フランス ル・コルビュジエと現代建築の旅

G-1.サヴォア邸

旅もいよいよ最後の訪問地パリとなりました。パリのホテルは5区(M4) Saint-Michel(サン・ミッシエル駅)そばにしました。今回のパリ建築探訪でよく利用するハブ駅(M)Châtelet-les Halles(シャトレ・レ・アレ駅)に近い事、近郊線RER C線で直接CDG空港に向える事で選択しました。それにつかの間のパリ、賑あいのあるエリアにした事も。

移動にはParis Visite Pass(パリ・ヴィジットパス)のゾーン5の二日間の切符を駅で購入。バスやトラムにも使い重宝しました。郊外のゾーン5までを購入したのは一日目のポワシー、帰国日のCDG空港までの利用を考えた為です。

移動にはiPhoneアプリの"Transit FR(NAVITIME)"と"LeBonWagon"を合わせて利用しました。

さて、一日目はまずサヴォア邸に行き、次にラ・ロッシュ邸、その後スイス・ブラジル学生会館に行きます。

サヴォア邸(Villa Savoye1931

パリに着いたら何といっても先ずサヴォア邸(Villa Savoye)に行かなければ落ち着いて後の予定が立てられません。[RER]Châtelet-les Halles(シャトレ・レ・アル駅)よりRER A分岐線A5の終点Poissy(ポワシー)に向かいます。オール二階建てのきれいな電車は約30分でポワシーに到着です。

ポワシーはプジョー・シトロエンの自動車工場が知られており、駅北側には大工場が広がっています。1932年、時の政府が急増する輸入車への関税障壁を設けた為、フォードがここに現地生産工場を作ったのが始まりです。サヴォア邸建設では車への対応が重要な要件になっていますが、その頃、近くでそうした車社会の変化が進行していたという事は興味深い事です。

ポワシー駅前ポンピドー広場に建つポンピドー大統領胸像

南口駅前のポンピドー広場にはポンピドー大統領の胸像が有ります。そう言えばポンピドゥー・センターの中核、国立近代美術館はコルビュジエが提唱したものですね。

ここから30分歩いでサヴォア邸に向かう事にしていたのですが、駅前を散策している内に傍のバスターミナルに来て、これはもうバスで行こうと決めました。50番のLe Coudrale行バスに乗ります。乗り場は2番でした。50番はここ駅南口(Gare Sud)を経由しているだけなので反対方向のSt Exupery行乗らない様に気を付けます。他に乗客はいない中バスは出発しました。古い街並みを抜け緩やかな坂道に入って行きます。車内のモニターには近づく停留所が次々と表示されます。”Villa Savoye”が出てきました。その次の停留所”Lycee le Corbusier"も出てきました。降りる準備をしますが”Corbusier”の表示が気になります。これはこの校舎建設がサヴォア邸保存運動のきっかけになったとも言えるコルビュジエ高校です。サヴォア邸入口はこの二つのバス停の間にあります。約8分で到着です。

バスのおかげでサヴォア邸には予定外に早く着きました。10時の開館まで未だ30分以上あるので隣のコルビュジエ高校でも見に行こうかと思ったら、入口の門は既に開いていました。

入口の案内板は控えめですが、見ると認識を新たにすることがあります。サヴォア邸を設計したのはコルビュジエと従兄弟のピエール・ジャンヌレ(Pierre Jeanneret)と銘記されています。因みにコルビュジエの本名はCharies-Edouard Jeanneret-Grisですね。確かにこの時期は二人が一緒に活動しており、これから見学するパリの建築の多くが二人の仕事によるものです。コルビュジエも彼の力に助けられたと思いますし、その事は忘れてはいけない事ですね。もう一人、日本にはなじみのあるシャルロット・ペリアン(Chariotte Perriand)も入れて欲しいと思うところでしたが、、、

案内板には入口の右にある小さな庭師の家(Masion du Jardinier)の表示もあります。サヴォア邸と同じ1931年に作られていますが、二人が提唱した「メゾン・ミニマム・ユニファミリアル」を唯一実現させた建物として個別に評価されます。外観はきれいでもっとそばで見てみたかったのですが、雑草が茂り近づけませんでした。“庭師の家”ですから名に恥じない様もう少し整備してほしいものですね。

門を入ると左手に木々に囲まれた小道が見えます。その先を右に曲がり歩いて行くと、大きな木々の間からサヴォア邸が見えてきました。

そして視野が開けると緑の芝生の上にサヴォア邸が静かに立っています。ついにやって来た。目の前にしてまたもや感激です。昔の車の誘導路に沿って建物の入り口に行くとやはり建物のオープンは10時なのでしょう、扉は閉まっています。

物から離れて芝生の中を回ります。誰もいないのでゆっくり見学です。この時間帯の見学はお勧めです。今の敷地は建設当時よりかなり狭くなり約一万㎡位と言われますが、それでも十分な広さと思えます。敷地の三面はコルビュジエ高校に接しているはずですが芝生の端は今や高い木立ちに囲まれてサヴォア邸以外は目に入りません。

建物はどの面も個性がありますが、やはり二つの塔が見える北西の面の造形が素晴らしいですね。芝生の西の端にオブジェのような台があるので腰掛けます。今朝は曇り空でしたが薄日が差して来ました。サヴォア邸を一人で見ながら贅沢な休憩です。コルビュジエが語っている、住宅の三要素、太陽、空間そして緑を感じさせます。ふと気付いたのですが塔の間にある窓の様な開口部は何でしょうか。二階の開口部の柱は下のピロティより細くなっている様に見えます。段々と建物の細部が気になり始めた時に扉が開くような音が聞こえてきました。時計を見ると丁度10時です。建物の入口に向かいます。

ピロティーの内側に入っていきます。落ち着いた濃い緑の壁、それに続いて黒い鉄枠で縦割りされカーブしたガラスの壁、白いキュービックの下に隠れている洗練されたデザインを改めて確認です。

開いている扉から一歩入ると右に受付のデスクがあり、受付の方が「こんにちは」と日本語のあいさつです。どこから来られたかデータを取られているそうで日本の方が多いいとの事。そんな話は置いて、エントランスの周りの造形のすばらしさ、修復もうまく行われていて大変美しい。思わず「すごいね!」日本語で返します。まだコンクリート技術が発達していなかったと思われる1930年に既にここまで来ていたかと思うとただびっくりです。下から上に抜ける美しい螺旋階段、なだらかなスロープには上からは柔らかい光が漏れてきています。それにしゃれた洗面台。クオリティの高い居住中空間です。

柔らかく注ぐ光を追ってスロープを二階に向かいます。各部屋を見学です。

中でも印象的だったのは北東の角を占める広いキッチンでした。”連続窓”が成せる技でしょう、二面が広く窓に面しており、まさにここでの時間は“Les heures claires(明るい時間)ですね。バックヤードには機能的で十分な食器棚も配置され今日の本格的なキッチンのレインアウトにも劣りません。この辺はシャルロット・ぺリアンの仕事なのでしょうか。流し台、いやシステムキッチンは一見古く見えますが、そのシンプルなデザインは印象的で新鮮にも感じました。

良く紹介されるユニークなバスルームも、実際に見ると天窓からの自然光に暖かいライトが加わり、そのガラスタイルはとてもきれいに見えます。実際にお湯が入れば、濡れて光るタイルは更に綺麗なことを想像します。

部屋を見学していくにサニタリーの設備一つ一つが機能的で美しいデザインです。

サヴォア邸の先進性は建物に限らず、その中にある設備も含めたトータルデザインにある事が分かります。サヴォア夫妻にとっては日常の生活から離れた別荘という事での冒険があったのかもしれませんが、それに答えるコルビュジエらには何事にも妥協はなかったようですね。

広い居間に来ました。まず驚かされるのは中庭に面した幅・高さとも2m以上の全面ガラスの引き戸です。思い切った設計はもとより、当時既にこのような大きな板ガラスが製造できた事は驚きです。さらに外側の壁には連続窓が続き部屋の中も外の景色と一体化しています。ここで過ごす時間は正に“Le heures claires”だった事でしょう。

中庭に出ます。気になっていた開口部の柱を確認です。柱は断面が楕円形で見る方向により細く見えるようです。更に庇の内側が中央部に向けて膨らみを持たせてあります。それらは、中庭から外の景色にスムーズに視線が向く様考えられている様に思えました。

中庭には見学者の為にでしょうか、ロングチェアが置かれていました。これに横になり目を閉じれば、まさに至福の時です。

三階の屋上庭園に目をやります。プランターの植栽と外の木立が調和して建物が一層映えて見えます。よく見ると居間の大窓を通して更に外側の連続窓の先に木立が見えます。そして手前のプラターの植栽とも一体化しています。起き上がると窓の景色も変わっていきます。これぞ究極の建築的プロムナードでしょうか!?ただ周りの木立は当時とは変わっているかもと思っていたところ、後日同じアングルからの昔の写真Web上に見つけました。当時も建物の周りの木立の様子は今とそんなに変わっていない様です。サヴォア夫妻も同じような風景を楽しんだのでしょうね。

階の屋上庭園に向かいます。スロープを上がって行くと周りの木々そして窓越しの緑が動いていきます。そして周りの視野が開けて来ると、コルビュジエ高校の校舎の一部が木立の上に見えてきました。この学校建設に当たって、当時荒廃していたサヴォア邸の取り壊しの話が浮上。そこからコルビュジエの保存運動、最後はアンドレ・マウロー文化相まで出てきて、1964年民間建築モニュメントに指定され保存が決まりました。

学校のHPを見ると1957年建築家ジャック・ショウリアット(Jacques Chauliat)がこの学校建設プロジェクトを担当し、19649月に開校。1965年には高校の名前にサヴォア邸のLes heures claires(明るい時間),その後1972年にはLe Corbusierの名前を付けたとあります。

サヴォア邸の一角に盾の様に立つ高校の校舎は、ピロティーがありファサードはどことなくプリーズソレイユのイメージを持っています。 ジャック氏は、ちょうどサヴォア邸の保存運動のさなかにサヴォア邸を何度か見に行っている記録があります。校舎設計に当たっては当然サヴォア邸を意識していたでしょうし、コルビュジエの影響は間違いなくあったのではないでしょうか。ふと、前日訪問したロンシャンの礼拝堂の周りに作られたクララ女子修道院を思い出しました。

屋上につきました。さて気になる開口部ですが、パンフレットにはこのランドスケープをフレーミングする窓からはセーヌ川が見える景色が楽しめたと有ります。コルビュジエの他の建築でも見られる手法です。しかし今は木が生い茂りセーヌ川は確認できませんでした。代わりに木立の間から少し見えるのは校舎と運動場でした。

学校のHPを見ると1300人の若者を抱えるコルビュジエ高校のマークにコルビュジエの丸いメガネがあります。私にはコルビュジエがそのメガネを通して語った未来を継ぐ意思の様にも思えました。

サボア邸は世界中の建築に志がある人たちにとってはぜひ訪れたい聖地ではないでしょうか。それと同時に、ポワシーの人々、とりわけコルビュジエ高校に通う様な若い世代は、そうしたサヴォア邸を身近に感じることで、コルビュジエの良き理解者に育っていくのではないでしょうか。 

今年の5月、ポワシー市長がポワシー駅の駅名を“Poissy-Le Corbusier”か“Poissy-Villa Savoye”にする事を当局に要請した報道がありました。ポワシー市にとってコルビュジエのサヴォア邸がいかに大切な存在であるかがわかります。