第3回
『アッツ島玉砕』にムラムラした会田誠と、反戦を感じとった野見山暁治
「そんな中でただ一つ、こちらを良い意味で「ムラムラさせる」絵がありました。それが藤田さんの『アッツ島玉砕』だったのです」

 この一文は、会田誠が『美術手帖』2006年6月号に掲載した「藤田嗣治さんについて」という文章の中にある(『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』所収)。前回、前々回で引用した『ユリイカ』でのインタビュー以外にも、会田誠による藤田嗣治論がほぼ同時に開陳されたのは、国立近代美術館で開かれた大規模な「藤田嗣治展」がらみの雑誌特集企画用だったからだ。

『美術手帖』の「藤田嗣治さんについて」は、「エコール・ド・パリ時代の藤田さんの絵や生き様」を村上隆と比較し、「戦後の藤田さんの絵や生き様」を奈良美智と比較して、今をときめく二人の画家と並べて、「藤田さんの現代性」とやらをあぶりだしてゆく。戦争画については、その導入部として書かれているだけである。しかし、この文章は、発表舞台が『美術手帖』だったせいか、韜晦度を減らして、「戦争画RETURNS」制作の舞台裏を明かしている。


レオナール・フジタ展 チケット
2013年8月10日(土)〜10月14日(月・祝)/Bunkamuraザ・ミュージアム
「僕は20代の終わり頃、太平洋戦争を題材にした絵のシリーズを作ってみようと思い立って、シリーズ名を『戦争画RETURNS』としてみました。いろいろといわく付きの「戦争画」というものがある、ということは数年前から知っていて、タブーとか裏面史とかに対する下世話な好奇心も含めて、興味を抱いていましたから、そこで東京都美術館の図書室に行って、戦中当時の展覧会図録をあるだけ見てみました。全体的な感想としては、鬼畜米英・愛国まっしぐら! な「ヤバい絵」がほとんどなく、拍子抜けな感じがしました(きっとプロパガンダ用のポスターなどのイメージが僕の中で先行していていたためでしょう)。当時の画家たちが(〝バカじゃない〟という意味でも〝大人しい〟と言う意味でも)「大人」であることが分かって、日本人として安心した反面、シミュレーションのネタを卑しく漁る腹づもりのこちらとしては、「どれも使えねーな」とがっかりもしました」

 戦中当時の展覧会図録や美術雑誌の図版ページを古本屋や図書館でめくってみると、物資不足の時代にあっては優遇されていたことに、びっくりする。美術なぞ、不要不急の最たるものではないのか。新聞も雑誌も減ページを余儀なくされ、書籍は紙を調達することが最大の課題だった時なのに、紙には上質紙が使われていて、いまでも古びていない。なかには、贅を極めて造本されているものもある。その豪華本はなにかと表紙を見ると、朝日新聞社刊の『陸軍作戦記録画集』だったりする。七十年も前の印刷物だから、印刷技術はまだまだ未熟で、再現性には限界がある。とくに、藤田嗣治の後期の戦争画は、暗鬱な色調が全画面を支配し、目を凝らさないと、何が描かれているのか識別しがたい。そうした悪条件にもかかわらず、会田誠が発見したのが、冒頭に引用したように、「そんな中でただ一つ、こちらを良い意味で「ムラムラさせる」絵がありました。それが藤田さんの『アッツ島玉砕』だったのです」。

「昭和40年生まれの僕は、両親から空襲の話を聞かされたり、毎年終戦記念日あたりに放映されるNHK特集を見たりして、太平洋戦争あるいは戦争全般のイメージをいつの間にか作り上げてきました。それは一言では言い表せない、非常に混沌としたイメージでした。しかし、『アッツ島玉砕』を見た瞬間、『あ、これは近い』と思ったのです。

あのやるせない暗さ、そこに蠢くパッション、根深い日本人の血、歴史の運命に翻弄される一人の人間の小ささ、近代戦の理不尽な死、敵味方の相対性、善悪の彼岸……。それらをひっくるめ、もっと大きな視点から見た場合の「人類の宿痾としての戦争」、そのどうしようもなさ。戦場の一場面を切り取ったレポート的、スナップ的戦争画が多い中、この絵だけはもっと巨視的な視点を持ち得ていると感じました」


『画家たちの「戦争」』(新潮社刊)
表紙に「アッツ島玉砕の図」の一部が用いられている
「美術家の戦争責任」といった問題意識からいったん自由になって、「アッツ島玉砕」を見つめると、そこから立ち上がってくるのは、会田誠がまさしく指摘したように、その「混沌」であり、その「宿痾」であり、「歴史の運命」である。それは日本人が経験せざるをえなかった「大東亜戦争」という歴史の総体に、奇跡的に肉迫した表現になっている。

 会田誠の「戦争画RETURNS」は、ここから始まる。

「この絵と、何らかの形で関わりたいと思いました。それで少々強引に(宿便を絞り出すように?)作ったのが、『戦争画RETURNS』シリーズの『大皇乃敝尓許曾死米(おおきみのへにこそしなめ)』(1996)でした。イルカの集団自殺や、リゾートとなった玉砕の島々や、捕鯨問題や、万葉集がグチャグチャになって、収拾が(意図的に)つかなくなった作品。その成否は置いておいて、『アッツ島玉砕』から発想した作品を曲がりなりにも作れただけで、僕は一応満足しました」

会田誠「大皇乃敝尓許曾死米(おおきみのへにこそしなめ)」(戦争画RETURNS)1996
襖、蝶番、旅行代理店のパンフレット(ハワイを除き沖縄を加えた南方の島々のもののみ)、油絵具、水彩絵具、墨(四曲一隻屏風) 178×273cm 撮影:長塚秀人
© AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery
会田誠の文章で括弧にくくられた、「宿便を絞り出すように?」「意図的に」といった偽悪的な言葉に、より強く会田誠の制作意図は表われている。それが、『アッツ島玉砕』に「何らかの形で関わりたい」という画家のモチーフの強さを逆照射している。私が、この連載を始めているのも、会田誠の顰(ひそ)みにならって、戦争画、その頂点である『アッツ島玉砕』に関われば、いまも日本という国家の中のさまざまな場所にこびりついている、近代日本の「宿便」を絞り出すことができるのではないか、その「混沌」「宿痾」「歴史の運命」に直面するのではないかという予感があるからだ。

といった大上段にふりかぶった話はひとまず置き、『アッツ島玉砕』に戻らないといけない。会田誠は、戦中の画集で、その絵を「発見」している。どうも、実物の『アッツ島玉砕』ではなかったようだ。実物を展観する機会があまりないという理由もあるだろうが、実物によらず、複製でも、その絵の力は十分に伝わるということなのだろう。

『アッツ島玉砕』を語る上で欠かせない、有名な証言を残しているのは、野見山暁治の『四百字のデッサン』(河出文庫)である。昭和五十三年(1978)に刊行され、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したこの名著の、巻頭に書き下ろされたのが「戦争画とその後――藤田嗣治」という一文である。上野の美術学校の学生だった野見山が、昭和十八年九月に東京都美術館で初公開された『アッツ島玉砕』をめぐるゴシップを仲間から耳にする。その絵のわきに、こともあろうに作者の藤田嗣治が国民服姿で立ち、賽銭箱にお金が投げられるたびに、藤田がお辞儀をする、というのだ。歩いてすぐの都美術館に行って、自分の眼で確かめると、噂話通りで、五分刈り頭の藤田が、演技がかってつっ立ている。この藤田のイメージがあまりにも強烈なため、このエピソードは、さまざまに引用され、一人歩きしてしまっている。軍という権力の広告塔となって、わが世の春を謳歌する、派手好きなお坊ちゃん画家の姿である。

「戦争画とその後――藤田嗣治」には、藤田のアトリエを訪問した話、パリでの再会の話などが綴られているが、肝心の『アッツ島玉砕』についての、野見山の評価が書かれていない。その不満を解消してくれる文章は『四百字のデッサン』の後半に出てくる。「戦争画」と題された小文で、昭和五十一年に書かれた「西日本新聞」の連載コラムの一本である。

野見山暁治著『四百字のデッサン』(河出文庫 1928年初版)
カバー挿図は、野見山暁治
 野見山は、美術学校を繰上げ卒業した後、陸軍二等兵として出征して満洲に送られるが、肋膜を患って内地帰還し、病院で療養している。そこに父親がグラフ雑誌を手土産に面会にやってくる。父親はもともとは息子の美校進学に反対していた。その父が息子を励ますかのように挑発する。「どうだ、ボヤボヤしちゃおれんぞ。どのページにも勇ましい闘いの絵が載っている。もう今までのような生ぬるい絵とは違うぞ、見てみい。画家も命を捧げて描いとる」。野見山は、父の言葉に共感と反撥の双方を感じながら、その雑誌に見入る。

「かなりみんな気負いたち、民族のなかからよりすぐってえらばれた選手のような気概をもって描いているように見えた。あながち強制されて描いているわけでもないようだ。なにか嬉々として取り組んでいる力強さがあった。中村研一の飛行機、小早川篤四郎の軍艦は見事だった。宮本三郎の軍人たちはもう勝ちほこっていて、これは時勢を得たような筆の走りがみえた。一途に聖戦と思いこんだ画家と、聖戦をあげつらうことによって世にでようとする画家と、中国や南の島に出かけて絵が描けることを喜んでいる画家と、こうでもしなければ画家の命脈を断たれるかと心配している画家と、思いはそれぞれ違っていても、ともかく画面上の日本軍隊は一様に勝者の栄冠をいただいていて、けなげな姿だった」

 父親とは違って、冷ややかにページを繰っている野見山だったが、藤田嗣治の絵には違ったものを感じる、ここで野見山が見ているのは、『アッツ島玉砕』と『神兵の救出到る』(昭和十九年)である。

「なかでも藤田嗣治の絵は一段と迫力があった。凍てついた島で玉砕した日本兵と、死んだアメリカ兵との共に青白い顔。死体の動かないその手の先に生えているかぼそい草々。あるいは南方での、哀れな現地女のうずくまった姿態と、それを救うために近づいている逆光の日本兵。ところがおかしなことに、この絵の迫力は、本人のそうした姿勢とはウラハラに、戦争がすべてを奪って死の世界へ引きずり込むようなまさしく反戦的な雰囲気を醸し出していた」

 この記述を信じるかぎり、野見山は『アッツ島玉砕』を初めて見たかのようである。勿論、昭和十八年九月に、都美術館で『アッツ島玉砕』を見てはいるのだが、その時は、絵を見たというより、藤田嗣治を見た、と言った方が正確なのかもしれない。見世物小屋で演じられる悪趣味なケレン、時流に便乗する文化人の醜態、スタンドプレーの効能をわきまえた巴里帰り。「この人は戦争ゴッコに夢中になり、画面の横につっ立って大真面目の芝居を娯しんでいるのではないか」というのが、藤田の書斎を訪ねた後でも変わらない、野見山の藤田評であった。その印象は美校卒業に際して、麹町の藤田邸でもてなしを受け、「オ国ノタメニ、タタカッテ下サイネ」と小声で言葉をかけられた後でも変わらなかった。

 それが、グラフ雑誌を見ていて、「反戦的な雰囲気」とまで、藤田評価を変える。この「反戦的な雰囲気」に見えたのは、もともと野見山の中に根強くある「戦争というものは人間の営みの中で間違った部分なんだ」という認識を刺激するものがあったからだろう。それに加えるに、満洲の戦野の最前線でソ連と対峙した兵隊生活が、微妙に絵の見方を変えていたのではないか。

 それにしても、野見山暁治ほどの人が、展覧会で、絵をよく見ていないというのは、どういう事態なのだろうか。
(了)
 

著者プロフィール

平山 周吉(ひらやま しゅうきち)

1952年東京都生まれ。雑文家。慶応大学文学部卒。雑誌、書籍の編集に携わってきた。昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読している。現在、「新潮45」「週刊ポスト」に書評を執筆している。4月下旬に、初めての著書『昭和天皇 「よもの海」の謎』が新潮選書から刊行。