■峠シリーズ「越中の峠」
木曽義仲と倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠 倶利伽羅峠・源平合戦の地
 越中と加賀の間に峠がある。峠は国境であったり二つの勢力の境界であったりする。峠には戦いの跡が多くある。平安末期は時代の端境期である。日本の歴史に武士が登場し土地争いをはじめる。一方の棟梁が平家でありもう一方の棟梁が源氏である。二つの勢力がぶつかり合った。倶利伽羅峠は平家が支配していた社会から、やがて鎌倉に武家政治を展開するきっかけになったところである。
 改革に夢を膨らませて新しい時代作りを実行に移した若き青年・木曽義仲は歴史上では良い様に語られていない。しかし、文献を紐解くと意外な人物観が浮かび上がる。平安時代から峠を越えて鎌倉時代に繋ぐ重要な役割を担った。純真な心の持ち主であり、悲劇の最後を遂げた人としても、後の人は評価する。芭蕉もその一人である。今の時代に共感を覚える一人である。

■義仲が生きた時代(1154年〜1184年)・・・平安末期の時代背景
 藤原氏の栄華の時代は終わり、院政(天皇の上の人)がひかれた。奈良時代から築かれた律令制度が崩れ、土地を持った者が土地を守るため武装化し各地で豪族が生まれた。国司も任期過ぎるとその地方で土着するものも出てきた。「一所懸命」の言葉は、自分の住む所の土地を懸命に守ることから、この時代に使われるようになったとされ、土地をめぐる争いは絶えなかった。豪族の中でも特に源氏と平氏が活躍した。
 源氏の方は次の棟梁を巡る争いは絶え間なく続いたが、平氏の方はまとまりがあり、平治の乱(1159年)で源氏と平氏が武家の頂点を目指す戦いをしたが源氏は負けて、都の京は平清盛を中心とした平氏が支配していた。
 その平氏支配の政治を崩壊に導いたのが義仲であった。無名の青年が平家を倒し都を義仲に明渡す。日本の古代社会は終わり、新しい中世社会の始まりである。それを決定付けたのが倶利伽羅峠の戦いである。
倶利伽羅峠の戦いは日本の歴史の分水嶺でもある。

■木曽義仲の生い立ち
 木曽義仲は旭将軍とも呼ばれ、征夷大将軍についたが、彼を田舎者とか、山猿とか称して誤解している人が多い。歴史書はその時代の勝者によって編集されることが多く、敗者であった義仲は事実と異なり歪曲されて伝えられている節がある。史実を紐解きその裏に潜む人の心を読むとそのことがわかる。
 ★姓は「木曽」なのに、なぜ「源氏」か?
 義仲は1153年源義賢の次男として武蔵野国で生まれる。幼名は駒王丸と呼ばれた。義仲2歳の時、父義賢は滅ぼされ木曽に逃れ、元国司である中原兼遠に育てられた。
 兼遠は義仲の「源氏の血筋」をよりどころにして着々と信濃で勢力を伸ばした。兼遠は自分の子供たち(後の木曽四天王)と同様に高度の教育と武士としての鍛錬をした。
 義仲は13歳のとき平家に気づかれないように都へ行き石清水八幡宮で元服し「木曽次郎義仲」と名乗った。即ち、義仲は源氏の血筋であるが、木曽で育てられ元服のときに「木曽」の姓を名乗ったのである。

 ★源頼朝との関係
 義仲は、牛若丸として名高い源義経や鎌倉に幕府を開いた源頼朝の従弟に当たる。頼朝は「自分こそ源氏の棟梁」として源氏を配下に治めるために無理難題で脅かしたり、戦いを挑んだりしてその勢力を拡大していた。頼朝の難題に対して、義仲は息子・義高を人質に差出ししのいだ。

 ★挙兵し平家破る・・・倶利伽羅峠の戦い勝利
 北陸、信濃で勢力を拡大した。以仁王の令旨によって挙兵、先ず越後に攻め入り平氏の城・長茂を討ち北陸路を駆け登り、倶利伽羅合戦で平維盛軍を破り、一挙に上洛した。彼を上洛まで導いたのは、信濃北陸の豪族を見方にしたからである。

 ★義仲をなぜ旭将軍と呼んだか
 義仲が木曽から北陸を経て上洛する勢いは、旭の昇る勢いであったことから旭将軍と呼ばれるようになった。

 ★後白河法皇の陰謀
 後白河法皇の策略にはまり頼朝軍に敗退した。近江の粟津ヶ原で討ち死にし31歳の生涯を閉じた。

■倶利伽羅峠の戦いの前・・・平家打倒のために挙兵!
 平家が都を支配して10年以上になる中、治安が悪くなり平家打倒の機運が高まった。1180年、後白河上皇の子である以仁王(もちひとおう)の令旨によって、各地の源氏は立ち上がった。4月には源頼朝、8月には木曽義仲も木曽で挙兵した。平家はこれを放置できず越後の城長茂に命じて義仲を討たせようとした。義仲軍は木曽から信濃に入り、信濃に迫ってきた長茂軍を破り越後国府に逆に攻め入った。信濃・越後を中心に木曽義仲の武名が上がると、かねてから平家に反感を抱いていた北陸地方の豪族も彼に味方した。越中の東に勢力を持つ宮崎党や、越中の西に勢力を持ち古代の豪族・砺波氏の子孫である石黒党も味方した。
 




■倶利伽羅峠の戦いに義仲勝利!・・・戦法『火牛の計』で天下への道か?
 1183年の4月、都の平宗盛は義仲打倒のため10万の兵を率いて北陸へ攻め下った。越前で義仲の先発隊を破り加賀・越中の国境に位置する砺波山に陣を張って越中をうかがった。
 一方、越後国府にいた義仲は、先ず、今井兼平に六千騎を与え、元越中国司の平盛俊を破った。そして叔父である源行家に能登方面の攻めを任せ、自らは本体を率いて砺波山に向かった。5月にいよいよ倶利伽羅峠の戦いが始まった。平家は砺波山西麓に布陣し、義仲軍は東麓一帯に布陣した。義仲軍は地元の石黒・宮崎などの協力を得て夜襲をかけた。平家軍はこの夜襲に狼狽し谷底に転落するものも多く、平知度・為盛も戦死し、平維盛は都へ逃げ帰った。この戦いを機に義仲軍は都へと兵を進めた。。この時の採られた戦法が世に有名な『火牛の計』である。
 義仲は敗走する敵軍を追いかけ加賀・近江を越え比叡山に陣取った。平宗盛は安徳天皇やその生母の建礼門院など一門を引き連れて京都六波羅の館に火を放し西国へ都落ちした。平家の栄華は沙羅双樹の花の如しとなった。

■本当に火牛戦があった?・・・倶利伽羅合戦の戦法
火牛戦

 この倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲の戦法『火牛の計』は、500頭にのぼる牛を集め、その牛の角に火をつけた松明を結びつけ、夜中に敵軍のいる方向に追い立てるというやり方である。驚いた平家は敗走したという話である。この話は「源平盛衰記」に登場する。これが本当に実在したかを検証した人も多い。
 この火牛の戦法は古くは中国の春秋時代に存在する。中国の田単将軍が採った戦法で牛の角に松明をつけるのではなく、牛の尻尾に葦を縛りつけ火をつける。驚いた牛は、まさしく尻に火がついたのと同様となり、猛烈な勢いで敵陣に走り突っ込むやり方である。
 史実との検証をしてみると、500頭もの牛はこの時代この地方には存在した可能性は無い。ましてや短期間にそれだけ多くの牛を集めることは不可能である。また、牛の角に松明を縛りつけ火をつけると、むしろ牛は怖がって前には進まないとの事である。また、この時代の倶利伽羅峠は相当の難所で獣道であった。そこへ10万もの兵士がぶつかり合えば牛がいなくても谷へ転がり落ちる者が多いのは当然である。
 おそらく、後の世に諸国行脚の琵琶法師の語り部たちが倶利伽羅峠の戦いを、義仲軍の武勇として誇大表現して伝えたことは当然である。そして、聞く人に楽しんでもらうため、中国の田単将軍の話を添えて伝説化したものが源平盛衰記に記されたものであろうと推測される。史実は如何に???

■もしかしたら「北国政権の夢実現」
 歴史には「if(もし・・・)」を語ると面白い。今とは全く違った時代を想定できる。もし「木曽義仲が一挙に京に攻め入らず、体制を整え、時期を待って京へ攻め入れば・・・・」「京に攻め入らずに、北陸で武家の新しい政治を完成していれば・・・」源頼朝の鎌倉時代は存在しなかったであろう。
 功を急いで、比叡山から一挙に京へ向かった。時期はまずく食糧危機の時代と重なった。都では実りもしない田んぼの青田刈り、略奪が行われた。義仲軍はその平定に一躍かったとされているが、混乱の都では逆に略奪者として扱われることもあった。そのため義仲の評判は落ちた。京の商人たちは義仲の兵に物を売らなくなった。となると兵士らは生きていくために本当に町荒らしを始めた。そして、後白河上皇から義仲討伐の命が下った。
義仲政治は夢となった。源氏の勢力が二分することを快く思っていなかった源頼朝は後白河法皇の命を受けて弟の範頼・義経を討手の双大将にして京の義仲軍を攻めた。義仲は琵琶湖の西岸を経て粟津が原に落ちて最後の一戦を交えて討ち死にした。

■義仲と芭蕉
 滋賀の大津のJR膳所駅から少し歩いたところに「義仲寺」がある。室町時代の末期、近江の守護・佐々木六角が木曽義仲の壮絶な最後を記念して建立したとされている。境内には木曽義仲と松尾芭蕉の墓が並んで建っている。松尾芭蕉はこの周辺の景色をこよなく愛し度々訪れた。芭蕉は生前、木曽義仲の悲劇の最後を悲しみ、自分の死後は義仲の墓の隣に自分の墓を建てることを願ったため、建てられたものである。芭蕉の有名な句がある。

  「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」  芭蕉

また、境内には芭蕉辞世の句もある
  「旅に病て 夢は枯野を かけめぐる」  芭蕉

■本当の木曽義仲
 木曽谷で育った義仲が破竹の勢いで平家を破って京の都まで攻め上った。彼の大勝ぶりはまさに「青春の軌跡」である。その勝利に大きく貢献したのは北陸路で彼を支持した武士たちである。彼らは平家の体制に飽き、変革を望んでいた。彼らと共にエネルギーを爆発させたのである。
 彼は都に入っても木曽の自然派であった。素朴で飾り気の無い野育ちの青年であった。そのために意地悪な都の貴族たちは、田舎育ちの義仲を蔑んだ。そして、後白河上皇までも源頼朝と手を組んで義仲を落とし入れたのである。近江の粟津辺りで最後を迎える。最後まで従ってきた義仲の愛人・巴御前とも別れを納得させ、寄せ来る敵陣に駈け入っていった。
 彗星の如く歴史に登場し消えていった義仲の軌跡は後の人々の心を揺さぶった。芭蕉ももその一人であった。
義仲には欠点もあった。武力はあったが政治力は無かった。そのための読みの甘さもあった。しかし、がむしゃらな彼の青春は、平家と後白河上皇の古代社会の権威を崩壊させ大改革を成し遂げたといってよい。彼が果たした歴史的役割は大きい。
 敗者の歴史は歪められて伝えられる事が多い。義仲もその一人である。それは歴史書は勝者によって編纂されるからである。木曽義仲は人によっては好きな歴史上の人物としてあげる人が多い。知れば知るほど義仲に人間的な魅力を感じる。