東綺譚』の挿画に関連しての「濹東新景」が収録されている。
 「濹東雑話」が昭和十二年、荘八描く、永井荷風『濹東綺譚』が刊行されたすぐあとに雑誌に掲載された文章であるのに対し、「濹東新景」は戦後の昭和二十三年に“後日談”の趣きの一文なのだが、どうしても紹介したい文章があるので引用する。
   ──私は当時(昭和十二年)この小説の挿絵を
   委嘱(いしょく) された時に、誇張した言葉でいえば、
   オレのウンメイは、これで極まった
   と思いました。短い本文でしたら全篇をのっけに
   渡されて(幸福なる (かな)、私が第一番目の読者)
   卒読し、(たちま)ち、読み終るや、こんな名篇は
   明治以来の文学に「ない」と思いました。
と、荷風の『濹東綺譚』に始めて接したときの胸中の高鳴りを記している。そして、これに続く文章が一読、忘れることのできない告白的記述なのだ。
   私はこの(昭和二十二年)十月四日に連れ合いを
   亡くしましたが、このバカな文章のついでに、
   更に、一筆大バカを書き加えることを
   許して下さい。
と断ったあと、──
その2
荘八描く「七夕」の情景。街と人々の空気感がなんともいえない。文字が絵であり、絵が文字である。
 

飾り「亡妻があったので、初めて私に出来た仕事」 

   当時私よりもまた一層彼女はその時の絵の仕事に
   熱を上げて、多分彼女は、百回以上原稿を読んだ
   ことでしょう。そして毎日、昼間の中に玉の井を
   実地踏査して来て、日くれに僕と連絡しては、
   第何回の何は何処(どこ)、何番地どこの横町を
   どう曲って……という報告を取り()わします。
   それに依って私は毎夜、嚢中(のうちゅう)を探るように、
   材料の土地を写すことができましたから、
   この大物と取組も、どうやら失態なしに済んだと
   思っております。──亡妻があったので、
   初めて私に出来た仕事であります。
と、亡くなった妻の献身的な協力あって『濹東綺譚』の挿画が成った、と鎮魂の言葉を書き添えている。これもまた一つの『濹東綺譚』余話、いや、「濹東 () 譚」といえるでしょう。こういう心情、というか平たく言えばオノロケを平気で吐けるところが、木村荘八ならではの“純情”、“熱度”でしょうか。
 この“純情”と“熱度”が、東京の町と、そこに生きる人々の風俗への思いを生み、そして画文の貴重な記録として残させた。
その2
荘八描く「盆踊り」。ぼくの記憶の中の情景でもある。
 

 心屈したときなど、かつての懐しい東京の幻影に慰められたいとき、ぼくは、木村荘八の随筆集を手にして、文章を読み、添えられた挿画をじっくりながめ、そこに書き入れられた荘八のメモ、覚えのような独得の書体の文字に見入る。

 「与えられた人生を、あるがままに勇敢に肯定して、女にも画業にも、自分の思ったままに生きぬいて一生を終った」(荘八の異母弟の木村荘十『嗤う自画像』の「あとがき」より)。

 荘八の、生の痕迹のような文字を愛しく見入る。