文化 | 7年(1810) | 忠次郎、佐位郡国定村の富農長岡与左衛門(27)の次男として生まれる。 | |
母は新田郡綿打村の百姓五右衛門の娘(20)。 | |||
10年(1813) | この年 | 弟、友蔵(1813−78)、生まれる。 | |
13年(1816) | 1月 | 忠次郎(7)、養寿寺の寺子屋に入る。 | |
7月1日 | 忠次郎の祖父、権太夫(1759−,58)死す。 | ||
この年 | 日雇い人夫1日百文(百文で白米1升6合) | ||
忠次郎の兄、信太郎(9)病死する。 | |||
14年(1817) | 1月 | 忠次郎(8)、清五郎と共に赤堀村の本間道場に通う。 | |
7月27日 | 江戸の坂東大三郎一座、佐位郡戸谷塚村で歌舞伎・狂言・三番曳を興行する。 | ||
大前田栄五郎、月田の栄次郎、武井の和太郎と共に久宮の丈八を斬り、栄五郎は美濃へ、栄次郎は甲州へ、和太郎は日光へ国越えする。 | |||
文政 | 2年(1819) | 5月20日 | 忠次郎(10)の父与五左衛門(1784−,36)死す。 |
与五左衛門は本間道場の本間千太郎と同い年で兄弟弟子。 | |||
父の死後、忠次郎は暴れ者になる。 | |||
この年 | *日雇人足一日100文(蒔入時132文)。白米百文で1升6合。 | ||
3年(1820) | 正月 | 大雨が続き、利根川から小川に至るまで氾濫。 | |
4月 | ◆霜により桑が全滅。養蚕はできず、蚕はすべて川に流す。 | ||
5月 | ◆13日〜6月5日まで休む事なく、雨が降り続く。 | ||
7月 | 村々に飢民盗賊が横行し長脇差の徒が徘徊するため、木島、百々、境町、境村、女塚、高岡、世良田の7ケ村では自警団を作り、無宿狩りをする。 | ||
8月 | ◆初旬〜10月1日まで長雨。作物できず大飢饉となる。 | ||
4年(1821) | 3月 | 百々村の羽鳥弥久(門次)、無宿となる。 | |
貞然(−1861)、長岡家の菩提寺養寿寺の住職となり寺子屋を営む。 | |||
忠次郎(12)、貞然に感化される。 | |||
この頃 | 栄五郎、名古屋に住む。伊勢崎太織1疋3分又は1両で取引される。 | ||
この年 | ◆諸国旱魃、窮民の増加。 | ||
忠次郎、田部井村のお町(12)に一目惚れ。 | |||
5年(1822) | ◆大雨のため利根、広瀬川は大洪水を起こし、島村、平塚は大被害を被る。 | ||
6年(1823) | 4月 | 伊香保で馬庭念流と北辰一刀流の額論あり。本間千太郎、参加する。 | |
この年 | ◆諸国に一揆、打ち壊しが多発する。 | ||
7年(1824) | 大前田栄五郎、江戸で捕らえられて入牢。佐渡に送られる。 | ||
忠次郎(15)、賭場に出入りするようになる。 | |||
8年(1825) | 3月 | お町(16)、伊与久村の深町某のもとに嫁ぐ。 | |
10月 | 忠次郎(16)、お鶴(1808−76,18)を嫁に迎える。 | ||
お鶴は佐位郡今井村の旧家、桐生家に生まれる。 | |||
この年 | 大前田栄五郎、佐渡を脱島。帰国して河越に潜む。 | ||
9年(1826) | 3月23日 | ◆木崎宿、火災。宿並をほぼ焼き尽くす。 | |
9月28日 |
幕府、無宿者・農民・町人の長脇差携帯を禁止する。 |
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10月 | 忠次郎(17)、浪人を殺し、河越にいる大前田栄五郎(34)を頼る。 | ||
この年 | ◆関東に地震多発、旱魃となる。 | ||
10年(1827) | 2月 |
幕府、関東全域取締強化のため取締出役の下に改革組合村を設置する。 |
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3月 | 忠次郎(18)、栄五郎の添書により百々村(境町)の紋次(28)一家へ入る。 | ||
紋次は島村の伊三郎(38)の傘下の親分。子分に三ツ木の文蔵(19)がいる。 | |||
4月 | 忠次郎は紋次の紹介で大笹の寅五郎(35)の元に隠れる。 | ||
10月6日 | 関東取締出役、境町に廻村する。 | ||
忠次郎、国定村に帰るが、お鶴は冷たい。 | |||
11年(1828) | 1月 | 忠次郎(19)、田部井村で出戻りになったお町(19)と再会する。 | |
5月 | 忠次郎、お町を妾とし、田部井村に家を持つ。 | ||
10月4日 | 館林藩士生田万(1801−37)、藩領外に追放されて浪人となる。 | ||
11月7日 |
関東取締出役、村々にて脇差など取締、質屋を調べる。 |
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この年 | 武蔵国久下村出身の蘭医村上随憲(40)、境町で開業する。 | ||
養蚕は並だったが、6月1日より大雨が振り出し、7月1日には川が氾濫田を埋め、半分以上が実らず。米相場も例年なら1両に1石2斗だったが7斗5升になる。 |
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12年(1829) | 8月 | 武州本庄宿御堂坂に佐渡送り囚人の唐丸破り事件起こる。 | |
忠次郎(20)、三ツ木の文蔵と組み、賭場荒らしを始める。 |
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忠次郎、玉村の飯売旅籠万屋で豪遊する加部安の若旦那(22)と会う。 | |||
天保 | 元年(1830) | 3月 | おかげ参り大流行。 |
9月 | 忠次郎(21)、病気になった紋次から駒札を譲り受ける。紋次は隠居する。 | ||
三ツ木の文蔵(22)、国定村の清五郎(21)、曲沢の富五郎(21)、保泉村の久次郎(20)、神崎の友五郎(20)、山王道の民五郎(19)、茂呂村の孫蔵(19)、田部井村の又八(19)、八寸村の才一(18)、国定村の次郎(18)、下中の清蔵(17)、新川の秀吉(16)、下植木村の浅次郎(15)、堀口村の定吉(15)、桐生町のお辰(15)ら、忠次郎の子分になる。 | |||
2年(1831) | 忠次郎(22)、島村の伊三郎の賭場を荒らし回る。 | ||
10月 | 高野長英(1804−50)、境町在住の蘭医村上隧憲(1789−1865)を訪れる。 | ||
渡辺華山(1793−1841)、上野国を訪れ『毛武遊記』を著す。 | |||
この年 | 五目牛の千代松(22)、甲斐の新十郎(20)、子分となる。 | ||
3年(1832) | 8月19日 |
鼠小僧次郎吉(1797−1832)、江戸小塚原で処刑される。 |
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この年 | ◆天保の飢饉始まる。米価沸騰。 | ||
田中の沢吉(15)子分となる。 | |||
4年(1833) | 5月 | 忠次郎(24)、島村の伊三郎(44)の賭場へ単身で乗り込み、賭場荒らしをみて失敗し、簀巻きにされる。賭場にいた福田屋栄次郎(41)に助けられる。 | |
福田屋と一緒にいた日光の円蔵(32)、忠次郎の軍師となる。 | |||
8月1日 | ◆関東、奥羽大風雨となる。 | ||
栄五郎、福田屋栄次郎の仲介で久宮の丈八の跡目豊吉と手打ち成立。以後、郷里(大胡)に居住する事、多くなる。 | |||
この年 | ◆諸国、飢饉となり、各地に打ち壊しが起こる。 | ||
八寸村の七兵衛(16)、赤堀村の相吉(16)子分になる。 | |||
◆利根郡では6分作。 | |||
この頃 | 上総屋源七(46)は信州権堂村で飯売旅籠屋を営む。 | ||
5年(1834) | 2月 |
関東取締出役、寄場組合村に富裕な者の貯穀や江戸積み出し穀物を調査。 |
|
6月 | 忠次郎(25)の一の子分、三ツ木の文蔵が世良田祇園の開帳賭博の賭銭取引の問題で、島村の伊三郎と喧嘩し、なぐられる。 | ||
7月2日 |
忠次郎、文蔵と共に境村字米岡前の林の中で島村の伊三郎(45)を殺す。 |
||
傷口は肩先より背へ掛け1尺7、8寸程、腰の廻りに2、3寸程の傷5ケ所。 | |||
7月13日 | 関東取締出役の使いとして木崎宿の問屋軍蔵たちが境村にやって来る。 | ||
伊三郎殺害の下手人として国定村の忠次郎と三ツ木の文蔵他8人の者が手配される。 | |||
忠次郎は三ツ木の文蔵を伴って、信州の松本に避難し、地元の博徒勝太の家に身を寄せ、ほとぼりの冷めるのを待つ。 | |||
忠次郎、中野まで賭場荒らしに出掛け、鼠小僧に扮し、銭を窮民にばら蒔く。 | |||
忠次郎、野沢温泉で湯女のおつま(19)と出会う。 | |||
この年 |
◆諸国大飢饉となり、一揆・打ち壊しが多発する。利根郡では豊作。 |
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栄五郎、長脇差を捨て、木剣を差し始める。 |
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日真(20)子分となる。 | |||
新川の秀吉(20)捕まる。放免となって戻る。 | |||
6年(1835) | 2月23日 | ◆中山道倉賀野宿で大火、本陣など200軒以上焼失。 | |
6月25日 | ◆関東、奥羽に大地震起こり、多数の被害が出る。 | ||
7月 |
忠次郎(26)、草津の長兵衛(24)の元に寄り、田部井村に帰る。 |
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草津で五町田の嘉四郎(22)と出会い兄弟分となる。 | |||
8月 |
山王道の民五郎が、玉村の京蔵、主馬兄弟に捕まり辱めを受ける。 |
||
玉村一家は子分二百余名と言われていた。 | |||
忠次郎、民五郎に八寸の才市と五目牛の秀吉を付けて、玉村に殴り込みを決行させる。兄の京蔵は留守、弟の主馬に重傷を負わせる。 | |||
京蔵は甲州から帰るが忠次郎を恐れて逃げ去る。 |
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江戸屋虎五郎(22)、都鳥源八を斬り館林へ来る。 | |||
下中の清蔵(22)、文蔵の妹やすと祝言を挙げる。 | |||
この年 | ◆利根郡は6分作。 | ||
7年(1836) | 2月 | 忠次郎(27)の子分、茅場の長兵衛が信州中野村の忠兵衛の伜源七に殺される。 | |
忠次郎、長兵衛の仇を討つため、子分を引き連れて中野に行くが源七は捕まった後だった。野沢温泉でおつまと再会し、窮民を助けるため、賭場荒らしをする。 | |||
3月10日 | 強い北風が吹き荒れる。 | ||
4月末〜 | ◆6月一杯まで雨が降り続く。冷夏となり、夏に袷を着る。 | ||
8月29日 |
◆谷川岳、三国山に雪が降る。 |
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9月 | 忠次郎、郷里に帰るが取締が厳しく、赤城山に籠もる。 | ||
大久保村の中島栄作(16)、赤城山に来て、忠次郎の子分になる。 | |||
10月20日 | 生田万、国学・歌学を指導するため越後国柏崎に移る。 | ||
11月 | 大間々を中心とした米騒動が起こる。 | ||
この年 | 長雨冷害で作物できず、忠次郎、貧民を救う。 | ||
力士崩れの境川の安五郎(22)、子分になる。 | |||
8年(1837) | 2月19日 | 大坂町奉行所元与力大塩平八郎(1793−1837)、大坂で乱を起こす。 | |
3月 | ◆飢饉のため穀相場が高騰する。 | ||
4月 | ◆諸国に疫病流行。将軍家斉、家茂に将軍職を譲る。 | ||
6月1日 | 生田万(37)、越後国柏崎陣屋を襲撃して自刃する。 | ||
6月 | 忠次郎(28)、田部井村向原の磯沼の浚渫(シュンセツ)を行う。 | ||
田部井村名主西野目宇右衛門は磯沼浚渫の費用を工面するため、忠次郎の博奕を公許し、田部井村に出作地を持つ友蔵の出金に見せかけて、上がりの17両を受け取る。 | |||
9月2日 | 将軍が代わり、巡検使が見回るため村方や宿場の取締が厳重になる。 | ||
この年 | 虎五郎(24)、江戸屋に入婿する。 | ||
◆冷害による凶作のため、利根・吾妻地方で多数の餓死者が出る。 |
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田崎草雲、鳥居峠で栄五郎を写生する。 |
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弟友蔵、嫁を貰う。 | |||
この頃 | 上総屋源七は義弟島田屋伊伝次に旅籠屋を譲り、上州に帰る。 | ||
9年(1838) | 3月26日 |
三ツ木の文蔵、新田郡世良田村の賭場(朝日屋)で関東取締出役に逮捕され、木崎宿の牢に留置される。同時に佐位郡八寸村の才市も捕らえられる。 |
|
忠次郎(29)は、文蔵たちを力で奪い返す計画を立て、子分多数を引き連れて木崎宿近辺の三ツ木山に集結して隙を窺ったが、関東取締出役が農民などを動員して厳戒体制を敷いていたため失敗する。その後、忠次郎らは旅に出る。 | |||
4月17日 | 御領所御巡検、伊勢崎に泊まり、国定で御弁当。 | ||
6月 | 幕府、農民・町人所持の金銀具を金銀座に差し出させる。 | ||
この年 | 関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。 | ||
神崎の友五郎、紀州藩の手で召し捕られ、忠次郎の名を騙る。 |
|||
兄弟分の清五郎、足を洗う。 | |||
10年(1839) | 5月14日 | 幕政批判等により、渡辺華山・高野長英が捕らえられる。 | |
この年 | 勢多郡花輪村出身の戯作者二世十返舎一九、江戸から赤城山に隠れる。 | ||
忠次郎(30)、逃亡中。金毘羅宮に行く途中、岐阜(瑞浪市)で人助けをする。 | |||
八寸村の才市(27)、さらし首にされる。 |
|||
11年(1840) | 1月 |
忠次郎(31)、逃亡中、四国の金毘羅宮を参拝。 |
|
4月 | 五目牛の千代松(31)、お徳(25)を妻にする。 | ||
6月 | イギリスと清国間にアヘン戦争起こる。 | ||
6月29日 | 三ツ木の文蔵(32)、伝馬町で斬首され3日間晒される。 | ||
9月 | 浪人大久保一角(42)、忠次郎の居候となる。 | ||
12月30日 | 平田篤胤(1776−1843)、著書発禁・江戸追放を命じられる。 | ||
神崎の友五郎(30)、さらし首にされる。 | |||
この頃 | 上総屋源七、木崎宿で飯売旅籠屋を始める。 | ||
12年(1841) | 1月30日 | 11代将軍家斉(69)没。 | |
5月15日 | 幕府、天保の改革を始める。 | ||
5月 | 関東取締出役に臨時取締出役26人が加えられる。 | ||
10月11日 | 渡辺華山(49)、三河国田原藩の蟄居先で自害する。 | ||
暮れ | 留守を守っていた山王道の民五郎(30)、利根河原で玉村の主馬になぶり殺しにされる。 | ||
主馬は子分の藤七、徳太、和蔵と四人掛かりで民五郎を三つ斬りにして、利根川に投げ捨て、首だけを黄木綿に包んで、伊勢崎連取村の富豪多賀谷源兵衛方に行き、生首を片に30両をゆする。源兵衛は15両出して謝る。 | |||
13年(1842) | 1月 |
帰って来た忠次郎(33)、玉村に押しかけ、主馬を殺す。 |
|
子分の藤七、徳太も殺すが、和蔵に逃げられる。 | |||
2月26日 | 幕府、賭博を厳禁する。 | ||
3月11日 | 百々村の門次(弥久)死す。 | ||
3月15日 | 幕府、女師匠を禁止する。18日、隠売女を禁止する。矢場女禁止。 | ||
6月4日 | 幕府、絵双紙を禁止する。 | ||
7月27日 | 笹川繁蔵(1819−44)の花会。忠次郎、参加する。 | ||
7月30日 |
幕府、役者絵を禁止する。 |
||
8月 | 弟の友蔵、忠次郎に40両借り、借用証文を書く。 | ||
友蔵は新田郡本町村糸繭商人仲間議定書に名を連ねる国定村6人の糸繭商人の一人。 | |||
8月19日 | 忠次郎は最大の拠点である田部井村の又八の家で、多数の人々を集めて博奕を盛大に行う。これを知った関東取締出役の吉田左五郎は、大勢の捕手を従えて又八の家を包囲し賭場を急襲する。この時、忠次郎と『兄弟の契り』をしていた無宿の浅次郎が姿を見せなかったので、子分と共に血路を開いて赤城山に逃げ帰った忠次郎は、彼の行動に深い疑いを持ち、身の潔白を証明させる事にした。浅次郎の伯父八寸村の勘助は博徒でありながら関東取締出役の道案内をしていた。 | ||
大勢の子分が捕まる。 | |||
9月8日 | 下植木(板割)の浅次郎、八寸村の目明し中島勘助(43)・太郎吉(7)父子を殺す。槍で殺害、長脇差で首を掻き斬る。 | ||
忠次郎、関東取締出役より二度目の大手配となる。 | |||
関東取締出役の中山誠一郎と富田錠之助が伊勢崎を拠点として手配の指揮に当たる。 | |||
忠次郎、大久保一角(45)に連れられて下野都賀郡大久保村に隠れる。 | |||
忠次郎、一角の娘お貞(17)と会う。 | |||
9月18日 | 幕府、農民に倹約を命じ、余業従事を禁止する。 | ||
9月25日 | 車坂峠で堀口村の定吉(28)、室村の孫蔵、保泉村の宇之吉、他一名捕まる。 | ||
11月初旬 | 日光の円蔵(41)、召し捕られ伊勢崎の本陣で取り調べを受ける。 | ||
子分、多数召し捕られる。浅次郎(27)、お辰(27)、茂八、鹿安、角、牧、吉、豊、桐長。 | |||
14年(1843) | 2月9日 | ◆関東に大地震起こる。 | |
3月26日 | 幕府、諸国の人別を改め、在府農民に帰村を命じる。 | ||
4月 | 12代将軍家慶の日光社参に際し、三国街道杢ケ橋関所では要害地域内の警戒が厳重となり、沼田街道八崎村では旅人の通行改めが行われる。 | ||
9月 | 忠次郎(34)、赤城山に帰るが、危険を感じ、五町田嘉四郎(30)のもとにより、野沢温泉に向かう。 | ||
閏9月13日 | 水野忠邦、老中を罷免される。 | ||
この年 | 関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。 | ||
大前田栄五郎(51)、五町田嘉四郎(30)と大久保栄作(23)との紛争を仲裁する。 | |||
日光の円蔵、牢死す。 | |||
新川の秀吉(29)捕まり、牢死す。 | |||
上総屋源七、木崎宿の旅籠屋を閉め、梁田宿に移る。 | |||
弘化 | 元年(1844) | 5月10日 | 江戸城本丸焼失する。 |
6月21日 | 水野忠邦、再度老中筆頭となる。 | ||
この年 | お貞、忠次郎(35)の長男を産む。 | ||
2年(1845) | 1月 | 幕府、浦賀に砲台を築く。 | |
2月14日 | 伊勢崎藩主酒井忠恒、江戸城本丸普請に1千両の上納を願い出る。 | ||
2月22日 | 水野忠邦、病気を理由に老中を辞職。 | ||
5月14日 | 忠次郎(36)の母いよ(53)、死す。 | ||
5月 | 五目牛の千代松、捕まる。 | ||
9月 | 忠次郎、赤城山に帰る。 | ||
3年(1846) | 2月19日 | 五目牛の千代松(37)、牢死する。 | |
6月 | ◆諸国、長雨となる。 | ||
6月半ば | 忠次郎(37)、五目牛村のお徳(1816−89.31)を妾にする。 | ||
お徳は元玉村女郎で子分五目牛の千代松の妻。千代松の牢死後、妾にする。 | |||
秋 | 木崎宿の川橋屋左三郎、新築祝いを盛大に行う。 | ||
木崎宿(新田町)の岡っ引川橋屋左三郎(吉十郎)は左五郎の息子を養子に迎えて勢力を広げる。 |
|||
忠次郎、子分を浦賀に派遣して世情を探る。 | |||
大前田栄五郎、赤城山の忠次郎を訪ねる。 | |||
白銀屋銀次郎、栄五郎を御用弁にする。 | |||
京屋元蔵、銀次郎を斬り、栄五郎釈放となる。 | |||
4年(1847) | 3月24日 | ◆善光寺大地震。善光寺から稲荷山まで死人が山のように出る。 | |
9月 | 関東取締出役、豊年手踊りなどを禁止する。 | ||
この年 | ◆疱瘡、流行する。 | ||
嘉永 | 元年(1848) | 2月 | お徳、家宅捜査の木島の大谷助右衛門を叱り付ける。 |
6月 | 助右衛門(58)、病死する。 | ||
6月 | ◆諸国、旱魃となる。 | ||
2年(1849) | 11月 | 忠次郎(40)、境川の安五郎に跡目を譲る。 | |
この年 | 関東取締出役が増員され、3地域分担制が拡大される。 | ||
3年(1850) | 7月21日 | 忠次郎(41)、お町の兄、庄八の家で倒れる(脳溢血)。 | |
栄五郎、忠次郎に自決を勧める手紙を与える。 | |||
8月24日 | 忠次郎、田部井村名主西野目宇右衛門方の土蔵の中にて召し捕られる。 | ||
お縄となった忠次郎は近くの伊勢崎の寄場に留置される。 | |||
この日、関東取締出役の中山誠一郎、廻村中、木崎宿に立ち寄る。角万佐重郎、誠一郎のもとへ挨拶に行く。 | |||
9月26日 | 忠次郎奪回を企む上植木村小屋番の伜万蔵(29)、玉村宿で捕まる。 | ||
万蔵所持の長脇差は刃長2尺6寸6分、銘兼貞の業物、太刀拵え | |||
9月28日 | 忠次郎、唐丸駕篭に乗せられて雨の中、木崎宿から玉村宿に向かう。 | ||
9月29日 | 忠次郎一行、玉村宿にて関東取締出役の取り調べを受ける。 | ||
梁田宿の上総屋源七、山名村の大黒屋三右衛門、玉村宿に来る。 | |||
10月1日 | 前橋の福田屋栄次郎、玉村宿に来る。 | ||
10月15日 | 忠次郎一行、玉村宿を出立。 | ||
10月19日 | 忠次郎、江戸伝馬町の牢に入れられる。 | ||
10月30日 | 江戸青山に潜伏中の高野長英(47)、幕吏に囲まれ自害。 | ||
12月15日 | 忠次郎、勘定奉行池田播磨守より、死刑の判決。 | ||
12月21日 | 忠次郎、午前11時、大戸関所にて処刑される。関所付村の村民が警備人足などに動員される。 | ||
忠次郎の助命嘆願のため、菩提寺養寿寺の貞然法印を初め、国定村の名主、15ケ村の人々130名の他に越後、常陸、下野の者も助命運動をし、嘆願が百を越えた。 | |||
12月26日 | ・木崎宿の岡っ引左三郎と馬太郎、勘定奉行より追放と判決される。 | ||
・田部井村名主宇右衛門‥‥‥忠次郎と博奕を相催し不当の利を稼ぎ忠次郎を匿った罪、不届きに付き死罪(牢の庭にて打首) |
|||
・国定村の子分清五郎‥‥‥不届きに付き遠島。 | |||
・田部井村の子分庄八‥‥‥不埒に付き罰金3貫文。 | |||
・お徳とお町‥‥‥不埒に付き押込み(家で謹慎)。 | |||
・国定村の子分次郎右衛門と八寸村の子分七兵衛‥‥‥不届きに付き追放。 | |||
・世良田村の名主幸助‥‥‥忠次郎より金を受け取り手助けせし罪、不埒に付き罰金5貫文。 | |||
・国定村の名主又兵衛と村役‥‥‥不埒に付き罰金5貫文と3貫文。 | |||
・宇右衛門妻と伜‥‥‥不埒に付きお叱り。 | |||
・田部井村村役たち‥‥‥不埒に付きお叱り。 | |||
・国定村の子分喜代松‥‥‥牢死。 | |||
忠次郎の首が養寿寺の貞然のもとに届く。 | |||
貞然は忠次郎に『長岡院法誉花楽居士』の戒名を贈る。 | |||
4年(1851) | 羽倉簡堂『赤城録』を著す。 | ||
田崎草雲、忠次郎の画像を描く。 | |||
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