すさまじきもの 〜歌枕探訪〜


種の浜(いろのはま)(福井県敦賀市)





潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とは言ふにやあらむ 西行(山家集)



「種の浜」は「いろのはま」と読む。芭蕉の当て字のようだ。
一般的には「色の浜」であり、西行の歌にあるように「ますほの小貝」が海岸を赤く染めたように、カラフルだったようだ。

敦賀半島の東岸に位置するが、昭和40年代に敦賀原発ができるまでは陸路で行くことはできず、船で往来していた。

西行の歌に憧れて、松尾芭蕉も種の浜を目指した。
敦賀から船を仕立てて行くこと海上七里、到着した種の浜は寂しい寒村で、そこには(わび)しき法花寺(ほっけでら)があり、そこで酒を酌み交わしながら観月を楽しんだ。


波の間や 小貝にまじる 萩の塵 松尾芭蕉(奥の細道)


本隆寺に句碑



さびしさや すまに勝ちたる 浜の秋 松尾芭蕉(奥の細道)



衣着て 小貝拾はん の月 松尾芭蕉


本隆寺に句碑



小萩散れ ますほの小貝 小盃 松尾芭蕉








【現地訪問】



奥の細道の「種の浜」のくだりを読むと、まるで無人島に上陸して、そこにあった廃屋で酒を飲んだりしているように思えて、いったいどんなところなんだろうか、と想像をふくらませていた。キャンプファイヤーとかしたりして。



これが現在の種の浜



浜は花崗岩っぽい砂で、とても痩せていた



光源氏の配流地の須磨よりももっと寂しい浜だと芭蕉は詠んだ
今は沖に浮かぶ観光地の水島への渡船が出たりして、夏の一時期はそれなりに賑わっている



『ますほの小貝』を探したがなかった
昔は「潮を染める」如く赤かったらしいが、環境が変化して貝が生息しなくなったのか、人々が記念に持ち去ったのか、そもそも西行の歌が大袈裟な表現なのか、どうなのか



芭蕉が訪れた「侘しき法華寺」は現在の本隆寺



本隆寺はもと曹洞宗永厳寺(敦賀)の末寺であったが1426年法華宗に改宗。その後に芭蕉が訪れた



「侘しき法華寺」も、今では立派なお堂となっていた



種の浜の沖には水島という観光地があり、夏は海水浴客で賑わう



拡大写真
上空写真があればいいのだが、日本離れした美しいビーチである













種の浜は、敦賀半島の先端にあり船でなければ行けない場所であるが、西行以外にもこの地を詠んだ歌が残されている

山おろしに紅葉散りしく色の浜 冬はこしぢの泊まりさびしな 寂念法師(夫木和歌抄)

ふる雪の色の浜辺の妙に それとも分ぬ群千鳥かな 中務集


え〜と、旅の歌人の西行は多分実際に現地へ行き、そこで発見した「ますほの小貝」の赤色にインスピレーションを受け、「色の浜」の地名と結びつけた歌を詠んだのだろう
ところが上記の二首は、多分京の都で詠まれた歌で、「色の浜」の地名から紅葉の赤色や雪の白色などの色を無難に組み合わせた歌に仕上げている
季節は晩秋から冬のイメージなのだろう





とにかく言えることは、「いろのはま」という歌に使いやすい地名だったので、京の都で歌枕となったということで、もし平凡な地名だったらこんな僻村の浜辺の情景が歌に詠まれることはなかっただろう

そして現地現場主義の西行が実際に歌枕の現地に訪問し、そこで見つけた赤い小貝の歌を詠んだので、芭蕉も触発されて貝探しに行ったもの

そして令和の時代になって、私も西行と芭蕉の足跡を訪ねてはるばるとやってきたということ





*********








感動の訪問でした









copyright(C)2012 すさまじきもの〜「歌枕」ゆかりの地☆探訪〜 all rights reserved.