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Category: 04-書の森
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二千円札 「二千円札大使認定証」二千円札流通促進委員長・湖城英知/サンクス平尾(平尾本通商店街)。リトル沖縄として有名な大正区平尾の商店街

『あまから手帖』1993年6月号


大阪の沖縄関係資料室に守礼門の扁額「守禮之邦」の拓本がある。沖縄学の祖、伊波普猷は1932年10月『琉球新報』「『首里』の語源は結局わからないー東恩納学士の浦添旧都説を裏書きすべき一史料」の中で、尚眞王以前は瑞泉門が正門、守礼之邦の最初の意味は「首里親国」「しよりくに」とする。

改訂前のチラシ


2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。/2010年8月4日ーギャラリートーク 宮城篤正氏を囲んで。

1428(尚巴志7)年ー国門を創建す。傍に曰く、中山と(旧記に曰く、中山の2字は内官柴山進めて以って額と為すと)
1477年ー歓会門創建
1534年ー陳侃『使琉球録』「是の日黎明、世子、衆官をして館門の外に候たしめ、詔勅を導引して国に之く。国門は、館を距たる路三十里、山海の間に介在す。険側高卑斉しからず。砥の如く矢の如く能はず。将に国に至らんとす。五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往、路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を壘ね、亦百雉の制の若し。世子、此に候つ。龍亭至りて、五拝三叩頭の礼を行い、之を国門に導く。門は歓会曰ふ」
1561年ー郭汝霖、李際春渡琉□『重編使琉球録』「国につくとき、その五里外に、一座あり、『中山』の額がかけられている。これから先は、道はすべて平坦で、九軌をいれることができる。道のかたわらは、石垣をつみあげて、百雉の制ににている。世子はそこ(中山坊の所)で待っていた」
1606年ー夏子陽『使琉球録』「吉日を卜して万暦三十四年七月二十一日に封王礼を挙行した。この日の明け方、世子は衆官をしてすべて吉服せしめ、天使館の外へ出迎えさせた。私は詔勅をささげて龍亭の中に安置したてまつり、国王と妃へ頒賜される服と物とを取って彩亭の中に置いた。儀注通りに国へ前導した。路の両側はすべて兵を並べて儀衛とし、隊伍を整えて立っていた。国は一里ばかりで、坊があり、その額に『中山』とある。ここから進むと首里坊である。現在は『守礼之邦』の額である。わが中国の声数の及んだことを記したのである。天使館から東へ行き、ここにつくと、地勢はやっと平坦となる。世子は守礼坊の下で出迎え、龍亭の到着を見るや五拝三拝叩頭の礼をおこない、国門へ案内した。門は『歓会』という」(原田
1719年ー徐葆光、海宝が冊封で渡琉→□『中山伝信録』「中山王府ー坊牓があって『中山』という。道の南に安国寺がある。その向い側の町並の、切石を積んで削いだような石垣があるのが世子邸である。道の両側は、すべて切石の低い石垣で、高さは三,四である。道の真ん中に、蘇鉄の一叢があり、まわりを石で囲っている。更に進むと半里ばかりで坊牓があり、『守礼之邦』とある。中山王は、平伏して、詔をこの坊の下の道のかたわらで迎えた」(原田訳)
1731年11月ー『琉球国旧記』「坊楼ー1392年、閩人三十六姓を賜り、文教は大いに明らかとなり、礼楽は日々に新たとなり、中国同様の世となり、礼楽制度は中華とちがわなくなった。太祖皇帝は、これをおほめになり、『守礼之邦』と申された。後に、改めてこの額をかけた《昔は、いつもは『首里』の額をかけており、勅使がお出でになった時だけ、改めて『守礼之邦』の額をかけていた。近頃から、常時『守礼之邦』の額をかけている》。」(原田訳)
1756年ー周煌『琉球国志略』「世子は、衆官を従えて、守礼坊の外で平伏して(勅使を)迎える。龍亭はしばらくとどまる。世子と衆官は立ち上がる。天使は、前へゆき、龍亭の左右に分かれて立つ。引礼官が『排班』と唱える。世子は衆官を従えて、三跪九叩頭の接詔礼を行う。世子は前導して国門(歓会)を入り、正殿の下に立つ」
1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂

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1879年2月ー渡邊重綱『琉球漫録』「首里ハ主府ニシテ中頭省南隅ニアリ其地高燥十丁方余十七ヶ村ニ分ツ王城中央ニアリ西ニ面ス墻壁橋梁石ヲ畳ンデ造ル第一門ヲ中山ト曰フ(毎門名号ノ扁額アリ)第二守禮(守禮之邦明帝ヨリ贈ル)第三歓会第四瑞泉ー」


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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂

1905年4月22日ー『琉球新報』籠城夫「嗚呼中山門ー嗚呼首里の生命」
4月27日ー『琉球新報』放浪生「嗚呼中山門」
1907年
12月18日ー『琉球新報』東恩納寛惇「守礼門考ー坦々たる首里街道の正面に千古の翠色を堪えて立っている守礼門は、今尚暗黙の裏に中山の古い歴史を語って居るが、其のささやきに耳傾けたものはいない。曾つて其下をくぐった長袖寛帯の支那人も、碧眼黄髪の西洋人も、乃至は肩で風切った薩人も、甚だしきは沖縄の物識先生も、皆此の活きた歴史に就いて表面の解釈を下しているに過ぎない。それが物数奇な旅行者の日記に書きこまれて諸方に撒き散らされ、沖縄を誤り伝ふる一の材料となっているー」
1908年6月4日ー『琉球新報』「中山門の入札の結果ー仝門は一昨日正午十二時頃額面及び敷石を除くの外全部入札を挙行したるが入札者七名にて(略)首里区字寒川水旧三十七番地宮里加那が五十二圓二十七銭にて落札したる由」
1909年7月11日~12日『琉球新報』東恩納寛惇「歴史的遺物の保存に就いて識者に協るー(略)吾々は昔中山王国の正門で有った処の中山門を、僅かに三十弐円の薪として売り払った者の罪を、天下後世に鳴らす積もりである。諸君、吾々は上下幾千年に亙る郷土の歴史を調べて、吾々が誠に優秀な国民で有ると曰ふ自覚の上に立って、自ら琉球人たる事を天下に名乗るを矜りとする者であるー」
12月ー東恩納寛惇『大日本地名辞書』(第二 琉球)「中山門跡」「守礼門ー中山門は、当初板葺なりしを、康煕二十二年瓦を以て覆ひたり、守礼門も同様なるべきか。○山里親雲上系譜云、康煕二十二年辛酉三月八日、修補中山門、任惣奉行職、此時改版木蓋以工瓦。-」
1917年8月ー親泊朝擢『沖縄県写真帖』(守礼門
1919年8月ー『琉球案内』沖縄實業時報社(守礼門
1920年9月ー親泊朝擢『沖縄県案内』(写真・首里守礼門
1923年6月ー眞境名安興・島倉龍治『沖縄1千年史』日本大学□「中山門ー球陽に云ふ宣宗使を遣はし、皮弁冠を賜ひ、並に生漆及び各色磨石を買はしむ。宣徳三年(尚巴志即位七年)創めて國門を建て、榜して中山と云ふと」「守禮之邦ー球陽天正七年の條に首里坊門の榜字を易へて守禮の邦といふとあり。蓋し本國支那に通じてより職を修め、貢を入れ、書を読み、禮を学ばしむ。仍って明の太祖称して禮義の邦と為す。嘉靖年間禮部奏して曰く、琉球は海中の諸國に在りて頗る守禮と称す。又尚永王封を受くるとき、制詔に云ふあり、世々職貢を修め、守禮の邦と称するに足ると。是に由り、王法司に命じ、始めて守禮之邦の四字を以て額と為す。然れども平常はただ首里の二字を用ひ、冊使賁臨に会する毎に守禮之邦の四字を以てするを例とすと。康煕二年(寛文三年皇紀二三二三)癸卯始めて榜字を定め守禮之邦と曰ふとあり」


1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ

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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社

1932年6月 『婦人公論』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(カット・守礼門)1940年
2月ー大阪戎座で「中山門建築史/ターバーゼーク」
10月ー日本民芸協会『工芸』百三号 柳宗悦□守禮門ー首里城の第2の坊門である。姉妹であった中山門が哀れにも破壊せられて了った今日、此の門が守護を受けて保存せらるるに至ったことは感謝の至りである。構造は支那に発するであろうが、よく咀嚼して独自の風格を示した。結構、均等甚だよく、特に4個の脚柱に用いられた石材の形は見事である。此の門、最初は「賢待門」と呼ばれ、後に「首里門」とも称へられ、又俗間「上の鳥居」とも「上綾門」とも云われた。前の大通りを此の門に因んで綾門大路と名づけた。美しく彩られた門のある大通りとの意であろう。尚清王時代の建立と云うから、今から四百年を越える。中山王国の幾多の歴史的場面は、此の門の前で行われた。一国の威厳を示した國門であって、幾度か冊封使は此の大門をくぐった。かのペルリー一行を接し迎えたのも茲である。「守禮之邦」と題した扁額は、琉球の心を語るように見える。此の門を通して遠く首里城の正門を臨む。繁栄な昔は去った。併し此の門が佇む限り日々新たなる遠来の客を集めるであろう。歴史は変わるとも文化の跡を慕る心は人間あら消えない。首里城が保護せられ、修理せられ、整備せられるなら、此の古都に新な繁栄が来ないと誰が云い得よう。


1935年9月 東洋文化協會『幕末・明治・大正回顧八十年史 』「五姓田芳柳 藩使東上の図」 




1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)


詳細不明だがネット上に次の書籍が見える。富安路葭, 岡茂政著『筑後本吉清水観世音東山名所図会』昭和堂書店, 1931.5



1941年10月ー加藤三吾著・早川孝太郎校訂『琉球の研究』文一路社□「中山門といふのは首里城の第一坊で、下のアエヂョウと呼び、明の宣徳三年に欽差正使柴山が尚巴志を冊封した時に、中山といふ扁額を携へて来て此門に掲げたのであったが、今は門と共に撤去された。守禮門は第二坊で、上のアエヂョウと呼び、明の嘉靖七年に尚清王が封を請うた時の創建で、初は扁額に『待賢』の二字を掲げてあったが、中頃に『首里』の二字に改め、冊封使の来る時のみは『守禮之邦』といふ金字の額を懸けて、左右の門柱には
    嘉慶丑年歳次庚申桂秋    廿有王承冊命    三十六島環中山    錦州李鼎元題
といふ聯床を垂れたのであった。しかし後には『守禮之邦』の大額を其儘に掲げて置くことになったので、今も観光者の最も嘱目するものの一になっている」
1947年11月ー日本民芸協会・沖縄人連盟主催「沖縄工芸展」日本民藝館

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』/1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>

1951年11月12日ー『沖縄タイムス』石野径一郎「守禮の國」(金城安太郎の守礼門の挿絵)
 
1954年1月ー社団法人「沖縄観光協会」設立(事務所・那覇市勧業課内)。□→57年4月ー琉球政府工交局内。
1956年2月ー金城唯恭編『新沖縄文化史』仲座久雄「郷土の国宝建築・首里城守礼門ー1953年5月、ペルリ記念祭に際し仲座久
雄、知念朝英により5分の1の模型が造られ首里城正殿と共に首里博物館ペルリ記念館に陳列」
1958年10月6日ー『琉球新報』「総仕上げ急ぐ守礼門ー4百年前の姿を再現」 12月15日ー『琉球新報』伊波南哲「十字架の下に」(カット・守礼門
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写真・守礼門と少女たち/山田實・撮影



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守礼門
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。

大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。

新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。

1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。

丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。

『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。

東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。



2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。

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1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社






目次 
琉球列島ー概説
地形ー列島と海溝/三列の地質構成/珊瑚礁の発達/古生層と珊瑚礁/宮古諸島と八重山諸島
気候と生物ー気温/降水量と風速/季節風/ハブとマングース/亜熱帯性植物
沿革ー開闢伝説/内地との交通/支那との交渉/明治以後
生産ー概説
甘蔗糖/水産物/甘蔗/穀物/林産物/牧場/その他の生産物
薩南諸島ー大隅諸島/土噶喇諸島/大島諸島/島の産物/大島の気温
沖縄諸島ー沖縄島/国頭山岳地域/中頭、島尻丘陵地域/那覇首里の都会地域/人口の減少/属島/大東諸島/先島諸島/八重山群島/尖閣諸島
琉球婦人の黥ー伝説に現れた起原/古文書中の入墨/記事の有無/他島との比較/その宗教的意義
墓ー風葬の俗/古代と風葬/墓の発達/その中間物/板が門/近代式墳墓/その起原
グラヴィアー守礼門/首里附近の聚落状態/奥武山公園/首里附近の民家/野生の蘇鉄/沖縄県庁/沖縄測候所/測候所附近より那覇を望む/天水甕/ハブの毒素採集/ハブ捕り/ハブ/芭蕉の花の咲く頃/辨岳の御願所/識名園の泉水/首里城の正殿/亀甲形の墳墓/尚家の門/波上神社と石筍崖/真玉橋の風光/護国寺の仁王門/聖廟/護国寺境内/末吉神社/辨財天堂と観蓮橋/ベッテルハイム記念碑/識名園/琉球の刳舟/爬龍船競漕図/琉球の甘蔗畑/盆の甘蔗市/農家の製糖小屋/パナマ帽の制作  


蘇鉄林/パパイヤの樹/辻町の遊女/機を巻く首里の婦人/屋久の杉森/杉の巨木/大島の闘牛/シャリンパイ/大島名瀬港/大島紬工場/奄美大島の蘇鉄林/奄美大島の百合園/那覇港の入口/那覇港第一桟橋/先原崎の灯台/波上神社の石段/首里市内の民屋/那覇市全景/琉球美人
屋上の唐獅子/壺屋町/壺作り/泥藍の紺屋/藍の香高い琉球絣/泡盛製造所/諸味貯蔵場/豚肉販売所/甘蔗売の集り/独特の武術唐手/郷土スポーツ唐手/ズリ馬行列/歓会門/円覚寺本殿/龍潭池附近/円覚寺境内放生池橋/琉球の民家/那覇市附近の露店/那覇旧市街/崇元寺の門/那覇一の商店街/那覇辻遊廓/真玉橋の石橋/沖縄測候所/円覚寺の山門/熱帯植物榕樹/漁村糸満の浜/名物朱塗りの漆器/芭蕉の実り/萬歳舞踊/舞踊/婦人の黥/綱曳遊戯/湧田の旗頭/壮麗な旗頭/浜の賑ひ/野国総官の墓/久志村の山中にあった墓/久高島の墓/破風式の墓/亀の子式の墓/墓と死者の交会/墳墓のストリート/墓のにぎはい/玉陵/墓の平面図/壺屋産の霊置甕/英祖陵

守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」


1930年5月 国吉真善『群衆の処女』






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』
目次
沖縄県扉「古地図」
沖縄県概説
ダブルトーン版ー筆架山より見たる那覇港 那覇市街/隆起珊瑚礁と波上神社/琉球焼製造所 那覇青物市場/おてんだの水取舟 崇元寺/金石文と真玉橋/守礼門 歓会門 首里城正殿/首里市 泡盛 首里三個/識名園 首里市/運天港 糸満 糸満町/パパヤ売 金武大川/七島藺の刈取 砂糖の製造 八重山鰹節製造所/久米島(新村 支那式の家屋 久米島の男女 久米島具志川村 仲村渠)/久米島(裾野の景観 紙の製造 豚小屋と豚肉市場 久米島紬)/琉球の墳墓/那覇市郊外の墓 国主より功臣に賜りたる御拝領の墓/田舎の墓 首里郊外貴族の墓/ヤツチのがま 石垣島より竹富島を望む屋我地ヲフルギの純林 甘蔗の栽培 ガジュマル/琉球の舞踊と演劇ー波平大主 萬歳一段 同二段 同三段 女笠踊 諸純節 二童敵討 同二 同三 同四/琉球の年中行事ー八重山の民族舞踊 祭式舞踊 那覇市の綱引行列
綜合解説

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


1934年11月 神村朝儀『便覧 琉球國王代記』神村朝忠/1937年3月 神村朝儀『第一尚姓 尚巴志王統早分解り』神村朝忠薬店
○雑誌『おきなわ』復刻版解説に酒井直子さんが「回想ー父 神村朝堅」を書かれていて、「向氏神村家家系図」も添えられていた。13世 朝睦の子供たちが省略されていたので詳しく記入してもらった。その結果、上記の著者・朝儀は叔父で、発行人の朝忠は朝堅氏の父と判明した。

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2016年11月15日、年賀状を書いている渡口彦邦氏

2016年11月28日、渡口彦邦氏とあけみ、ひより

2016年12月5日 城谷一草「印」を捺す渡口彦邦氏

2017年2月28日 沖縄県立博物館・美術館で渡口彦邦氏(左)と田名真之館長

那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展

2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」/写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏、大城宗憲氏、那覇市民文化部の島田さん。



写真上は泊高橋近くの安里川沿岸の渡口萬年筆店の広告/下ー毎年発行の手帳の巻頭に記されている。


1955年3月 大林天洞 筆「渡口商店々訓」

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)

渡口ファミリー
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2010年11月ー渡口彦信『我が人生に悔いなし』比謝川ガス株式会社

本部半島の先端に位置する備瀬集落は八つの班から成っていて、一班から七班までが道筋によって分けられ、集落の主要部を占めて本字と呼ばれていた。八班はタカラバル(高良原)と称され、やや離れて東側にある小集落である。渡口家は備瀬集落の最南端にあって、屋号「イチャラヤー」と呼ばれていた。集落の入口に位置し、最初に行き合う家(イチャラヤー)であるところから新愛の意味を込めてつけられた屋号であろう。

渡口家の遠い祖先は、250年ほども前に、本部間切の健堅より備瀬に移り住んだようである。元家(ムートゥヤー)の屋号である「キンキンヤー」からもそのことが十分にうかがえる。系図によれば、元家の5男が分家して家建てをし「いち渡久地」を名乗り、私どもの直接の祖先となっている。そして「いち渡久地」の長男が渡久地孫一郎で、その子孫の一人として祖父の彦蔵が出生しているのである。彦蔵の長男が彦榮で、私は彦榮の二男として生を受けたことになる。

沖縄日傘愛好会
先日、NHKの全国ニュースによると猛暑で「日傘」の売り上げが2割伸びているという。沖縄には数年前か沖縄日傘愛好会が話題になっていた。日傘はもともと19世紀のフランスで文化として花開いた。フランスの印象派の画家、クロード・モネも、日傘の女性を描いている。現代のヨーロッパではなぜかその習慣が廃れ、日本で定着している。

渡口氏は沖縄日傘愛好会会長である。

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マンガ青年・仲宗根正順
1969年4月ごろ、沖青友の会会員の高幸雄(21)にこんな相談がもちかけられた。「マンガの勉強をしていた兄が、アパートを出たまま1年以上も行方がわからない。なんとか協力してくれないか」

そのマンガ青年が、宮古出身の仲宗根正順さん(当時26才)だった。具志川から出てきた妹さんの訴えによると、仲宗根さんは、働きながらマンガを勉強、マンガ同人誌「フェニックス」を編集していた。ところが、69年5月中旬、大阪・吹田市のアパートから突然姿を消し、1年以上も行方がわからない。妹さんは大阪で働きながら、友人関係などを訪ね、さがしまわったが、手がかりさえつかめないという。

沖青友の会は、仲宗根さん捜しに会員全員でとり組んだ。マンガ雑誌や新聞に投書をしたり、全国の沖縄関係者に協力を呼びかけた。3万円近く集まったカンパでチラシをつくり、目抜きの交番に貼った。刑事まがいの聞き込みをして歩いたりもした。毎日新聞が、社会面トップで仲宗根さんの蒸発を伝えると、文字通り全国から多くの反響が寄せられた。

だが、仲宗根さんは自殺をしていた。吹田署が改めて身元不明の変死体を調べたところ、69年5月15日夜、市内の道路ワキで石油をかぶって焼身自殺した青年が、持っていた部屋のカギから、仲宗根さんにほぼ間違いないと確認したのである。悲しいことだったが、もし沖青友の会がとり組んでいなければ、仲宗根さんは永遠に無縁仏となっていたかもしれない、と思うと『ボク達が役にたてた』という自信も湧いてきた。

(略)大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。全国には、おそらく10余のグループがあるのではないか、という。(会長の)嘉陽君らは、思想、信条の違いがあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。(沖青友の会連絡先・大阪市港区市岡元町2-16-3、程野方、嘉陽宗博)

『青い海』マンガ関係目録
1971年4月 創刊号 マンガ「仲宗根正順遺作展」/5月 第2号「仲宗根正順遺作展②」、きしゃばせいじ「マンガ」/6月 第3号 仲宗根正順「マンガ・ぜいたくはすてきだ」
8月 第4号 仲宗根正順マンガ/毛利泰房「青い海漫画集」/9月 第5号 砂川しげひさ「マンガ寄らば斬るド」「漫画家・砂川しげひさ」/10月 第6号 読者のページ まえむらいくお「マンガ・しまった!」/11月 第7号 きしゃばせいじ「マンガ」/12月 第8号 当間直己「漫画アンデパンダン展」、前村郁夫「マンガ・星を見ないで」



砂川しげひさ

1972年1月 第9号 たらま由紀夫「マンガ・ガールハント」、山里和男「マンガ」、仲本エイ子イラスト・嶋美枝詩「夕暮れ」(あしあと3号)、へしきよしのり「マンガ・ラブレータ」、石川文一・柳光観画「三山の覇王」/2月 10号 当間直己「マンガ・魚の愛情?」、平敷善和イラスト・弦子詩/3月 第11号 大嵩茂芳「マンガ・先生と生徒」、きしゃばせいじ「マンガ・サッカーク」、具志堅正雄「マンガ・コンピューター時代」/5月 第12号 新屋敷幸繁・安室二三雄え「民話の沖縄」/6月 第13号 きしゃばせいじ「現代くん」、真栄城徳秋「マンガ」/7月 第14号 へしきよしのり「頑張らなくっちやあ漫画青春」/8月 第15号 伊波南哲「庶民の描いた美しい夢と諷刺」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄』六月社(大阪)□へしきよしのり・あすなろプロダクション「蟻ーありー」

1973年12月 第28号 「グラビア守礼門

1974年12月 第38号 津野力男『表紙写真「守礼門

1975年9月 第45号 おおば比呂司「あわもりの酔心地」

1977年6月 第64号 安良城考「目次イラスト」/8月 第65号 安良城考「目次イラスト・カット」、具志堅政正「ありったけの地獄ー沖縄戦を描く」/9月 第66号 波平やすし・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・アカインコ」/10月 第67号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし」/11月 第68号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・ニヌファブシの娘」/12月 第69号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・お正月の猫」

1978年1月 第70号 座間味朗・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・はなよめ石」/4月 72号 安良城考「目次イラスト」/6月 第73号 中城健吉・安良城考イラスト「創作沖縄昔ばなし・双子王子」

1983年8月 第125号 へしき・よしのり・琉漫画工房「黒潮源流」/12月 第128号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」④

1984年1月 第129号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑤ 3月 第130号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑥ 4月 第131号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑦ 6月 第133号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑧ 8月 第135号 スタジオ南洋少年・へしきよしのり「黒潮源流」⑨ 9月 第136号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑩ 10月 第137号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑪ 11月 第138号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑫ 12月 第139号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」

1985年3月 第140号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑭ 4月 第141号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑮ 7月143号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」


『今日の琉球』マンガ(挿絵)目録
1958年 12月 目次絵「コマまわし」、真栄城勇「B円切手とドル切手」、「守礼門復元落成」

1960年 11月 徳田安周「沖縄千一夜」⑮とかしきただお挿絵、保志門幸子「スクちゃん」(4コマ、60年9月から)

1961年6月 金城康雄「ホンワカ君」/7月 とかしきただお「ノンカー一家」③、「タロ坊」/11月 表紙・守礼門ほか/

1962年11月 「沖縄観光事業は有望」(写真・守礼門

1963年 8月 とかしきただお「のんかー一家」/10月 とかしきただお「のんかー一家」、「結核予防シール」(写真・川平朝申とキャラウェー高等弁務官)

1965年 5月 とかしきただお「ターボー」~

1966年 1月 「中国古銭収集のジョン・A・ノバック」/12月 裏表紙写真「守礼門と夜空の花火」

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「鎌倉芳太郎顕彰碑」甥御さんの鎌倉佳光氏案内/「アートギャラリーかまくら 南米珈琲」鎌倉芳太郎生家(島袋和幸提供)

2014年5月 図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』

沖縄県立博物館・美術館ミュージアムショップ「ゆいむい」電話:098-941-0749 メール:yuimui@bunkanomori.jp
図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』 販売価格(税込): 1,620 円


図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁く」
図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」

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高草茂氏と新城栄徳
2015年3月 沖縄県立芸術大学附属研究所『沖縄芸術の科学』第27号 高草茂「琉球芸術ーその体系的構造抄論」



「麗しき琉球の記憶-鎌倉芳太郎が発見した“美”-」関連催事
【日時】5月31日(土)14:00~ 15:30 (開場13:30)
特別講演会/クロストーク
鎌倉芳太郎氏の大著『沖縄文化の遺宝』の編集者である高草茂氏による編集当時のエピソードなどを交えた講演と、「鎌倉ノート」の編集・刊行に携わる波照間永吉氏とのクロストークから、鎌倉氏の沖縄文化に寄せた情熱や思いなどを聞く機会とします。
【講師】高草茂 氏(元岩波書店 顧問)
    波照間永吉 氏(沖縄県立芸術大学附属研究所 教授)


「首里那覇泊全景図」慎思九筆だが印章は慎克熈

沖縄文化工芸研究所□図録の内容を紹介します。
ご遺族や鎌倉自身と交流のあった方、鎌倉資料整理(沖縄県立芸術大学所蔵)に直接に関わった方々が文章を寄せています。記録資料としては将来価値のある図録だと思います。

*波照間永吉「芳太郎収集の沖縄文化関係資料」
*高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」
*佐々木利和「鎌倉芳太郎氏<琉球芸術調査写真>の指定」
*西村貞雄「鎌倉芳太郎がみた琉球の造形文化」
*柳悦州「鎌倉芳太郎が寄贈した紅型資料」
*波照間永吉「古琉球の精神を尋ねてー鎌倉芳太郎の琉球民俗調査ー」
*粟国恭子「鎌倉芳太郎が残した琉球芸術の写真」
*謝花佐和子「鎌倉芳太郎と<沖縄>を取り巻くもの」
*鎌倉秀雄「父の沖縄への思い」
*宮城篤正「回想「50年前の沖縄・写真でみる失われた遺宝」展
*新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁くー」
*三木健「<鎌倉資料>が世に出たころ」
○図版
○年譜
○主要文献等一覧
○写真図版解説

1927年12月『國本』伊東忠太「不平等は天賦なり」
 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみに、この時の平安神宮建築技師が伊東忠太。


1927年12月『國本』伊東忠太「不平等は天賦なり」
□翻って考ふれば、宇宙の諸現象は皆不平等、不自由なるが為に生ずるので、一現象毎に一歩づつ平等と自由とに近づくのである。斯くて幾億劫の後には絶対の平等自由が実現されて宇宙は亡びるのである。社会の現象も亦た不平等、不自由の力に由て起こるので、一現象毎に一歩づつ平等自由に近づくのである。斯くて幾万年の後には絶対の平等自由が実現されて社会は滅亡するのである。個人の一生も亦不平等不自由の為に支配せられて活動して居るのである。吾人の一挙一動毎に一歩づつ平等自由に近づくのを以て原則とする。斯くて百年の後絶対の平等自由が得られた時は即ち吾人の死んだ時である。
人は生まれた瞬間より一歩づつ死に向かって進むので、同時に又自由平等に向かって進むのである。絶対の平等自由を強要するのは即ち死を強要する所以である。要するに吾人は各自の職貴を竭して社会文化の向上に貢献すれば善いので社会の安寧秩序を保つべき条件の下に吾人の平等自由が適当に制限さるべきことを認容しなければならぬ。制限なき平等自由は假令之が與えられても吾人は之を受けることを欲せぬものである。何となれば之を與ふる者は悪魔であり、之を受くる者は之が為に身を亡ぼすからである。
 
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1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」
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1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」

1924年
3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

①『科学知識』「琉球紀行」□余は沖縄到着の第五日目の晩に脚の関節に鈍痛を覚えたので、テッキリやられたと直覚して寝に就いたが、夜半過ぎから疼痛が全身の関節に瀰漫し来り、朝になって見ると起きかえることは愚、寝返りも出来ぬ程の痛さである。(略)兼ねて東京を出発する時、琉球に悪疫の流行して居ることを聞知して居たので、入澤達吉博士に注意事項を問うた処が、博士は若しも沖縄で病気に罹ったら金城医学士の診療を受けるがよいと教えて呉れた。そこで早速同学士の来診を求めた所が、学士は直ちに来て呉れた。一診してこれは軽いデング熱である、2,3日で快癒すると事もなげに断言して呉れたので大いに安心した。(略)金城学士の話によれば、那覇市では殆ど毎戸に患者があって、一家一人も残らず感染した例も珍しくない。那覇6万の人口中、少なくともその三分の二は感染したものと思われるが死者は今の所43人である。夫は何れも嬰児で脳膜炎を併発したのであると云う。余が全治した頃は那覇の方は下火になり、追々田舎の方へ蔓延する模様であった。土地ではこれを「三日熱」と唱えて居る。夫は熱が大抵三日位で去るからである。
8月20日午後3時 大阪商船の安平丸で鹿児島へ。8月22日ー『沖縄タイムス』伊東忠太「琉球を去るに臨みて」。8月25日に東京着□→1925年1月~8月『科学知識』に琉球紀行を連載□1928年5月ー伊東忠太『木片集』萬里閣書房(写真・首里城守礼門
1925年
1月ー鎌倉芳太郎、沖縄の新聞に啓明会から発行予定の「琉球芸術大観」発表。□(イ)序論ー分布の範囲、遺存の概況、調査物件の項目 (ロ)総論ー史的考察、時代分期
(ハ)各論①建築ー1王宮建築、2廟祠建築、3寺院建築、4住宅建築、5陵墓建築、6橋梁建築 ②琉球本島の部ーイ純止芸術(美術)篇ー1紋様、2絵画、3彫刻 ロ応用芸術(工芸)篇ー1漆工、2陶磁、3織工、4染工、5金工鋳造、6雑工 ③宮古八重山の部 ④奄美大島の部

1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯 画・伊東忠太

1926年2月『考古学雑誌』第16巻第2号 伊東忠太「古琉球の芸術」

1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
     □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 

1929年
2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」

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3月ー新光社『日本地理風俗体系』第12巻(カラーの守礼門)□伊波普猷「守礼門ー首里府の第一坊門を中山門と言ひ、王城の正門に近い第二坊門を守礼門と言ふ。前者は三山統一時代の創立で、『中山』の扁額を掲げたが、一時代前に毀たれ、後者はそれより一世紀後の創立で、待賢門と称して『首里』の扁額を掲げたが、万暦八年尚永即位の時、明帝の詔勅中より『守礼之邦』の四字を取って『首里』に代えた。以後守礼は首里の代りに用ひられる」
10月ー鎌倉芳太郎・田邊孝次『東洋美術史』玉川学園出版部

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大里喜誠

1966年12月『今日の琉球』大里喜誠「米国への剣道修業旅行ー盛んな米国の剣道熱」
1975年10月『琉球新報』大里喜誠「『童景集』出版のころ」
1977年3月25日『沖縄タイムス』大里喜誠「ベトナム人の著した幻の『琉球血涙新書』」
1978年4月20日『琉球新報』大里喜誠「『童景集』『羽地仕置』出版の思い出」
1984年4月14日『沖縄タイムス』大里喜誠「富川」盛武の功績」

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左ー新城栄徳宛の大里喜誠氏ハガキ/1991年6月3日『琉球新報』大里喜誠「岡倉天心と沖縄」
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1957年10月 米国民政府渉外報道局出版課『今日の琉球』第1巻第1号

1957年12月『今日の琉球』□表紙(狛犬)・・・・山田真山

1958年3月、『今日の琉球』表紙(風景)・・・大嶺政寛/10月6日『琉球新報』『総仕上げ急ぐ守礼門ー四百年前の姿を再現/楼門に彩色をする琉大生」/10月16日『琉球新報』「きのう盛大に落成式!感激に涙する老婆も」(琉大生の一人が宮城篤正沖縄県立芸術大学学長)。
1959年2月 『今日の琉球』□表紙(樹木)・・・山田真山
1965年1月、『今日の琉球』(表紙写真・守礼門と琉装の女性)/9月、『守礼の光』「琉球文化財はかく保護されたー守礼門
1969年12月 第13巻第12号□表紙(ブッソウゲ)・・・宮城健盛
1970年1月 第14巻第1号□表紙(イヌ年)・・・大嶺政寛
□1976年3月 那覇市役所企画部市史編集室『沖縄の戦後資料(1945-1972)第1集・逐次刊行物目次集』「『今日の琉球』」
1959年1月 米国高等弁務官府『守礼の光』創刊号

1963年2月、『守礼の光』「琉球の文化財ー守礼門

1964年10月、『守礼の光』「ナンシーさんの墨絵修行」(金城安太郎)

1967年1月、『守礼の光』(表紙・守礼門)/5月,『守礼の光』川平朝申「琉球の結核予防対策」(予防シール守礼門)/7月、『今日の琉球』(表紙・紅型模様の守礼門

1968年1月、『守礼の光』川平朝清「全住民に奉仕する沖縄放送協会」

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1972年5月、『守礼の光』「沖縄返還特別号」(表紙・守礼門)「琉球政府立博物館ー1966年当時のポール・W・キャラウェー高等弁務官の個人的関心と援助で設立された琉球政府立博物館がなかったとしたら、これらの多くは失われたかあるいは忘れ去られてしまったであろう。この美しい時代建築(博物館)は、那覇市の我那覇昇氏の設計、キャラウェー高等弁務官がこのためわざわざ招いた米国内務省の博物館設計の専門家による技術援助で建てられた」

1972年4月 第159号/1972年5月 最終号

□1976年3月 那覇市役所企画部市史編集室『沖縄の戦後資料(1945-1972)第1集・逐次刊行物目次集』「『守礼の光』」

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03/03: 日米誌②

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 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」


1940年5月 伊藤郷平『外国地理 北米』研究社学生文庫510◇サンフランシスコ/ー油田と映画・果物のロサンゼルス/この地方は又本邦人発展の最後のとどめを打った地で、ロサンゼルスの驚異的な大膨張と共に日本人の進出も著しく、現在では本市を中心に約3万人が活躍している。市内には北米最大の日本人街がつくられ、本願寺も建てられている。

アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 

1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 


1947年4月 『現代アメリカ読本 政経篇』コバルト社◇細入藤太郎「新聞」/坂西志保「教育」

 1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ

1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝


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1913年6月5日、岡田雪窓 那覇港から鹿児島へ



1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊り
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上ー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1916年3月19日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(1)」
1916年3月20日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(2)」
1916年3月21日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(3)」

1916年4月1日『琉球新報』「俳優投票募集」
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1916年5月2日『琉球新報』「俳優投票結果ー多嘉良朝成・六万千九百三十八票、渡嘉敷守良・五万2千六百七十二票、真境名由孝・二万二千三十五票、伊良波尹吉・一万千六十九票」


1917年10月 『沖縄毎日新聞』伊波普猷「仲尾次政隆と其背景」→1926年7月 伊波普猷『真宗沖縄開教前史』明治聖徳記念学会
1919年10月 伊波普猷・真境名安興『沖縄女性史』「尾類の歴史」小沢書店→1926年9月 『新小説』伊波普猷「琉球の売笑婦」


1925年10月 沖縄県教育会同人(又吉康和)『琉球』小沢書店

□鎌倉芳太郎氏は寫眞や装幀に助言され・・・、表紙は羽田会長の案に出たもので、若狭町の知念と云ふ老舗の作製に成る純琉球物です。




1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」○ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」
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「二十日正月踊」のジオラマ

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那覇市天妃町 料理屋「一味亭」




1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)


有馬潤(1906年10月18日~1945年5月8日)
1931年4月 有馬潤『詩集・ひなた』青山書店

○有馬潤・口絵「蛇皮線を持つ女」
○ひなた、他九篇
ひなたー陽の きらきら する/ぬくい/えんがわにすわって/母とはなしてゐると、/なんにも/ほしいとはおもはない。
○佛さま、他十篇
佛さまーお母あさんが/ぶつだんの前にすわって/なにかお祈りして いらっしゃる/ほとけさまは/きっと 願ひをかなえてくださると おもふ。
○母と子、他八篇
○佐藤惣之助「序」/菊地亮「跋」/伊波南哲「跋」
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向かって左から山田有邦、川平朝申、有馬潤、名渡山愛順、志垣新太郎、仲間武雄(樹緑会1924年夏)








1934年10月 久志助善『沖縄の歓楽郷 辻の今昔』







○一向宗の法難と廓
王朝時代の沖縄では御國元(薩摩)にならって一向宗の信仰を厳禁されていたが泉崎の名家仲尾次親雲上政隆や、備瀬筑登之などに依って密かに布教されその信者も相当の数を得ていたが遂に発覚されて仲尾次翁を始めその信者が処罰されたことがある。この仲尾次翁は初め辻の女郎屋に御本尊を安置して熱心に信仰し、また布教していたが、次第に信者も多くなり遊廓では都合が悪く自宅にこれを移したが、遂に発覚されて八重山に流刑されたのであるこの仲尾次翁の「法難日記」の一節に   荒神之前の牛あんま、真中のさまのかめあんま、雲登留の牛あんぐわ、も座窂より同日出窂云々とあるから処罰された信者の内には遊女だちもおたようである。

また、仲尾次翁の法難当時、大島あたりに行っていたので難をのがれたが明治10年10月 田原法水師の法難事件に殉した、備瀬筑登之の白状した所によると弘化元年渡地傾城荒神の前ウシ方で始めて一向宗を信仰したが、文久元年12月本山から御本尊を請受けて自宅で内秘に信仰していたが、元治元年に露顕を恐れて一旦本尊を本山に還したことにして、辻の染屋のカマ方に預けそこで法話をしたり経典を講じたりしていた。

明治9年5月に眞教寺の先代、田原法水師が商人田原里治と偽って大有丸で那覇に着き、長嶺筑登之の宅に宿して密かに辻遊郭で布教をし10月ごろまでに遊廓で78十人の信者を得た。
備瀬筑登之はその年の6月ごろ、辻の亀の油香々小で始めて法水師と会って、ともに布教につとめていたが遂に彼の法難に逢ったのである。このように禁制当時の一向宗の信仰や布教が遊廓を中心としてなされたことは、当時の遊廓がその取締もゆるくまた彼女だちが秘密を洩らすことなきを信頼してこの場所を選定されたのであろう。

1936年10月2日 『大阪朝日新聞』島袋源一郎「遊子を魅する南島芸妓の美声ー猫額大の土地に貸座敷およそ5百戸」芸娼妓、酌婦合わせて1千人も住んでいる/料理屋と待合、貸座敷の三つをゴッチャにしたものといってよい。料理を出したり、宴会を催したりしている点からいうと料理屋に当たり、歌舞、音楽が行われ商談でも政治の駆け引きでも行われているのは待合のようである/妓女が一人前になるまでは抱親が一切の面倒を見てやるが、成人すると月極め4,50圓乃至6,70圓を抱え親に納めて部屋持になる/聖代の今日、人身売買の陋習は人道上の大問題でありあり、殊に遊里は波之宮の神域に近く、最適の納涼地であるから、本県風教上速やかに移転または改革を断行しなければならない。 


1936年10月3日ー華やかな飛行場開き、本県初の遊覧飛行

1937年3月1日 『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「南島春爛漫ー女郎馬行列とその歴史」



1938年9月15日『大阪球陽新報』
□行雲流水ー辻遊廓問題は一応ケリが着いたかと思ったが余燼はまだブスブス燻って却々消えそうにもない。その顕著な一例は沖縄基督教聯盟の真剣な粛正運動である。同聯盟の熱意の籠った純理論には如何なる有力者も眞ッ向から反対を唱えることは出来まいだろうが其処が多年の因習と利害関係の錯綜した辻遊廓の事だからそう簡単に解決はつくまい。

家主や廓内の商売人からすれば全くの死活問題に違いないから凡ゆる手段を講じて之が阻止運動に出づべきは逆賭するに難くはない。然し改善論者側ではそんな個人的の利害問題などテンで眼中に置かず県の体面問題及び明日の沖縄を担ふべき青年の死生問題として重大視しているから決して馬鹿には出来ない。

県外識者中には沖縄から大人物が出ないのは辻と泡盛の為だと嘆いている人もあり「人生をテーゲードヤル」と茶化している不真面目の壮年老人連中は何うでもいいが未来ある青年だけは救わねばならぬと叫んでいる。大阪湯浅商店主の山川氏などは那覇市が辻遊廓から上がる公課を唯一の財源として之を擁護するのは淫売した不浄の金を重要予算として奨励しているようなもので市の不面目是より甚だしきはなく恥を天下に曝すものだと慨嘆している。

辻を市経済の有力機関だとの考え方が抑々の間違いで寧ろ家庭経済の破壊者であり産業発展の敵といっても過言ではない。那覇、首里の名家で辻のために産を破ったもの幾何なるを知らず農村民にして粒々辛苦折角儲けた虎の子を遊女に奪われて帰る旅費もなくなったという実例はザラにある。中には農村青年の娯楽機関として辻必要論を叫ぶ者もあるが以ての外の暴論で慰安の方法は演劇、映画等其他情操方面に幾らでもある。沖縄の都鄙を通じて演劇が発達しないのも辻許りに関心を持っている為で、この意味から云っても辻は精神文化の阻害者であり県民を亡国の民たらしむる囮である。


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 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。


1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。

1940年3月1日『大阪球陽新報』金関丈夫
1940年8月、台湾で川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞が編集して『南島』第1輯が野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)より発行され須藤利一の「アダムスの那覇見聞録」が載っている。1941年、須藤は那覇で発行されている『月刊 文化沖縄』にも「w・ビーチ 琉球記」を連載。1942年3月『南島』第2輯には口絵に「バジル・ホール肖像」、中村忠行が口絵解説(バジル・ホール略傳)をなしている。

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1943年3月 金関丈夫『胡人の匂ひ』東都書籍台北支店

金関丈夫 かなせき-たけお
1897-1983 昭和時代の人類学者,解剖学者。
明治30年2月18日生まれ。九大,鳥取大などの教授をつとめ,のち手塚山(てづかやま)学院大教授となる。弥生(やよい)遺跡出土人骨を研究して日本人渡来説を主張。昭和53年朝日賞受賞。昭和58年2月27日死去。86歳。香川県出身。京都帝大卒。筆名は山中源二郎。著作に「木馬と石牛」「日本民族の起源」など。(コトバンク)



1944年2月 須藤利一『南島覺書』東都書籍


金関丈夫編集『民俗台湾』

□金関丈夫「琉球の旅」ー1928年12月29日、京都駅を発する夜行列車で西下。1930年1月5日、左舷に巨大な島影を見る。これが沖縄本島である。那覇の散策ー沖縄の劇場1・2・3ー黒田理平庵訪問ー沖縄県立図書館ー京都帝国大学教授 武田五一博士ー首里  1月16日ー帰路図書館に立寄って、鎌倉芳太郎氏撮影の琉球古美術写真数十種があるのを知る。これを借用して、先日来預けておいた書籍、人骨等とともに宿に運ぶ。夜は西本町の活動写真館をしばらく覗く。河部・大河内の「弥次喜多」というのをやっていた。9時、宿に帰って写真を見る。
 琉球古絵画としては、筆者不明の歴代王像いわゆる「御後絵」や、円覚寺、天久宮、首里観音堂等の仏画の他に、著名な画家の手になるものも多い。欽可聖城間清豊自了(1616~1644)はその最たるもの。冊封使杜三策が顧愷之や王摩詰に比したというのもヨタすぎるが、狩野安信が友とせんといったくらいの値打ちは十分にある。自了と伝えられるものにはほぼ2風ある。一つは玉城盛朝氏所蔵の高士逍遥図や、図書館所蔵の李白観瀑図のように、まず梁楷風のもの、これには落款あるいは印章がある。他は臨海寺渡海観音や、尚順男爵家の陶淵明像のような描線やや繊細のもの、いずれも伝自了である。
 自了以後で見るべきものは殷元良(座間味庸昌1718~1767)であろう。遺品、屋慶名氏蔵、松下猛虎図、比嘉氏蔵山水等はいずれも佳品である。ややおくれて呉著温(屋慶名政賀1737~1800)、向元湖(小橋川朝安1748~1841)および毛長禧(佐渡山安健1806~1865)がある。中でも呉著温は山水に巧みで、最も傑出している。自了以下すべて日本画の影響がむしろ大なるものあることは注意すべきである。他に画師査秉徳(上原筑登之親雲上)康煕14年の銘ある久米聖廟の壁画も注意すべきもの。ただしこれは同55年呉師虔というものの修飾を経ている。八重山画家大浜善繁(1761~1815)、喜友名安信(1831~1892)、山里朝次(1848年頃)等の板障画も面白い。彫刻は建築物付属の石刻の他に、仏像、天尊像、古陶人像等あり、手腕は一般に絵画よりも一段優れている。

1939年12月、台湾詩人協会『華麗島』創刊号□川平朝申「幼年思ひ出詩抄」(版画「守礼門」)
1968年、金関丈夫博士古希記念に『日本民族と南方文化』が刊行された。国分直一、須藤利一、三島格らに交じって川平朝申も「さーじ考」を寄稿。那覇市中央図書館の沖縄資料には、川平と台湾で懇意であった金関が台湾から引き揚げのとき「日本には持ち帰れないから」と琉球資料(曼珠沙華艸蔵)を川平に託したのも多い。川平は当時、沖縄同郷会連合会を組織し疎開者救援運動にも関わり、沖縄県立図書館の再建を目指し献本運動も展開していた。

遊学の松岡正剛がブログで「金関丈夫がむちゃくちゃおもしろいということを、どうやって説明したらいいか、困る。ともかく読み耽りたくなる。なかなかの南方熊楠でも、こうはいかない」と金関を紹介している。

3月18日、東京の日本経済評論社から来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』がおくられてきた。本書でも、金関丈夫と宮良當壮の間で展開された起源論争についてふれている。本書の結論はこうである。沖縄では「弥生文化の影響を受けながらも『弥生時代』はなく、農耕が始まっても『農耕中心の社会』にはならなかったのである」。これらをふまえて、沖縄型農耕は「日本型農耕とは異なった、熱帯島嶼的農耕と共通性の強いものとなって展開してきたし、今なお展開しつつある」とする。

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1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)



大野麦風 おおの ばくふう
洋画家。東京生。名は要蔵。白馬会・太平洋画会に学ぶ。兵庫県に住した。昭和51年(1976)歿、87才。 (美術人名辞典)

村松乙彦 むらまつ-おとひこ
1912-1983 昭和時代の日本画家。
大正元年9月26日生まれ。児玉希望に師事。昭和16年新文展で「珊瑚礁(さんごしょう)の渚」が初入選。戦後は日展に出品,24年「浮嶋の朝」,26年「快晴」がともに特選となる。昭和58年10月13日死去。71歳。愛知県出身。日本美術学校卒。(→コトバンク)

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2月 関西沖縄県人会結成
2月 比嘉静観、ハワイで『赤い戀』(實業之世界社)発行
2月 伊佐早謙(米沢図書館長)、上杉茂憲の事跡調査のため来沖 


2月27日 『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」(エンゲルス「家族私有財産及国家の起源」)
2月29日 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「八重山藝術の世界的価値ー近代藝術に於る新しき指針」
3月 沖縄県人同胞会(関西沖縄県人会)機関誌『同胞』(ガリ版)創刊

3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。
1924-3
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原稿ー麦門冬が題字を揮毫したもの


4月 琉球歌人連盟発足(会長・山城正忠)
5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

5月 『科学画報』宮里良保「飛行機ものがたり」
6月23日 岸本賀昌、神村吉郎、宜保成晴、和歌山紡績会社で沖縄女工に対し講演
7月 田島利三郎『琉球文学研究』(伊波普猷・編)青山書店
7月1日 アメリカで日本人移民らを全面的に締め出す「排日移民法」実地
7月3日 『沖縄タイムス』莫夢生「地蔵漫筆ー水に住む蛙」
7月5日 フランス艦アルゴール号、那覇入港
7月8日 『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅ー仏蘭西と琉球」
7月  山城正択、(財)生活改善同盟会から「時の功労者」の表彰状

7月25日ー伊東忠太、東京出発。7月29日ー開聞岳は古来海上交通の目標として薩摩半島の南端にそびえ、三角錐の美しい山容から「薩摩富士」の名を持ち、錦江湾の入口にあたる海門にあることから海門岳とも呼ばれ、舟人たちに大きな安堵感を与えていた。7月30日ー大島。8月1日ー那覇・首里「守礼門」「園比屋武御嶽石門」「歓會門」「「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」「百浦添御本殿」。8月2日ー「波上宮」「聖廟(浦添朝顕邸内)」「辧嶽」。8月10日ーデング①ーがやっと治ったばかりの身体で首里に赴き円覚寺、尚順邸、小禄御殿の石垣を見る。8月11日ー高等女学校で伊東忠太 講演「本県の建築に就いて」。8月14日ー暴風雨の中、鎌倉芳太郎と識名園、識名神宮を見る。中城城は中途で止める。
7月28日 関西沖縄県人会、那覇市公会堂で演説会
8月22日 第四回ふたば会絵画展覧会(那覇尋常高等小学校)
8月25日 黒板勝美、基隆丸で帰京


1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)
 2019年も後わずか。組踊上演300周年でもあったが、その舞台の首里城が焼けてしまった。首里城大火を暗示するかのように、今年の1月には国梓としひで『太陽を染める城』「(1)城が燃えている」、3月は与並岳生戯曲集2『火城』「首里城炎上、大飢饉・・・・・未曾有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!」が出されていた。なお、与並氏は琉球新報12月発行の『蘇れ!首里城』も編集している。

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。仲田は首里区会議員(1896年~1910年)も務めた。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。


1924(大正13)年2月27日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「サボテンー本県の姓名について」
□そんなら母系家族制度とは、どんな社会であるかと云うに、これに対する答を得るにはモルガンの古代社会論を若しくはない。モルガンの「古代社会論」は今私も之を読んでいないが、エンゲルスの「家族私有財産及國家の起源」と云う書に引いた分だけでも母系時代が如何なる社会状態であったかと云う一般は知らるるのである。其の家族制度という章中に下の一節がある。(以下略)

2022-2-3沖縄県立博物館・美術館横の新城良一さんから1974年2月発行『銀座百点』№231を借りた。中に里見弴×渋沢秀夫「続・大正時代」で、渋沢が「私は一高寄宿舎にいた。新渡戸稲造先生が校長。あるとき徳富蘆花が来て『明治維新で封建諸侯が天皇のもとへ統一されたごとく、自分はクリスチャンだから、将来天の神様のもとに世界各国が統一されることを信じてる』『反逆者として井伊大老に処罰された吉田松陰が、現在は神社に祭られてる。だから幸徳秋水も遠い将来神社に祭られないとだれがいえるか』ということですよ。それをあんた、明治時代にいったんですからね。」
 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。
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12月 『琉球と鹿児島』莫夢「薩摩関係の琉球五異人」

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1940年12月 『月刊文化沖縄』12月号

表紙 金城安太郎「農村の乙女」
大日本良書推薦会代理部「特許印判付万年筆」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏
特輯口絵写真「壺屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カメラ/本社写真部・・・・・・・・・・・(1)


特輯口絵写真・南島余情「守礼門」「デパートの南国娘」「漆喰の屋根」・・・・・・カメラ/太田安敏・本社写真部・・(2)(3)(4)



神祟(神罪)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士  12-13
琉球人物史伝ー勇敢・奥濱船頭 バルチック艦隊最初の発見者・・・・・・…・・・・14-15
識名園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮里浩司 15
地名考二つ三つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城貫 16-17

本山萬吉(馬天居士/馬齒山人)
1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。



1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」

1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23

1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・


1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」

1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)

1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12  「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14


本山萬吉『馬天居士集』

本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。

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1992年9月16日ー『沖縄タイムス』

講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている。


1875年(明治8)年に松田道之と琉球処分で来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。
 現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である「那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」とある。この沖縄旅行案内には旅店遊廓及び割烹店も紹介されている「遊廓ー辻を第一とし中島渡地之に次ぐ辻にて」有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸座席兼割烹店は東屋芸妓21人を有し常盤芸妓9人小徳芸妓10人海月3人合計46人」、演劇場は「本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后2時より6時半より12時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし」とある。同書発行5年前の1890年『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人となっている。

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵

1900年2月 『太陽』第6巻第2号 山城正澤撮影「琉球風景」


1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。

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1901年6月『東京人類学会雑誌』加藤三吾「沖縄通信(をがん、仮面、舞踊、丸木弓、古鏡、曲玉等の)ー1月27日の日曜に小生は那覇写真師・山城正澤並に琉球新報主筆・太田天南(両人とも沖縄人にて太田氏は慶応義塾出身に侯)同道にて参り山城は其外面一部を撮影致候」

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1901年11月ー田山花袋『琉球名勝地誌ー琉球之部』博文館

 

山城正擇写真館/清容館(吉村貞)


1900年4月28日ー写真左から小嶺幸得、渡久地政勗、小嶺幸慶、前列左から渡久地政憑、小嶺幸秀、幸厚(山城正擇謹写)
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〇那覇上之倉春華園謹製「沖縄縣會議場」(山梨県甲府市の五味武子孫より公文書館の久部良和子さんに贈られたもの)

2011年『琉球新報』伊佐眞一「沖縄と日本の間でー伊波普猷・帝大卒論への道」10月25日(39回)に、伊波普猷夫妻、金城朝永夫妻と山之口貘、伊波普哲らの写っている写真を金城朝永関連で琉文21から引用している。
11月29日(43回)に「伊波の『海の沖縄人』ー『海上王国』を喚起 沖縄人の自覚、矜持示す」とし伊波を高く評価していることに意表を突かれた。この連載は確か伊波批判が主題ではなかったか。本人に聞くと「いや、見るべきものはチャント見ている」と言うことらしい。

写真家・????宮城昇探求
宮城昇は沖縄j県第二中学校を卒業、1924年に東京高等工芸学校に入学した。
在学中の昇は1926年11月、表調社主催の写真展に「白衣を着たる少女」を出品する。27年11月には表調社第3回展覧会に「詠子さんの像」「MaKe up」を出品。同年、東京写真研究会主催の第16回展覧会に「ひろ子さん」出品し入選する。28年3月、東京写真専門学校()卒業。同年、第3回日本写真美術展覧会(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催)で特選を受賞。このころ写真雑誌『フォトタイムス
』に論考を発表していると思われる。

1930年10月、秀英舎(現・大日本印刷)を退社し帰郷。31年、那覇で「昇スタヂオ」開業する。

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2000年5月27日『沖縄タイムス』写真人物、右から山田有登(写真家・山田實の父)、翁長助成、????宮城宗倫(写真家・????宮城昇の父)、山川文信、山城正好、宮里良貞


1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー前列右端に座っているのが山城正綱。真ん中の柱の中列右が瑞雨。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵
富名腰義珍『琉球拳法 唐手』の処女出版は武侠社から発行された。装幀は小杉未醒、山城正綱が挿絵。山城正綱の父は山城正澤。

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坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。
 1961年 (昭和36年) 61歳 細川コレクションの中国清代文房具の撮影。水戸山上コレクションの撮影と編集。京都、奈良、島根などの美術品の撮影。円空上人彫刻資料撮影のため愛知、岐阜をまわる。戦後初の沖縄訪問をし、その変わり様に驚く。「古備前名品図譜」(河出書房新社)、「船箪笥」(日本民藝協会)。→ウィキ
※坂本万七は1960年3月から『守礼の光』に写真を載せている。〇1961年10月『守礼の光』表紙「おどる琉球美人」
〇1961年11月 『守礼の光』表紙「ぶっそうげのある風景」
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1961年2月 『守礼の光』坂本万七「淡路人形」
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1961年5月 『守礼の光』坂本万七「土偶」
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1961年8月 『守礼の光』坂本万七「高麗の水注」
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1961年9月 『守礼の光』坂本万七「人形さまざま」
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1961年10月 『守礼の光』坂本万七「蒔絵の美」

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1978年4月『アサヒカメラ』平良孝七「日溜まり 沖縄の早春」

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1983年4月『富士ゼロックス20年の歩み』

 戦後写真集ー1979年2月『ゼロからの時代 戦後沖縄写真集』那覇出版社/1979年3月『アメリカ世の10年 沖縄戦後写真史』月刊沖縄社/1986年5月『写真集 沖縄戦後史』那覇出版社
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1998年12月 杵島隆『裸像伝説』書苑新社

杵島隆 きじま-たかし
1920-2011 昭和後期-平成時代の写真家。
 大正9年12月24日アメリカのカリフォルニア州生まれ。植田正治(しょうじ)にまなび,昭和28年ライトパブリシティに入社。コマーシャル写真を手がけ,31年フリー。29年第1回朝日広告賞,31年毎日広告写真賞,51年日本写真協会年度賞。平成23年2月20日死去。90歳。日大卒。旧姓は渡辺。写真集に「蘭」「義経千本桜」など。 →コトバンク

2017年11月 『暖流ー飯島幸永写真集』彩流社

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  私は中学時代、島袋源一郎の『伝説補遺沖縄歴史』を愛読していた。伝説だから多少神話的な要素もあった。こういった歴史書は今となっては郷愁を伴ない懐かしく私の琉球学の大半を占めている。だから昨今の客観的というか整理過剰な歴史書には郷愁を感じることはできない。だから友人たちの歴史書以外は手にすることは無い。
巻頭  琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似
第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて
第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方
①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク
②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。


島袋源一郎資料

1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」

1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門
10月ー東京「明正塾」閉鎖

1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門

1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。

8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
     現場主任に仲座久雄

1936年11月19日ー古琉球の工芸品三点 昭和会館へお興入れー左からー御徳盆、花瓶台、貝摺台附食籠

1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所

10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊

1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号

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1976年12月 雑誌『青い海』59号 大城一史「儀間先輩とのめぐり逢い」


昭和49年9月 『詩と版画』詩通信社(堺市)板良敷朝貞「素朴な琉球壺の産地・海の中の沖縄にはどこにでもある風景・老婆の織る首里上布」/ 昭和51年11月 「大城一史第一回個展ーすいせんのことば 版画家・儀間比呂志/沖縄の郷土月刊誌『青い海』編集人・津野創一」/1981年2月 板良敷朝貞『抽斗』

□儀間比呂志「あいさつ」


板良敷朝貞

1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。

黒メガネが大城一史氏/大城一史作品を背景に新城さやか


1983年7月 『なにわ今昔』毎日新聞社


1987年11月 『大阪春秋』通巻51号/1972年9月 大阪府写真師協会『大阪写真百年史』

1987年11月 『大阪春秋』通巻51号 佐々木豊明「大阪の写真大尽 光村利藻」

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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。

1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。
     12月ー田山花袋編『日本名勝地誌ー琉球之部』博文館(写真・中山門)



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 S・u〇気象庁は19日、昨年10月の台風19号を「令和元年東日本台風」と命名したと発表した。 台風への命名は1977年の「沖永良部台風」以来、43年ぶり。

斎藤 陽子(Walnut, California) 2-18【思い出のアルバム】
 ロスアンゼルスからサンフランシスコまでの太平洋沿岸を国道101号線とパシフィフィク・コースト・ナンバーワンとが入混じり敷設された、カリフォルニアの海岸線ぎわを通っているこの道路、遥か海の彼方は日本です。太平洋を眺めながらの完全な観光だけを目的とした約700キロほどの道路が、くねくれと永遠に続いています。その中間地点のサン・ルイス・オビスボに近い海岸線に、ゾウアザラシのPoint Reyes国立野生保護保養海岸があり、この海岸沿線の2000メートルほどが、ゾウアザラシの営巣地(コロニー)になっています。

 ゾウアザラシはその昔 脂肪や革を取る目的で乱獲され、19世紀末には絶滅寸前だったとのことです。ゾウアザラシのオスの体調は4~5メートル体重1000~2300キロもあり象の字が付くほど巨体で、メスは2~3メートルといくらか小さめです。オスの平均寿命は14歳ぐらいで、メスをめぐってオス同士の戦いは、片方が死ぬまで行われる時もあると言われています。
 2月の冬場はアザラシの交尾期でオスの鳴き声も一段と高く、アザラシの集団の鳴き声で、周辺はやかましい位でした。この海岸にこれほどの数のゾウアザラシが居るのはアザラシのためのイワシやイカなど餌が豊富な海が有り、シャチなどの天敵もいないからです。初めてこの海岸の数えきれないゾウアザラシを見たときの、その数に腰を抜かすほど驚いたものです。


 屋良 学‎ 今日から始まった「金武伊芸区コスモスまつり」

 「愛知ママの会」2-15 日本だけ初めから対応がおかしかった。1月23日、武漢封鎖、春節で諸国が中国人入国禁止に動いているときに、安倍首相が「中国人観光客を歓迎します」と挨拶を掲載したのは何故か?簡単だ。韓国の観光客が激減している上、春節の中国人観光客を減らして経済利益を下げたくなかったから。????【新型肺炎】専門家、感染経路が不明の市中感染が拡大している。新たな段階に入った。/ 元を正せば春節前に分かっていながら国民の安全と経済効果を天秤に掛け莫大な経済効果を優先する判断を下した安倍トップダウン政権の誤りが事の発端。明らかに人災です。????首相には目論見があった。昨年10月の消費増税のマイナス影響を、今年の春節、数十万人の中国人インバウンド収入で挽回できると算段していたはずだ。春節のインバウンド収入の目論見は、武漢肺炎でパーとなった。そして東京オリンピックも暗雲が立ち込めてきた・・・/2/14の昨日の速報にズッコケたが、中身を見ればこれだけ日数たってるのに、今まで対策本部に感染症の専門家入れてなかったー?!????世界の何周遅れでしょうか。????安倍総理大臣は「これまで以上に医学的な知見を踏まえた対策の検討を進めていくため、本日、この対策本部のもとに第一線で活躍する感染症の専門家の方々を構成員とする専門家会議を設置し、対策をさらに一層強化していく」

斎藤 陽子(Walnut, California)2-15
❤~~♡~~❤~Happy Valentine's Day~❤~~♡~~❤
     きょうはバレンタイン・デーです。
 ポカポカと陽気な晴天の、華金を迎えた南カリフォルニアです。このところ気温は毎日上昇して昨日も23℃ほどで、モクレンや河津サクラなどが一斉に咲いて、この1週間急に春の気配を感じています。中でも春から夏に咲き続ける、紫色がひときわ美しいマツバギクが目立ちます。葉が松葉の様な形をして肉厚で、花が菊を思わせるので、この様な名がついたようですが、菊の仲間ではないとのことです。原産地の南アフリカに似たカリフォルニアの乾燥した気温と陽の光を浴びて、夏が終わるまで満開の花を咲かせてくれるでしょう。

 右の植物は日本では暖かい地方で育つと言われる、メキシコ原産のリュウゼツラン科リュウゼツラン属の「Agave attenuata(アガベ・アテヌアタ)和名:ハツミドリと言うそうです。日本では花は10年に1度ほどしか咲かない珍しい植物と言われていますが、こちらロスアンゼルスの公園などでは毎年花をつけている処を見ると、メキシコと同じように乾燥した気温が合うのかも知れません。

  
「春うらら」2020/2/14 淡路島八木しだれ梅


大濱 聡 2-14
■羽田空港への着陸便が東京都心上空を通過する「新ルート」が運用される3/29を前に、2/2~12の7日間に試験飛行が行われた。住民からは騒音や低空飛行、落下物への懸念の声が聞かれたという。■「グッド!モーニング」で中尾 彬は「私は沖縄にいたから年中、これでしたよ。だから、東京都の人も少しは沖縄の人の気持ちを分かってくれないかなと思うんだ、これで」とコメント。沖縄でのマンション暮らしの経験があるだけに、沖縄に寄り添った思いを語っている。■それにしても、米軍が航空管制を担う「横田空域」(1都9県に及ぶ)を通過するために米軍の許可が必要だったり(見返りに、国際線の増加分のほぼ半数がアメリカ路線に割り当てられたともいわれる/NHK解説「羽田国際線増便と横田空域」)、沖縄では「嘉手納ラプコン」が返還されたとはいえ実質、米軍優先がまかり通っているのを見るにつけ、この国は本当に独立国なのかと思ってしまう。


 斎藤 陽子(Walnut, California) 2-13 南カリフォルニアは晴天に恵まれて、気温は20℃と温かくなりましたが、夜間は8℃ほどとまだ寒いです。伊豆半島の河津桜の並木も満開を迎えて、「河津桜まつり」が開かれているようですが、ロスアンゼルスの我が庭の、鉢植えの日本からの河津さくらも満開を迎えてますが、今年は桜の葉と同居で咲いています。



沖縄県立博物館・美術館(3F講堂前ホワイエ)2020年01月02日(木) ~ 2020年02月29日(土) 「在りし日の首里城」写真パネル展(無料)
2-12沖縄県立博物館・美術館横の新城良一さん宅に遊びに行く。漱石関係の本コレクターだ。

→鎌倉円覚寺「帰源院訪問記」2005ー11ー8.。「鎌倉手帳」1894年(明治27年)末から翌年にかけて止宿した作家夏目漱石は、釈宗演に参禅し、その体験は小説『門』に描かれた(参考:円覚寺の山門)。境内には、夏目漱石の句碑「仏性は白き桔梗にこそあらめ」が建てられている。作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いた。/1976年4月ー内田貢『夏目漱石と帰源院』鎌倉漱石の会/円覚寺境内に船越義珍「空手に先手なし」の石碑もある。



左から山田勉氏、比嘉清眞氏、小谷武彦氏
2020年2月11日~16日 那覇市民ギャラリー「比嘉清眞 写真展(年輪Ⅻ 生きるーⅡ)」

 愛知ママの会 2-13本当に酷い実態、和泉首相補佐官が何故こんなに私物化、不倫旅行も公然の秘密が許されているかといったら、理由は一つ。
今までの加計学園問題などで、首相の黒子として根回し口裏合わせなど、首相が直接できないことを身代わりになって動いて、一番の汚れ仕事をやってきたからなのでしょう。????しかも、この2人に持ち上がっている問題は、ただの不倫ではない。国民の税金を使って出張を“不倫旅行”に利用しているのという問題、そして、2人の不倫関係が人事や国策にまで影響を及ぼしているということだ。????「トップダウン型経費」は和泉首相補佐官を通して最終的に決定している──。ようするに、大坪氏による「恣意的な省益誘導」を和泉首相補佐官が通すという、国家予算の私物化がここでもおこなわれていたのだ。

  
h/n 2-13昨日通院して話し聞いたら、有ります、との事でした、政府は嘘を言っている、ヤル気がないのなら、民間にお願いして協力を仰げ馬鹿安部。/感染研は感染症に対する国の対策、対応の中核を担う機関です。田村さんは質問で、定員削減で「退職があっても新規採用しない、不補充になっている」と指摘。予算も10年前から比べ約20億円減っているとして、「今、この体制が弱体化していけば、国民の生命や健康への重大な脅威になる」と体制強化を求めていました。


 大濱 聡 2-10■隔月開催の江上泡盛ゼミ。今回の講師は天方 徹弁護士。2018年度沖縄弁護士会会長時代、辺野古基地建設の埋立の賛否を問う県民投票(19年2月)において、いくつかの首長が不参加を表明したことに対し、問題点を指摘し全県下での実施を強く求めた弁護士会声明を出した。それが全市町村の実施につながった要因ともいわれるが、その舞台裏を話していただいた。■自由討議では、黒川東京高検検事長の半年定年延長をめぐって盛り上がる。天方「司法はなめられている」、出席者「定年延長を断るという検事としての矜持はないのか」「やっぱり検事総長になりたいのか」



 「くろねこの短語」2020年2月29日ー「後手後手」の批判の嵐に耐えかねて、一発逆転のつもりで「全国小中高一斉休校」をぶち上げてみたものの、想定外の非難の石礫に慌てて「各学校、地域で柔軟にご判断を」と軌道修正しちまいました。こういうのを「朝令暮改」と言います。
 おそらく、初老の小学生・ペテン総理のいまの心境ってのは、パニック障害みたいなもんなんだろうね。(略)やることなすことが行き当たりバッタリで、新型コロナウイルスへの危機感なんかはカケラもないただのパフォーマンスだから、どうしたって夜は羽を伸ばしたくなるんだろうね。昨日の国会で連夜の酒食を問い詰められて、「何かいけないことなのか」「大人数の会食ではない。首相としていろいろな話をうかがう大切な機会だ」と居直る始末だ。
 かつて、フリー編集者の友人が税務署に入られて、打ち合わせの飲食代の半分を認めてもらえないことがあった。「仕事だ」と反論する友人に、税務署員は一言「半分は遊びでしょ」。友人はグーの音も出ずに降参したんだが、ペテン総理の財界人や芸能人との会食もそれと同じだろう。で、そんな国会質疑があったその夜に、なんと公邸で売文芸人の百田と有本香を招いて会食ってんだから、馬鹿は死ななきゃ治らない・・・ってところで、お後がよろしいようで。
・コロナのさなか秋葉首相補佐官だけでなく杉田水脈も政治資金パーティ! 櫻井よしこが発起人、稲田朋美、ケント・G、フィフィも

 「目取真俊ブログ」2-28 新型コロナウィルスの流行によって、琉球セメント前を通過する観光バスがめっきり減った。沖縄の経済にも深刻な打撃を与えているが、米軍の新基地建設というバカげた工事を真っ先に止めて、予算と労力を市民の命と健康を救い、守るために使うべきだろう。

 【ニューヨーク共同】27日のニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均は急落し、前日比1190.95ドル安の2万5766.64ドルで取引を終えた。1日の下げ幅として過去最大だった。肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの感染拡大に伴う世界経済の減速懸念が強まり、売りが加速した。世界的な株安の連鎖が止まらない状況に陥った。/関連SARSは2002年11月16日に中国で症例が確認され、2003年7月5日に世界保健機構(WHO)によって終息宣言

 「くろねこの短語」2020年2月28日ー(前略)「全国一斉休校」の要請って、何の権限があってしているんだろう。元文部科学省事務次官の前川喜平氏によれば、「休校するかしないかの決定は教育委員会の専権事項」なんだとか。だから、学校側は独自の判断で、一斉休校するかしないかを決めればいいんだよね。全国一斉に休校にしなくちゃいけない医学的根拠ってのもいまひとつわからない。新型コロナウイルスって、高齢者が最も危険なんじゃなかったのか。だからこそ、新型コロナウイルス対策として特養などの施設では、家族の面会などに一定の制限をかけてるんだよね。
 だいたい、市民生活そのものを混乱させる可能性のあるこうした政策を発表するのに、対策本部会合の席でってのが舐めてるよね。公式に会見を開いて、そうした結論に至った過程を説明して、そのデメリットへの対策もしっかりと組み立てたたうえで、覚悟を持って宣言すべきなのだ。強いリーダーシップには、それだけの責任が伴うものなのだ。それにしても、ただ混乱させるだけの政策を垂れ流して、オリンピック中止の動きを牽制するという思惑も込めた「やってる感」をアピールしようというのは、あまりにもセコい。ひょっとして、ペテン総理の頭の中では、戒厳令を宣言したつもりだったりして・・・妄想だけど。



 「JCAST」2-27-「コンパクトで、お金のかからない五輪をやると言っていたのにね。みんな思い出して、不都合な真実を!コンパクトな大会を謳(うた)って国民を納得させ、いざ招致したらドカッと予算を増やしてビック大会になりました。このツケがそのまんま降りかかるわけです。いったい誰の責任でしょうか」

1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。

 大濱 聡 2-26 昨日(25日)、■読谷村のトリイステーション(米軍通信施設)沖の海上で在沖海兵隊の大型輸送ヘリコプターが鉄製の物体を落下させたというニュースを聞いた時、すぐに1965年の「隆子ちゃん事件」がよみがえった。私が高校2年の時だった。現在は、「隆子ちゃん事件」と穏やかな表現になっているが、我々の世代は「隆子ちゃんトレーラー圧死事件」として記憶している。■「搭乗員の安全を確保するため……」というのがいつもの米軍の説明である。読谷村に限らず、県内各地で落下事件が発生しているが、住民、県民の安全、生命はどうなのかと問いたくなる。■まさか「隆子ちゃん事件」から46年後に読谷村に住むようになるとは思いもしなかった。時々、我が家の上空を戦闘機が飛び交うが、大丈夫だろうか。

 「飯塚真紀子」(在米ジャーナリスト)2-26 現在、アメリカには、53人の感染者がいる。CDC(米疾病対策センター)は米国時間25日、「アメリカでの感染爆発は避けられない」と警鐘を鳴らした。 「もはや、感染爆発が起きたらという問題ではなく、いつ感染爆発が起き、どれくらいの人が重症になるかが問題なのです」(CDC国立予防接種・呼吸器疾患センター、ナンシー・メッソニエ所長) 米誌「アトランティック」の「あなたは感染するだろう」と題された記事の中では、ハーバード大学のマーク・リプシッチ教授が衝撃的な予測をした。 「来年までに、世界の40〜70%の人々が、新型コロナウイルスに感染するだろう」 最大70%。 恐ろしい数字だが、教授は、新型肺炎が、通常のインフルエンザのようにありふれた疾病になることを予測し、この数字を出している。

松田 米雄 2-26 Netflixでアメリカ映画「コンテイジョン」を見る。2011年の映画。香港を起点に致死性、感染率の高いウィルスが発生し、世界中に蔓延していく。今の「新型コロナウィルス」を見ているようだ。お薦め。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2-26 自宅近くに24時間営業の体育館三棟ほど合わせたような、超大型スーパー「WinCo」が開店したとのことで行てみましたら、初めて見る珍しい商品を発見しました。写真は一人分「72時間(三日分)サバイバル備蓄食」と書いたパッケージ(約5千円)が、プラスチックの四角いバケツ大の容器に入って販売されていました。人は3日間水を飲まないと、死に至ると言われていますが、この中には3日分の飲料水も入っています。この備蓄非常食を見たとたん、私は70年も昔の遠い日のことを思い出しておりました。戦争が終わった年に、戦争で生き延びた人や外地から引き揚げた沖縄の人々は具志川金武湾など数か所に集められて、当時の金武湾は割と大きな集落となていました。(一説にはこの当時、米軍に沖縄の人々は幽閉同様に一か所に集められ、米軍は民衆の居なくなった土地をいわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」を行い、突貫工事で基地を作っていった時期だったと言います)

 小学校1年になったあの頃は飲料水はおろか食料もなく、人々はバラックかテント生活で過ごしていた頃で、まだ小学校は校舎もなく、運動場の片隅の木陰が教室という状況下でした。当時、青空天井の野外小学校へ行く唯一の楽しみは、米軍野戦戦闘食糧「Kーレーション」(K-ration)が、給食がわりに支給されることでした。あの頃の、このKーレーションを覚えている方は、終戦直後の沖縄に詳しい年代です。Kレーションとは、アメリカ軍が第二次世界大戦中に製造、配給したレーション(戦闘糧食)で、 1食分が一包化されていて、1包あたり2830〜3000キロカロリーはあると言われています 軽装備の兵士用食事で、1942年に戦場などの前線戦闘兵への非常食として、登場したと言われています。縦10センチ、横20センチ、厚さ4センチほどの、弁当箱ほどの大きさのK-レーションは、軍隊色のモスグリーンの厚紙の小箱に表面がワックスで防水加工が塗られた箱で、一人一食分のKーレーションの箱の中には、クラッカー数枚、ジャム、肉のパテ、プロセスチーズ、圧縮ココア、レモン粉末、粉末コーヒー、角砂糖、チューウイン・ガム、そして丁寧にも3本のタバコまでもが、きちっと入っているパッケージです。
 沖縄の人々は敗戦のガレキの中での生活で、食量の無い不自由な生活状況の中で、小学校で貰うこのK-レーションの何と美味しかったことか。野戦用の携帯常備食料品を貰らった幼い日のことは、いつまでも終戦直後沖縄の鮮明な思い出となっております。アメリカでは似つかわしくない非常食備蓄商品をスーパーで発見して、思いがけずも70年も昔のことがよみがえってきた次第です。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2-25 月曜日を迎えたロスアンゼルスは気温23℃と陽気なお天気ですが、ニューヨーク株式市場は、新型肺炎コロナウィルスの経済に及ぼす影響を懸念して、大幅な下落を示しています。コロナウィルスは中国をはじめ韓国、日本と終息の見通しも立たず、今週は正念場の様相を呈していますが、皆さん万全の予防で毎日を臨んでください。このところポカポカのお天気が続き、庭の河津桜はもうじき終わりを告げますが、ムラサキモクレンはまだ頑張って咲いております。

 例年だと3月頃に南のメキシコ方面から飛来するハチドリ(ハミングバード Hummingbird)が、早くも庭に飛来して、ハチドリの訪れは春が来たことを実感します。ハチドリの好きな砂糖水を赤く染めて、ハチドリ用の瓶に入れ、軒先に吊り下げていたら、今年最初のハチドリがやって来ました。気温が連日暖かくなり出し、本格的な春が来たと、どうやら勘違いしてしまったようです。ハチドリは世界最小の小鳥で、体長は5センチほどで体重は2グラムほど、アルゼンチン北部から北アメリカに生息しています。毎秒55~80回の高速で羽ばたき、空中で静止しホバリング飛行を行い、その際のブンブンという羽根の音が蜂に似ているので、ハチドリの名がついたと言われていますが、夏を感じさせてくれる小鳥です。赤い花の蜜が主食で、長いクチバシで蜜を吸いますが、赤い砂糖水を作ってやると頻繁に飲みに来て、10羽も同時に飛来すると、縄張り争いの空中戦を繰り広げます。
 気温が寒くなる11月頃まではカリフォルニアに留まり、寒くなると南のメキシコへと行ってしまいます。庭でときどきハチドリの盃ほどの大きさの巣を見つけますが、決まって2羽の子どものヒナが居て、丁度干しブドウほどの大きさです。庭で花柄の洋服を着ていると、花と間違えて蜜を求めて近づいて来たりします。カリブ海のトリニダードトバゴの国鳥でもあります。

   
Yoshinori Nakamura‎2-24 三重の梅の名所 。鈴鹿の森庭園に行ってきました。梅が見頃です。


 青山恵昭 2020-2-23 第五福竜丸核被害パネル展 那覇新都心コープあっぷるタウンで開催中。来る3月1日はあの日から66年、3・1ビキニデー。写真は水爆核実験爆心地から80㎞・1954年3月1日米軍撮影
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東京都立第五福竜丸展示館<東京都 昭和51年(1976)6月10日開館>
東京都江東区夢の島2丁目1-1 夢の島公園内この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。
 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和42年(1967年)に廃船になったものです。
 東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。
 第五福竜丸は総トン数140トン、全長約30メートル、高さ15メートル、幅6メートル。
 展示館建物の仕様形状― 鉄骨2階建て建造物、床面積800平方メートル、東西40メートル、南北15メートル、高さ25メートル、東西出入口・ガラス張り三角形、楕円形・変形コノイド曲面、外装・コルテン特殊鋼。
■ 開館時間 9時30分~16時/月曜休館
※月曜が祝日のときは開館し火曜休館
■ 入場無料
  館内には第五福竜丸船体実物、水爆実験被災の被害、乗組員の病状、まぐろ騒動、放射能雨、原水爆反対の運動、太平洋の核汚染状況、日米政府による事件の決着、マーシャル諸島の核被害、世界の核実験被害、核実験・核開発年表などの展示があります。
 展示館前ひろばには久保山愛吉記念碑、福竜丸のエンジン、マグロ塚石碑があります。
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
西脇安(にしわき・やすし)
米国のビキニ環礁での水爆実験で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」を調査し、船内から直接「死の灰」を採取してデータを発表、後に欧米などで反核運動が高まるきっかけをつくった西脇安ウィーン大名誉教授(生物物理学)が3月27日に誤嚥性肺炎のため大阪市の病院で死去したことが28日、分かった。94歳。大阪帝国大理学部を卒業。大阪市立大助教授だった1954年3月、第五福竜丸が被ばくしたことを新聞報道で知り、夜行列車で帰港先の静岡県焼津港に駆け付けて船内を調査した。

 『しんぶん赤旗』12-23 核兵器禁止、密約廃棄は急務 米国防総省高官は今後7~10年以内に、潜水艦や水上艦にSLCM(海上発射型核巡航ミサイル)を配備する考えを示しました。トランプ政権による核戦力大増強の一環で、「核兵器のない世界」を目指す世界の流れに対する重大な逆流です。さらに、日本への核持ち込みが再開される危険が現実のものになりつつあります。日米両政府は1960年の日米安保条約改定に伴い、核兵器を搭載した米艦船・航空機の寄港・通過を容認する核密約を締結。以来、日本への核持ち込みが常態化してきました。(略)
 重大なのは、2010年、民主党政権が日米核密約の存在を公に認めたものの、今日にいたるまで廃棄されていないことです。しかも、オバマ政権がトマホーク退役を決定した09年当時、世界で唯一の戦争被爆国でありながら、当時の自公政権がこれに異議を唱え、米国の「核の傘」に��

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

 森政三ー北海道札幌市に生まれる。東京の中学を終え、蔵前高専工業図案科入学。療養のため中退。1925年、東京美術学校建築学科卒業。歌舞伎座、都美術館、明治生命ビルの設計者・岡田信一郎①早稲田大学教授に師事して和洋建築の実技を習得。和風建築に興味をもち1929年「国宝保存法」の制定にともない文部省技官となる。国宝、重要文化財の調査、記録、修復を担当。1936年に国宝首里城正殿の解体修理工事を担当、1937年、初めて来沖し仲座久雄らと工事に従事。以後、毎年来沖して国宝、重要美術品の指定申請を提出、約20件が指定される。1945年から18年間ー日光東照宮修復の技師長になったほか、二荒山神社、神王寺や長崎の大浦天主堂、出羽三山の建造物などの修復を手掛けた。1955年、戦災沖縄文化財の実情調査と復興計画案を立てる。1956年、園比屋武御嶽石門設計監督、翌年竣工。1957年、守礼門復元工事の設計工事の設計監督委嘱、翌年竣工。泰子夫人との間に1男1女。
①岡田信一郎 おかだ-しんいちろう
1883-1932 明治-昭和時代前期の建築家。
明治16年11月20日生まれ。大正元年大阪市中之島中央公会堂の設計競技で1等当選。ニコライ堂修復のほか,歌舞伎座,東京府美術館,明治生命ビルなど,おおくの洋式建築を設計した。東京美術学校(現東京芸大)教授。昭和7年4月4日死去。50歳。東京出身。東京帝大卒。→コトバンク
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2004年2月 沖縄県立博物館・美術館[企画展] 図録『戦前・戦後の文化財保護 ~仲座久雄の活動をとおして~ |』
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写真右から国吉真哲、亀川正東、森政三、名渡山愛順、仲座久雄

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宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」

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日光東照宮でー中央に森政三、その右へ仲座久雄、一人置いて又吉眞三

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1980年9月15日『琉球新報』

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2010年7月28日那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展〇ギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。会場には湖城氏の幼馴染の渡口万年筆の渡口彦邦氏や、南都社長の大城宗憲氏も居られコメントも出た。
 講演終了後、大城氏はかつて松尾書店を経営して居られたのと『沖縄春秋』の話をするとパレット地下の日本料理店・彦に誘われた。何を注文するかと聞かれたので、大城さんと同じものでいいですよ、大城さんは年配だしそう食べないだろうと思ったら2段重ねの膳で出てきた。松尾書店から1965年4月に真境名安興『沖縄1千年史』を新城安善作成の索引をつけて発行している。同年11月には雑誌『沖縄春秋』も創刊。
 創刊号には「特別座談会・転機を迎えた沖縄問題」が組まれ小渕恵三、宇野宗祐、中村晄兆、翁長助裕が参加、司会が比嘉幹郎であった。『沖縄春秋』第2号にはカメラマンの岡村昭彦氏が来社した記事がある。日本料理屋には湖城英知氏と夫人も居られた。2000円札は沖縄観光のシンボルでもある。これを活かさない手はない。大城宗憲氏も沖縄観光を産業化にして居られる。

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2014年7月 東京都写真美術館(金子隆一、藤村里美 他)『岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて』美術出版社

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 1965年11月『沖縄春秋』第1号 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲
 1965年12月『沖縄春秋』第2号「戦争報道写真家の岡村昭彦氏 本社を訪問」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲5丁目
 1966年4月『沖縄春秋』第2巻第2号 徳田安周「小説・写真記者物語<2>(宝くじ50万円当たって)悪いけれども亡き親友の弟、山川岩美君に行ってもらうことにした。彼は沖縄から上京したばかりであったが、この話を聞くとフントーナーサイ(ほんとですか)とはじめは信用しなかった。(略)」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲

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Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

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 2021年『東京都写真美術館 紀要』№20 石田哲朗「収蔵作家・山田實の人物像について」
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2021年4月 豊里友行『沖縄戦の戰爭遺品』新日本出版社

  「くろねこの短語」2021年4月30日 東京の1日のコロナ感染者が、3ケ月ぶりに1000人を突破。順調(?)にパンデミックの道を歩んでいる。ああ、それなのに、オリンピック中止の声はどこからも聞こえてこないんだから、凄い国になったものだ。これって、家が火事なのに運動会やろうって言ってるようものなんだよね。 「コロナ禍で看護師不足の現場にこそ派遣を」「五輪より今はコロナ対策」というメッセージに多くの賛同の声が上がっているそうで、「医療に支障をきたすような状況が考えられることになったら、安心安全を最優先とするため無観客を決断しないといけない時が来るだろう」なんてほざいていた大会組織委会長の橋本セクハラ聖子にも「いや他人事過ぎませんか。もうとっくに医療に支障をきたしてます」という批判が殺到しているってね。コロナによる医療体制の逼迫が問題化している中での要請というだけでも大顰蹙なのに、さらにボランティアでってんだから、そりゃあ怒り心頭にもなろうってものだ。
 4-30 菅政権の命運は「東京五輪」「ワクチン頼み」であるものの、ワクチン確保に失敗し、接種率が世界的にも大きく立ち遅れている惨状が明らかになりつつある。菅官邸が思い付きで打ち出した「苦肉の策」は吉と出るのか、それとも……。(AERAdot.取材班)

  4-30 コロナ禍、沖縄59人(2人が死亡、計136人)、 大阪1043人(8人の死亡、計は1456人)、東京698人
 4-29 コロナ禍、沖縄76人、大阪1171人(44人)、東京 1027人
 4月28日 ロイター インドのコロナ死者が20万人超す、新規感染者36万人で最多更新
4-28 コロナ禍、沖縄63人、大阪1260人(14人)、東京925人(1人)
 4-27 コロナ禍、沖縄86人(1人)、大阪1230人(14人)、東京828人(3人)

 「くろねこの短語」2021年4月27日 新型コロナウイルスによる国内の死者が1万人を超え、なんと中国のほぼ2倍で、アジアではダントツなんだね。コロナに打ち勝つどころか、こてんぱんに叩きのめされちゃってるわけだ。それもこれも、PCR検査をおざなりにして、自粛のお願いに縋るだけのコロナ対策のせいなんだね。韓国は早いうちから無症状、軽症、重症などの段階別に隔離政策を取ってきてたんだが、日本はそんな韓国から何も学ぼうとしないどころか、コロナ蔓延という負のイメージばかりを喧伝していたんだから、何をかいわんやなのだ。
 こんなんだもの、オリンピックどころではないはずなのに、なんとまあ、東京オリ・パラ組織委員会が「日本看護協会に対して、看護師約500人を大会の医療スタッフとして動員するよう要請」してたってね。しんぶん赤旗がスクープしたんだが、これを組織委員会が認めましたとさ。いつも上から目線の財務省上がりの事務総長・武藤君がこんなコメントしてます。「約500人の看護師の方々について、検討していただけないかというお願いをいたしました。大前提は地域医療に悪影響を与えないようにすること。そのために、勤務時間やシフトのあり方をよく相談しながら、最も対応可能なやり方を相談していきたいと思っております」
 医療体制逼迫が問題化している中で、よくもまあこんな要請ができたものだ。しかも、動員された医療スタッフには研修があるそうで、そうなったらオリンピック前から拘束されるわけで、コロナどころではなくなっちまいますよ。ここまでくると、オリンピックって何様のつもり、って思いたくもなってくる。「コロナに打ち勝った証としてのオリンピック」ってんなら、コロナの猛威が治まって、コロナ以前の日常が戻った時に改めて再開すればいいのだ。

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2020-8-8『しんぶん赤旗』工藤昌宏 東京工科大学名誉教授「コロナ後も回復望めずー2度にわたる消費税増税やコロナによって奪われた雇用、所得、消費を取り戻すことは容易ではなく、世界市場の回復見通しも立っていません。つまり、仮にコロナが収束しても政府が期待するような日本経済のv字回復は望めないということです」/2020-12-31『沖縄タイムス』りゅうぎん総合研究所・大城美波「コロナ禍の消費変化-個人消費を再燃させるためには①新しい生活様式②小売店側の新しいチャンネル③消費マインドを上向かせるために、特別定格給付金の再支給や消費税率を引き下げるなどが必要」/2021-4-10『沖縄タイムス』吉田朝啓「ボリビア産木 首里城にーオキナワウラジロガシなど沖縄の希少大木を伐採せずともボリビア産木を」〇4-24 沖縄117人、東京876人、大阪1097人、兵庫635人、コロナが減る傾向が見られないので「コロナ後」のことを考えてみた。/「IOCのバッハ会長が、東京オリンピック開催と緊急事態宣言は関係がないと発言しました。いやァ、たまげました。人々の命よりもオリンピックが大事か、そう思った方も多いのではないでしょうか」(金平茂紀さん、TBS『報道特集』4月24日)

 「くろねこの短語」2021年4月26日 顔も頭も貧相なカス総理にとって初の国政選挙は、野党3勝で自民党の完敗。なかでも、河井バカップルの買収事件で再選挙となった広島が注目の的だったんだが、野党候補のフリーアナウンサー、宮口治子氏が僅差で逃げ切り。自民党の牙城が音を立てて崩れた瞬間だった。
しかも、低投票率での勝利が意味するものは大きい。これまでなら低投票率は組織票を持つ自公候補に有利に働いていたのに、今回ばかりはそうは問屋が卸さなかったようだ。午後8時の段階で21.82%という恥ずかしいほどの低投票率にもかかわらず、野党候補が勝利したのは、自公支持層の多くが棄権に回ったからという分析もあるようで、さすがに身内からもカス政権が見放されたということなのかもね。 野党3連勝が、カス政権の終わりの始まりとなるかどうか・・・そのためには、この勝利に浮かれずに野党共闘をより強固なものなしていく責任が、特に立憲民主にはあるだろう。/『沖縄タイムス』4-26 任期満了に伴ううるま市長選(沖縄県)は25日、投開票され、無所属新人で前市議の中村正人氏(56)=自民、会派おきなわ、公明、無所属の会推薦=が2万7597票を獲得し、無所属新人で沖縄国際大名誉教授の照屋寛之氏(68)=立民、社大、社民、共産、新しい風・にぬふぁぶし推薦=に1862票差投票率は55・49%で、前回(2017年)の60・70%を5・21ポイント下回り、過去最低だった。/沖縄の場合は投票率最低で組織票が物言うた。知事のコロナ対策や、遺骨問題など優柔不断の姿勢もあるだろう。

 『東京スポーツ』4/26 人気料理バラエティー番組「料理の鉄人」(フジテレビ系)でブレークした、〝関西料理界のドン〟と呼ばれる料理研究家の神田川俊郎さん(本名・大竹俊郎)が25日未明、大阪市内の病院で新型コロナウイルスによる肺炎で急死した。81歳だった。「神田川」という名前は祖父が東京、京都で開いた鰻屋の屋号から取ったもの。神田川さんは京都市内の中学校を卒業し大阪市内の一流料亭で修業後、創作おでんの店での独立を経て、1965年に大阪市北区に和食料理店「神田川本店」を開店。現在、北新地に4店舗を構えていた。

 4-24日本テレビ系(NNN) 宣言解除には…「強い措置で短期集中」がキーワードになった、3度目の緊急事態宣言。期間は25日から5月11日までとなっています。4都府県は厳しい状況に置かれていますが、菅首相から解除の「具体的な出口」は示されませんでした。政府関係者らの発言から、五輪開催への思惑も見え隠れします。5月17日から予定されているIOCのバッハ会長の来日です。今週半ばに組織委員会の幹部が政府に『緊急事態の東京にバッハ会長を呼ぶわけにはいかない』と伝え、理解を得ていたそうです。五輪に向けて『延長したくない』という思いも見え隠れします」

 「くろねこの短語」2021年4月24日(前略)、そのコロナなんだが、緊急事態宣言にかこつけて、フリップ小池君がこんな馬鹿な発言して顰蹙を買っている。「午後8時以降、街頭の照明を伴う明るい看板、ネオン、イルミネーションなども停止をしていただくようにお願いする。夜は暗い。街灯のみが灯るということに結果としてなると思う。街灯を除いて、すべての明かりも消すように徹底していきたい。このあと関係団体に、協力いただくよう要請していきたい」おいおい、これじゃあまるで戦時中の灯火管制だろう。酒類の提供禁止なんて禁酒法まがいの要請に続いてこれかい。そもそも、ネオンとコロナとどんな関係があるんだ。科学的根拠を是非ともお示し願いたいものだ。
 そう言えば、大阪のイジン吉村君も現行制度では新型コロナウイルスの抑制に十分に対応できないから「個人に義務を課す法令が必要だ」って喚いたってね。東京も大阪も目立ちたがりの口先知事のパフォーマンス政治のせいで、とことん疲弊していくことになるんでしょう。こんな三流芸人まがいの知事を選んだ有権者にも、その責任の一端はあるってことを自覚してもらいたいものだ。

 「くろねこの短語」2021年4月22日 度目の緊急事態宣言が決定的な状況で、なぜ最終決定が23日なのかねえ。日本医師会会長は「躊躇している場合じゃない」って訴えてるってのに、カス政権のコロナに対する態度のなんと温いことよ。おそらく、この期に及んでも、オリンピックのことが気になって仕方ないんだろうね。緊急事態宣言は、開催に向けてマイナスであることは間違いありませんからね。ああ、それなのに、カス総理は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして実現する決意に何ら変わりはない」と、まさに歩く頑迷固陋と化している始末だ。
 IOCの言うがままってのが実際のところなんだろうね。おそらく、大会組織委員会は機能不全に陥っているに違いない。でなけりゃ、国内観客の入場制限を6月に先送りなんて馬鹿なことはしませんよ。5月にIOC会長のバッカじゃなかったバッハが来日予定だそうで、そこで御託宣を受けようって寸法なんじゃないのか。
 ところで、緊急事態宣言について、フリップ小池君がいまさらのようにこんなことほざいとります。「ゴールデンウイークを前にしたこのタイミングで緊急事態宣言をぴしっと出すことが必要だ」自粛のお願いばかりで、具体的な政策を何も打ち出せなかったくせに、何が「ぴしっと」だ。ヘソで茶が沸いちまいますよ、ったく。

 1985年6月『核 いま 地球は…』講談社□「核の海の出現ー『公海』は、いまや両核大国、とりわけアメリカにとって、必要なときに無料で使用することのできる、広大な核発射基地となったのである。(略)日本は、その『核の傘の下の海』に浮いている。」□「北西太平洋におけるアメリカの核戦略は、日本列島を足場にして成立しているといってもよい。横田と嘉手納にある通称『ジャイアント・トーク』(戦術空地無線システム)は、グアム島の戦略空軍分遣隊が毎日行っているB52戦略爆撃機による水爆パトロールに情報と指令を送るものであり、依佐美通信所のアンテナ群は核の発射海域を潜航中の戦略原潜に情報と指令を送るものである。」

  NHK4-21 大阪府内の感染者は合わせて7万1083人になりました。また、20人の死亡が新たに確認され、府内で亡くなった人は1301人になりました。/4-20 沖縄のコロナ本日は115人、東京は711人とある。政府系の情報だろうが、ネットに「COVID-19 によって起こる症状のほとんどは軽度から中程度であり、特別な治療を受けずに回復します。」「COVID-19 による症状は、人によって異なりますが、ほとんどの感染者では軽度から中等度の症状であり、入院せずに回復します。」とある。これでは人出は減らないだろう。大阪府は1153人新たに8人が死亡し、府内の累計死者数は計1281人となった。さらにネットに2日前の統計として大阪府 感染者の合計数68,663+719 回復者数52,853+338 死亡者数1,265/日本 感染者の合計数 53.7万+2,274 回復者数48.3万+2,259 死亡者数9,629+19/全世界 感染者の合計数1.41億 回復者数8040万 死亡者数301万。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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  「くろねこの短語」2021年10月10日 あっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君の顔が出てくるたびに、テレビに向かって物を投げたくなる今日この頃 そんなことより、日大背任事件が、まるで第2の加計学園みていな様相を呈してきた。なんと言っても、日大背任事件相関図にペテン師・シンゾーの名前が出てきますからね。逮捕された理事のひとりはペテン師・シンゾーが「ヤブちゃん」の愛称で親しく付き合っていっただけでなく、「錦秀会グループから安倍元首相の出身派閥である細田派の政治団体『清話政策研究』に、多額の政治献金が寄付されていた」そうだ。錦秀会グループとは西日本最大級の医療グループで、ヤブちゃんはそこの理事長だったんだね。
 そんなヤブちゃんがただのゴルフ仲間であるわけがありません。そりゃあ何らかの利権があって、ペテン師・シンゾーと持ちつ持たれつの関係だっただろうことは容易に想像がつく。加計学園の雲隠れ孝太郎との関係を彷彿とさせます。日大事件がどんな展開になるかはわからないけど、おそらく本丸はいろいろ黒い噂のある田中理事長じゃないのかねえ。そこまで捜査の手が伸びないと、ただのトカゲの尻尾切りで終わっちまいますよ。ついでに、ペテン師・シンゾーが金の流れに関与してたら面白いんだけど。
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2016年6月 久利将輝『ドイツの国家資格 眼鏡マイスターへの道』マイスター大学堂/2021年10月8日『沖縄タイムス』「桜の植樹 協力依頼 神戸の久利さん本部町長らに」/2019年9月18日『琉球新報』「第55回琉球新報賞 社会・教育功労 久利計一氏 (自然や歴史、文化を体験する事業「KOBE夢・未来号・沖縄」を実施しているKOBE三宮・ひと街創り協議会会長)」

10-11 本日も「波」ウィルス禍、沖縄7人(4)米軍4、大阪49人、東京49人(6)
10-10 本日も「波」ウィルス禍、沖縄14人米軍、大阪105人(2)、東京60人(7)
10-9 本日も「波」ウィルス禍、沖縄15人(5)米軍6、大阪124人、東京82人(9)
10-8 本日も「波」ウィルス禍、沖縄29人(4)米軍2、大阪166人(13)、東京138人(18)
10-7 本日も「波」ウィルス禍、沖縄16人米軍9、大阪165人(5)、東京143人(19)
10-6 本日も「波」ウィルス禍、沖縄30人米軍11、大阪209人(4)、東京149人(5)
10-5 本日も「波」ウィルス禍、沖縄38人(4)米軍9、大阪176人(6)、東京144人(5)

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 琉球の横顔 ― 描かれた「私」からの出発 沖縄県立博物館・美術館 2021年11月03日(水) ~ 2022年01月16日(日)沖縄に生まれ、あるいは沖縄にゆかりのある16人の作家の作品を紹介します。
 アジア諸国と交易をおこなっていた琉球王国時代から、沖縄は独自の文化を形成してきました。しかし、日本の一部となった後の1932年、沖縄出身の久志芙沙子の小説『滅びゆく琉球女の手記(原題は「片隅の悲哀」)』が婦人公論に掲載されると、ハジチなどの習俗に対する表現をめぐり、在京の沖縄県学生会から抗議が起こり、未完のままとなりました。本展は、89年前に久志がすくった「弱者への差別や偏見」という問題を21世紀の今日に受け止め、表現の限界に迫る方法論を実践するアーティストを取り上げます。沖縄系ハワイ移民をルーツに持つアメリカの作家や1977 年に発足した沖縄女流美術家協会の作家、沖縄県立芸術大学などで学んだ作家の作品など、約50点を展示します。沖縄美術の多文化的な側面と可能性を感じていただき、アートの新たな展開を楽しんでいただけることと思います。

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那覇市立壺屋焼物博物館 11月2日~12月26日「うちなー赤瓦ものがたり」(観覧料無料)

 「くろねこの短語」2021年10月8日 久しぶりの大きな揺れに、一瞬ドキっとしたものの、物が落ちたりはしなかったので安心していたら、なんと朝になったらけっこうな被害が出ていたのにはビックリ。まだ余震がありそうというから、しばらくは要注意かもね。・東京都内で震度5強 各地で水道管破裂、冠水
 ビックリと言えば、連合の新会長の発言だ。なんとまあ、「共産の閣外協力はあり得ない。(立民の)連合推薦候補にも共産が両党合意を盾に、共産の政策をねじ込もうという動きがある」って不快感を示したんだとさ。衆 議院選直前に野党共闘を妨害するような発言を、連合の会長がするってのは、明らかな利敵行為だろう。やっぱり、連合なんかもういらない。大企業の御用組合に変貌した連合は、労働者の味方ではありませんからね。
 国民民社のタマキンは「国民民主の路線と全く一致している。これまで以上に連携をよく取りたい」ってこの発言を歓迎しているそうで、前川喜平氏が指摘するように、連合がそうであるように国民民主ももはや「自民の補完勢力」にすぎないってことだ。ところで、日大の背任事件で逮捕された理事って、ペテン師・シンゾーと昵懇の間柄なんだってね。日大には私学助成金として90億円の税金が渡っている。背任事件はいわば税金を搾取したようなもので、政治家にもその一部が流れていたりして・・・妄想だけど。その政治家がペテン師・シンゾーだったら、またひとつの疑獄事件の始まりとなるんだが・・・果たして、真相やいかに。

 「くろねこの短語」2021年10月7日 ガラクタ内閣の顔ぶれを見ていると、「誰それ?」って聞きたくなるほどイメージ希薄な陣笠揃いと思いがちなんだが、どっこい裏ではけっこうブイブイ言わせてるワルばかりなんだってね。なんでも、「政治とカネ」疑惑大臣が9人もいるそうで、早速、文春砲が炸裂しましたとさ。標的になったのは、ワニ男・平井君の後釜におさまったデジタル大臣のデジ女・牧島かれん君だ。なんとまあ、NTTから2回にわたって高額接待を受けていたってね。「事後的割り勘」で顰蹙買ったワニ男と同じで、ようするにデジタル庁ってのはNTTとつるんだ利権の温床になってるってことだ。
 でもって、週刊文春の取材に対して、デジ女・牧島君は、こんな風に開き直ってくれましたとさ。「会食を伴う意見交換を行ったのは事実です。(飲食費を)支払った記憶はございません。政治家として様々な方と意見交換を行うことは重要であり、問題ないと考えています」こんな言い分が通るなら、利害関係のある業者との接待はフリーパスってことになりますよ。デジ女以外にも、巨額年金消失事件に関わった企業との関係が囁かれる厚労大臣、政治資金で高級ブランド爆買いた文科大臣、元公設秘書が凶悪事件を起こしていた国家公安委員長et・・・いやあ、「世に盗人の種は尽きまじ」とはよく言ったものだ。
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2006年3月 『NTTグループ社史』

 「くろねこの短語」2021年10月6日 日本出身の学者がノーベル賞受賞は確かにめでたい。しかし、なぜ真鍋博士がアメリカ国籍を取ったのか。日本ではまともな研究が出来ないという現状をこそ、いま語るべきなんじゃないのか。そんなことより、岸田ガラクタ内閣の支持率だ。発足直後だというのに、なんと共同通信の調査では55.7%、毎日新聞では49%と5割にも届かない低支持率。あのポンコツ内閣だって発足当初は御祝儀もあって70%近くあったんだよね。それがこんな低支持率ってのは、あっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君の幹事長起用ってのがかなり大きく影響しているのは間違いない。それが証拠に、幹事長人事評価しないが54%にも上っている。さらに、森友学園疑獄については「再調査をするべき」が62.8%もありましたとさ。
 でもって、河井バカップル買収事件の再調査についても、ひと悶着あったってね。あっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君がNHKの番組で「再調査はしない」と明言したことに反発して、広島県連幹部が昼間の幽霊・岸田君に「まだ今のやり方では広島県民、また国民の皆さんは納得してませんよ」と詰め寄ったそうだ。睡眠障害・甘利君のあっせん利得疑惑を調査する野党合同の追及チームのヒアリングが始まり、岸田ガラクタ内閣は船出早々に座礁の危険性が高まっている。ジョー、フミオなんて馬鹿言ってないで、もっとやるべきことをやりやがれ。

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沖縄のシンボル守礼門入口/守礼門、手前右の階段を上ると徐葆光顕彰の碑

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2021-10-3 沖縄県立博物館・美術館 新城良一氏/新城良一氏運転で首里へ、佐藤惣之助詩碑(工事中)
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2021-10-3 泊から見た黄金森公園/おもろまちから見た黄金森公園

 「くろねこの短語」2021年10月3日 フリップ小池君が特別顧問を務める都民ファーストの会が国政政党設立をするんだとか。でもって、今日にも記者会見ってんだが、なにやら希望の党を想起させますね。民進党を分裂に追い込んで、あわよくば初の女性総理を狙ったものの、「排除します」の一言ですべてが水泡に帰したのはまだ記憶に新しい。「私は都民ファーストの会の動きについて関知していない」ってフリップ小池君は知らぬ存ぜぬを決め込んでいるようだが、どうしてどうして。着々と進む野党共闘を切り崩して、自民党の手助けして恩を売る絶好のチャンスと感じてるんじゃないのか。国民民主のタマキンも連携に色気があるようで、ひょっとすると国民民主を解党して都民ファーストとの新党に合流・・・なんてことがあったりして。
 ところで、ワイロ・ドリル・パンツと揶揄される自民党役員人事なんだが、パンツことパンティ高木君には下着泥棒以外に香典疑惑もあったんだね。ひっそり隠れてりゃあいいものを、ノコノコと日の当たる場所に出てくるものだから、それならってんだ過去の悪事が掘り起こされる。  ドリル小渕君にしたって、どのツラ下げてというのが世間の見方で、証拠のハードディスクを破壊した過去はそんなに簡単に消えるものではありません。  ひょっとして、昼間の幽霊・岸田君はそこのところを計算してのワイロ・ドリル・バンツ人事だったりして。あっせん利得疑惑の甘利君なんか、これから週一で記者会見するわけで、針の筵になるんじゃないのかねえ。  過去の悪事が蒸し返されることを予想して、甘利失脚を画策したとしたら・・・ま、それほどの策士なら、もっと早くに総理・総裁になっていたか

 「くろねこの短語」2021年10月2日 昼間の幽霊・岸田君が自民党総裁になって、御祝儀相場どころか株価が下落だとさ。そりゃそうだ。あっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君を事もあろうに幹事長に起用するんだもの。睡眠障害男の不景気面を見れば、株価も下がろうというものだ。その甘利君が記者会見に登場。早速、あっせん利得疑惑を突っ込まれて、こんな言い訳しましたとさ。「私は寝耳に水(だった)。事件がどういうものであったのか、わからないところから始まった」「辞任会見で質問が出尽くすまでお答えをいたしました」でも、思い出してみよう。大臣室で業者から現金受け取ったのがバレて、経済再生担当相を辞任する時の記者会見を。この男は、こんなことのたまってたんだよね。「未だ全容の解明には至っておりません。引き続き調査を進め、しかるべきタイミングで公表する機会を持たせていただくことについて御理解を賜れればと思っております」つまり、「質問が出尽くすまでお答え」してないってことだ。野党は調査チームを設置するそうだけど、それを察してか昼間の幽霊・岸田君は予算委員会を開くつもりはないってね。衆議院選を前に睡眠障害・甘利君があっせん利得疑惑で火だるまにされちゃうとまずいからだろう。昼間の幽霊・岸田君にとって、睡眠障害男の存在はアキレス腱となって、いずれ窮地に立たされるんじゃないのかねえ。もう忘れただろうとタカをくくっていたツケが、早くも回ってきたってことか。ざまあありません。

 「くろねこの短語」2021年10月1日 (前略)いやあ、それにしても、党役員人事を見るにつけ、誰に忖度したか一目瞭然の面子には、そのあまりの露骨さに反吐が出ます。なかでも、白眉はあっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君の幹事長登用だろう。この男の名前を聞いただけで、昼間の幽霊・岸田君への淡い期待が一気に醒めたとも言われる。そりゃあそうだ。議員会館で金銭やり取りして、秘書にその責任を押し付けたまま説明責任を果たさずに、睡眠障害で病院に逃げ込んだチキン野郎ですからね。
 娑婆にいるのが不思議なくらいのまっくろくろすけが幹事長って、つまりは安倍・麻生傀儡政権ですって自分で言ってるようなものなんだね。ちなみに、ブロック大王・河野君の党広報部長ってのは、ていのいい左遷ってことで、見せしめみたいなものか。今日にもあっせん利得疑惑の睡眠障害・甘利君は記者会見するようだが、記者クラブの懲りない面々がどこまでこの男の闇の部分に突っ込めるか・・・ま、期待するだけムダだろうけど、お手並み拝見の台風襲来の朝である。

10-4 本日も「波」ウィルス禍、沖縄9(6)人、大阪96人(1)、東京87人(6)
10-3 本日も「波」ウィルス禍、沖縄29人米軍5、大阪136人、東京161人(7)
10-2 本日も「波」ウィルス禍、沖縄43人(5)米軍15、大阪184人、東京196人(13)
10-1 本日も「波」ウィルス禍、沖縄41人(5)米軍8、大阪241人(1)、東京200人(14)
9-30 本日も「波」ウィルス禍、沖縄64人(5)米軍6、大阪264人(3)、東京213人(12)

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大濱聡 9-30

 「くろねこの短語」2021年9月30日 「生まれ変わった自民党を国民に示す」(岸田文雄)・・・だったら、モリ・カケ・サクラに河井バカップル買収事件の真相解明に力を尽くせ!!&幹事長に甘利の名前が上がってるようじゃ、ダメだ!ガラクタ4人組による自民党総裁の椅子取りゲームは、昼間の幽霊・岸田君の勝利に終わった。何のことはない、ペテン師・シンゾー、ひょっとこ麻生、そして土建政治・二階による院政の始まりってことだ。

 SPA! 9-29 そこでGACKT氏と親密な夫の文信氏が妻である野田聖子を頼り、金融庁に対して圧力をかけたとされる疑惑が浮上。週刊文春(以下、文春)、週刊新潮(以下、新潮)が文信氏の黒い経歴と共に疑惑を報じたのです。そして、この一件で野田氏の夫、文信氏が文春、新潮の2誌を事実無根、名誉毀損として訴えることになったんです」文春を訴えた判決が今年3月24日に出たのだが、その内容はある意味、センセーショナルなものであった。
 なんと、裁判で訴えたもの圧力疑惑はなしとされたが、逆に裁判所から「元ヤクザ」と認定されてしまったのである。文春でこうした判決が出たわけなので、新潮は勝ち試合を眺めるだけの状態だったのだが、さらに予想を上回る判決が飛び出したのだ。「新潮の裁判では『原告が指定暴力団・会津小鉄会の昌山組に所属していた元暴力団員であるとの事実の重要な部分は、真実であると認められる』と具体的な組の名前を挙げて、文信氏が組員だったことを認定したのです」

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2021年9月 同人誌『南溟』11号 『南溟』同人会-〒904-2166 沖縄市古謝津嘉山町8番9号 TEL&FAX.098-934-2006 平敷武蕉「アンニョン ハセヨ 韓国の空」/真壁朝廣「評論 父の履歴書から考える」/「あとがき」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2003年8月1日設置。沖縄都市モノレール(湖城英知社長)
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沖縄都市モノレール社長で湖城英知氏、新城栄徳

2018年8月現在
 ゆいレール那覇空港駅改札口に「万国津梁の民」と題するステンドグラスがある。儀間さんの版画を拡大したものだ。向かって左から琉舞とソテツ、進貢船、フェニックス(?)、右端にエイサーの太鼓を打ち鳴らす若者の姿も見える。儀間は沖縄市で盛んなエイサーがあるのは、モノレールがずっと沖縄市まで延びてほしいからだという。その沖縄市(コザ)に対して儀間さんは「エイサーは、歌も踊りも各地域それぞれ特色をもっているが、圧巻はなんといっても毎年旧盆にコザ市で催される『全島エイサーコンクール』だろう(1966年『版画風土記・沖縄』)。「コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりが巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス産業で栄えている町なのに島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる」(1974年『沖縄』講談社)。そのエイサーのまち沖縄市の「第63回全島エイサーまつり」は、8月31日~9月2日に県内の青年会が一堂に集結し、代々受け継いできたエイサーを個性豊かに繰り広げる。むろん那覇でも8月に「那覇一万人のエイサー踊り隊」がある。


2005年1月 西銘圭蔵『国家を超えた思想 伊波普猷』(装幀・儀間比呂志/題字・増川白陽)ウィンかもがわ

 儀間比呂志の「万国津梁の民」というのは、世界のウチナーンチュのイメージにも通じる。儀間版画の「ゆがふう」(世果報)は先の普猷の「甘世」にも通じるが、ミルクユガフー(弥勒世果報)とも言う弥勒信仰の一つで、理想的な世の出現を希うものだ。ウチナーの現実に即して言うならば「核も米軍基地もない平和で豊かなウチナー」、これに尽きる。

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Posted by: ryubun02
平成元年6月ー宮城清市『回想録 八十余年の歩み』

昭和40年10月2日 大阪/太閤園にて
前列右より 嶋根英夫 大浜信泉① 夫人
後列右より 長谷川福政 喜納政泰 宮城桃幸 下地玄信 宮城清市 豊川忠進 西平守晴

①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「大浜信泉」


昭和58年2月 守礼門を背景に
大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加


1960年8月15日 『琉球新報』「大田主席の招きで大阪の竹下大正区長、宮城清市大阪沖縄県人会連合会長が来沖/与那原大綱引き賑わう」


1962年4月25日 大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』(編集/伊豆味正浩)

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

宮城桃幸ー西宮・自宅書斎にて
宮城桃幸は戦前から戦争中にかけての沖縄県物産販売大阪斡旋所長、戦後の1951年7月に沖縄連盟兵庫県本部会長、1952年の沖縄協会兵庫本部会長(~54年10月)などとして、県、および関西の沖縄同胞のために力を注いだ代表的な先達。明治39年に沖縄県唯一の農学校「国頭郡各間切組合立農学校」に入学、校長の黒岩恒、教頭の宮城鉄夫から教訓を受けた。卒業後、園芸研究のたま興津園芸試験場練習生を経て徴兵、大正9年に中国山東省の青島に赴任した。林務署園芸主任として11年まで勤める。その間に末弟の桃郁を呼び寄せ、中学から東京医学専門学校までの学費の面倒をみた。

4年間の宮崎県立農事試験場勤務をおえて15年6月、沖縄農事試験場へ出向する。園芸作物試験費が農林省から交付されたため、その事業を担当することになったのだ。成果や当時の記録などは昭和54年に刊行委員会から発行された『昭和沖縄園芸発達史』にくわしい。

園芸研究から販売斡旋、販売開拓に力を注ぐため大阪の斡旋所に赴任したのが昭和15年。以来、終戦をはさんで23年11月まで所長として任務を全うした。大阪大空襲で事務所が焼失すると、西宮の自宅で執務にあたったことも。とくに戦後の混乱期に、桃幸の努力で在関西の沖縄県人に罹災証明書(沖縄での)を発行、23年の1年間だけでも1万5千人の県人が2千250万円の戦災給与金を受けた。一戸に千500円は、生活に苦しむ県人をうるおしたという。

退官後は”消えた沖縄県”に代って県人会活動に力を入れ、故郷のための、とくに復帰運動や渡航問題などに積極的にとり組み、各界から高く評価された。57年6月、91歳で惜しまれて永眠する。□→『やまとの群星/関西に生きる沖縄の県人たち』(琉球新報1987年8月)。


1987年8月 『やまとの群星/関西に生きる沖縄のたち』琉球新報社






1939年7月 沖縄日報、松村実記者を中支・漢口へ特派
1940年1月 石川正通夫妻、来阪

1940年7月29日『沖縄日報』

1940年8月2日『沖縄日報』

1940年8月 関西泡盛販売業組合結成。組合長・嘉手納順吉、副組合長・金城南邦
          金城南邦、戎座で真楽座(大宜見小太郎)興行

この頃  真喜志康忠、来阪
1940年11月 大阪高島屋で「尚順男爵家御所蔵品展観」
1940年12月 宮城桃幸、沖縄県大阪物産斡旋所所長
1941年5月 宮良高夫、毎日新聞大阪本社・社会部(宝塚詰)
1942年4月 仲井眞元楷、琉球歌舞団主宰、戎座で公演
1944年月 大阪港区の浪花劇場で金城南邦一座、仲井眞元楷の琉球歌舞団合同公演  
1945年3月 大阪夜間大空襲ーB29約90機が約7万個の油脂焼夷弾投下で19区の大部分焼失、死者3115人/3月 ニミッツ元帥、海軍軍政府布令第1号(日本政府の沖縄への権限停止)/井伊文子夫妻、彦根に疎開/山口國雄、京都帝国大学法学部卒業

「1945年5月25日、沖縄新報の私たち一行は豊平良顕君、具志堅政冶君(妻子同伴)、前田宗信君に牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一、与儀清三君らが加わって首里城から脱出した。(略)捕虜になるー私の知人で首里第一国民小学校の教頭だった座波嘉永氏が米軍の命令を受けて学校を開いていたので、これさいわいと頼み込んで豊平君を始め牧港、島袋俊一君らを教員に引きとってもらった。(略)沖縄タイムス創刊ー発行日の二日前に上間正諭、牧港篤三、大山一雄、仲本政基、稲嶺盛国、島袋俊一君らは編集の作業をすませた」。高嶺朝光『新聞五十年』(沖縄タイムス社1973年)

1945年10月 比嘉正子、鴻池主婦の会発足させ、主婦の店をつくり消費者運動の草分けとなった
1945年11月 尼崎中学校で尼崎沖縄人連盟結成大会/11月11日、東京丸の内の沖縄県事務所で          沖縄人連盟創立総会/11月26日、中之島公会堂で関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄

1946年1月26日、中央大学講堂で沖縄学生会発足、会長・山川武正、評議員・上地栄、神村朝堅、 金城和彦
      1月28日、関西沖縄人連盟大会(尼崎難波自由市場内)徳田球一を招く。
      2月24日、日本共産党第五回党大会「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」
      3月、『関西沖縄新報』創刊
      4月1日、沖縄人連盟(沖縄大島人連盟)関西本部結成大会。会長・幸地長堅 副会長・翁長義隆、大江三子雄、大山朝繁、宮城清市、屋良朝陳
      4月、関西沖縄青年同盟結成大会。委員長・大湾宗英  顧問格・高安重正  執行部・屋良       朝光、山田義信、高良武勇
      8月4日、沖縄人連盟兵庫県本部結成大会。会長・大山朝繁  副会長・赤嶺嘉栄、安里嗣福、大城清蓮  書記長・上江洲久

空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。

1946年8月 沖縄人連盟兵庫県本部結成大会
1946年9月 大阪毎日会館で帰還惜別沖縄芸能公演ー真境名由康、金武良章、池宮城喜輝ら参加
1947年2月 大阪市文化会館で沖縄青年同盟結成大会

1951年8月 沖縄タイムス西部支局(松村実自宅)/琉球新報関西支局(塩浜政光の自宅)

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1956年9月 『写真で見る日本 第4巻 近畿篇(大阪)』世光社
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布施市/布施駅前/府下最高を示す映画の看板/小阪本通商店街
 
1957年6月 『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯」/10月、『琉球新報』石野朝季「商都に生きる」(儀間比呂志、島晴美、宮城良浚、比嘉正子)
1959年2月 『琉球新報』石野朝季「大阪と那覇あまくま」(スケッチ・儀間比呂志)/沖縄タイムス鹿児島支局の」新川明記者、関西支社の島袋俊一記者と入れ替わり赴任。
1961年8月 津野創一、琉球新報関西支局に赴任


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)
1960年1月 戦後初の大阪からの観光団52名、日航機をチャーターして来沖。団長・徳大寺実篤平安神宮宮司、蜷川虎三京都府知事から兼次那覇市長へのメッセージ朗読

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1961年5月20日 球友会(瑞慶覧長康会長)主催「朝日座公演」

1962年4月 石原昌家、入学で来阪
1966年12月8日『沖縄新報』創刊(編集発行・島袋俊一)

 1963年6月30日の『沖縄タイムス』に「関西の郷土地図」がある。3面にわたっての特集である。関西の住人大いに語るとして翁長良孝(淀川映画興行社長、羽地村出身)、比嘉正子(関西主婦蓮合会会長、首里出身)、宮城清市(大阪沖縄県人連合会会長、羽地村出身)、上江洲久(兵庫沖縄県人会会長、尼崎市会議会副議長、久米島出身)、伊差川寛(大正区沖縄県人会青年会長、大正区生まれ)が座談会に参加している。司会は沖縄タイムス関西支社長の松村実がつとめている。
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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
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1963年11月3日 沖縄顕揚会(砂川一会長)機関紙『顕揚』創刊号

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1966年5月22日『琉球新報』「にぎわう”名古屋の沖縄〝文化展・観光と物産展」

 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。そして10月19日、佐藤首相が所信表明演説の最中の衆議院本会議場で、沖縄青年同盟3人が<沖縄返還協定粉砕>を叫びビラをまいた。これも「基地つき返還」にたいする当然の行為であったが、3人には裁判で前科がついた。今の沖縄の現状は青年たちの危惧したとおりアメリカ軍の無法状態が続いている。その後、沖縄青年たちは「ゆうなの会」を結成、1975年9月、川崎市鶴見区潮田公園で「第1会エイサーの夕べ」(真久田正のアイディア)を開催している。同月、大阪でも「がじゅまるの会」が大正区千島グラウンドで「第1回沖縄の青年の祭り エイサー」が開催された。


1972年5月15日 大阪沖縄県人会連合会主催「沖縄県日本復帰記念式典」大阪西区・厚生年金会館/当時の在阪新聞社の記事○『朝日新聞』「大阪 古典音楽など織り込み式典/兵庫 21日に身分証明書焼捨て」○『日本経済新聞』「黒田了一知事を突き飛ばすー反対叫ぶ 沖青友の会など」○「このあと黒田了一知事は『理想的な復帰ではなく(アメリカ基地付き)、私も複雑な気持ちだが、豊かで明るい平和な沖縄づくりに、みなさんと手をたずさえていきたい』と挨拶して引揚げた。若者たちは『デイゴの会』『沖青友の会』『関西沖縄差別問題研究会』の会員、『基地つきで、いつ戦争にまき込まれるか分からない復帰で行われた日を、歌や踊りで祝うべきではない』」□今のオキナワの現状を見通した青年(現・前期高齢者)たちの当然の行動であった。今はオキナワ現地でも「基地つき復帰」したことに不満を持つ若者も増え「独立」を唱えるものが増えている

 『石の声』10号を出して休刊した。この頃から、それぞれが結婚し、子育てに忙しく沖青友の会も役目を終える。1975年1月26日に、新たな関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」(会長・玉城利則)発足。大阪沖縄会館での発会式には、青年会のOBということで私も参加した。9月には機関誌『がじゅまる』が創刊された。歴史はくりかえかえすという事であろうか。

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1982年7月 川上三郎『人生到るところ青山あり』関西図書出版/1986年2月19日 大阪『毎日新聞』「サムじいさんー川上三郎」

1983年2月 大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加

1984年4月 大城真栄『私の役員生活五十年』あゆみ写植印刷

1989年6月ー宮城清市『回想録 八十余年の歩み』

1991年3月 『大阪春秋』第63号<特集 港区・大正区> □西口忠「大阪と沖縄」

 1994年に出た国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』の最初のところに守礼門の写真がある。それとシーサーと那覇の大綱引きの写真もある。1986年1月から「ヤマトに生きる・東京沖縄県人会」のタイトルで『沖縄タイムス』に連載したものを補筆加正したものが本書である。東京沖縄県人会の機関紙『おきなわの声』のところに「4面は投稿されてくるエッセー、詩、和歌・琉歌などが中心。新年号は珍しくそれが少なく、『県がこども未来館を計画』『西表開発友の会が記念誌発行』と自主取材もの。また大阪の沖縄関係資料室を支えた新城栄徳(在大阪)が『琉文手帖』を3号まで発行した、と近況を伝えている。月刊『おきなわの声』の創刊は1979(昭和54)年12月10日で、紙名も『東京沖縄の人』(城間得栄編集長)だった。いまの紙名に改称したのは1981年10月である」と記している。

 この沖縄タイムスの連載は大阪でも1987年から「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」として連載された。担当は沖縄タイムス関西支社の幸地建一記者で、私も島晴美さんを紹介、大正区などには同行した。連載の27回目が大正区①で沖縄そばやの小橋川豊正・幸子夫妻らが紹介されて「現在の大正区は那覇より風情があるのではないか」との感想も。

大正区②は本部出身の平岡行秀三味線製作の大湾政一、三味線弾きの名手の金城清範、仲村昇の諸氏が登場。大正区③はユタも健在と山下ヨシエ、仲里トミ子が紹介されている。琉舞の大城豊子(私の妻の師匠である)、野村流古典音楽保存会関西支部長の与那嶺福松、関西を代表する琉舞の金城康子、玉城義隆、空手の福元英吉の諸氏が紹介された。④には関西沖縄文庫、大正区沖縄会館が紹介されている。⑤は大城真栄、新城重光、渡慶次恒徳、仲尾清の諸氏が登場しているが、仲尾以外は私は皆会っている。

1999年12月 宇多滋樹『豚の神さまー渡慶次恒徳の半生』

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1966年12月ー神山邦彦『辻情史』神山青巧舎
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神山邦彦(久米蔡氏1894年~1977年)/著書


1930年12月ー喜納緑淳・津嘉山栄興画『沖縄童話第一編・犬と猫』印刷・神山青巧堂

1984年3月 沖縄の雑誌『青い海』130号 「カラーグラビア/ジュリ馬まつり」


□1970年11月 有川董重『歓楽郷 辻情話史集』沖縄郷土文化研究会
□1971年8月4日『沖縄タイムス』阿波根朝松「『辻の今昔』と著者」





2012年1月6日~2月29日 那覇市歴史博物館「辻の歴史と文化~料理・芸能・エトセトラ~」


2013-8『戦前の沖縄観光~ディスカバー・オキナワ~』
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辻遊廓
戦前の沖縄観光において辻遊廓は重要な役割を担っていました。昼間、県内各地の観光名所を巡ったあと、夜は辻にて料理や舞踊を楽しみました。名所旧跡以外の観光スポットが少ない当時、辻が料理・音楽・舞踊といった沖縄文化の提供地となっていました。また、観光パンフレットやお土産用の絵ハガキに辻の女性の起用や、「那覇飛行場開き」といったイベントで辻の「美妓」によって、出店の飲食物が来場者に振舞われることもありました。当時の辻の女性は現在でいう観光キャンペーンガールの役割を果たしていました。

2014年2月18日~5月11日 沖縄県立博物館・美術館「三線のチカラー形の美と音の妙ー」
□三線をひくジュリの絵も展示されている。

沖縄の文化表象に見るジュリ(遊女)の諸相
場所:沖縄県立博物館・美術館
日時:2014年3月8日(土) 14:00-18:30






2014年3月17日『沖縄タイムス』崎原綾乃「唐獅子ー遊郭」

1947年12月 柳田國男編『沖縄文化叢説』中央公論社には編纂者の言葉を柳田國男が「比嘉春潮・島袋源七の二君は、最初からの援助者であった。と云はうよりも私は寧ろこの二人の沖縄衆によって、動かされたやうな気持ちである。各篇の配列は大体に筆者の年齢順によることにして見た。但し終りの両君だけは、それ程に年が若くはないのである。」と記している。また柳田國男は「尾類考」を執筆「見やうによっては婚姻制の進歩であるが、その為に女の地位の又少し悪くなったまでは否むことが出来ない。是に対して他の一方の自由な女、幾度もツレアヒをかへて活きて行く者は、近畿地方ではジダラクといひ、隠岐の島などではタマダレ者又はドウラク者とも言って居たが、それもぢっとはして居ないで、新たに基礎を作り又組織を設けようとしたのである。我々の如く旧い一方の世界に住む者には、其當否を批判する力も無いが、是が幾つかの面白くないことの原因になって居ることだけは確かなやうである。だから改めて原因に遡って、もう一度詳しく知る必要があるわけで、斯んな疑問にすら答へられぬやうだったら、實は文化史などは尊敬するにも足らぬのである。(22,1,7)」と述べている。関連して柳田は『南島旅行見聞記』(1921年1月)でも「地方小説の舞台 那覇には日刊四つあり。文学好きの青年多く之に参与せり。/渡地と思案橋 渡地中島の二遊郭は十数年前に廃せられ、今は辻一箇所となる。中島は停車場辺、渡地は旧宅存す。思案橋のありし地は久しき以前埋立てられ、今通堂より西本町に入る大通なり。県庁はもとこの此近くに在りき。在番屋敷」と尾類(ジュリ)の居る辻などにふれている。

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1949年9月 渡嘉敷唯錦『琉球辻情話』銀嶺閣

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1953年 沖縄芸能使節団「琉球国劇公演」(第八回文部省芸術祭参加)

第1回沖縄芸能使節団東京上演打合会ー左から山城善光、比嘉春潮、比嘉良篤、陳而松、山之口貘、南風原朝光、本田安次、田辺尚雄、東恩納寛惇、仲原善忠

1962年3月 本田安次『南島採訪記ー沖縄の信仰と藝能』明善堂書店

上・辻のお嶽 下・淋れた辻遊廓あと
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1970年2月 『新しい日本 九州③』国際情報社 本田安次「沖縄の芸能」

本田安次 ほんだ-やすじ
1906-2001 昭和-平成時代の民俗芸能史学者。
明治39年3月18日生まれ。宮城県石巻中学教諭時代に東北地方の山伏神楽を知る。のち全国調査により民俗芸能の体系的研究をおこなう。昭和35年早大教授。49年「日本の民俗芸能」で芸術選奨。平成7年文化功労者。平成13年2月19日死去。94歳。福島県出身。早大卒。著作に「能及狂言考」「沖縄の祭りと芸能」など。→コトバンク






(翁長良明コレクション)

1953年11月17日『琉球新報』「芸能団きのう出発ー誇り高い郷土芸術公演」
      11月22日『琉球新報』「平和を招く地蔵尊ー旭ヶ岡できのう除幕式」「名幸氏大僧正にー寺院も大本山に昇格」
      11月29日『琉球新報』名嘉地宗直「手水之縁」連載
      12月6日『琉球新報』東恩納寛惇「琉球芸能東京公演感想」連載
      12月7日『琉球新報』「芸能祭トピックス」(写真)
      12月11日『琉球新報』「琉球芸能の饗宴ー大阪公演超満員の盛況」

1954年6月8日 『琉球新報』「あの頃この頃ー辻町ー料亭松華ー宮平ツルさん/松の下ー上原えい子さん」
1954年6月26日『琉球新報』「あの頃この頃ー料亭ー元風月芸者おもちゃ姐さん/松華楼ー宮平敏子さん」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
我如古弥栄(1881年~1943年9月2日)
首里生まれ、仲毛芝居をへて、劇団全盛時代にかかり、1911年、沖縄座で歌劇「泊阿嘉」を初演。その後「八重山行き」「貞女と孝子」「情無情」「普天間権現」「黄色うらんさん」などの歌劇を残した。ハワイ、南洋にも巡業。(大城立裕)

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中央ー我如古弥栄

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1931年 ハワイから帰った我如古弥栄一行

1949年6月 『芝居と映画』6月号□芝居狂言作者年表
我如古弥栄
明治42年2月 泊阿嘉

娘の我如古安子

1962年7月 『芸能マガジン』「人物クローズアップー我如古安子さんの若き日を偲ぶ」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2007年10月、第4回沖縄コレクター友の会合同展示会が9月25日から10月7日まで西原町立図書館で開かれた。会員の照屋重雄コレクションの英字検閲印ハガキが『沖縄タイムス』の9月29日に報道され新たに宮川スミ子さんの集団自決証言も報道された。10月4日の衆院本会議で照屋寛徳議員が宮川証言を紹介していた。重雄氏は前にも琉球処分官の書簡で新聞で話題になったことがある。

照屋重雄さん

合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。

 ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。

 同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

  2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。

 2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。

 2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。

 沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。

 2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。

 沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。

 那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
パンチボウルの丘(国立太平洋記念墓地)ー7万5千年から10万年前の火山活動によって形成された高台のクレーター、パンチボウルは、古代ハワイで「Puowaina(犠牲の丘)」と呼ばれていました。タブーを犯した罪人をいけにえとしてハワイ古代宗教の神に捧げる祭壇が高台に置かれていたのです。国立太平洋記念墓地としてオープンしたのは1949年。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で母国のために自らを「犠牲」にした4万6千以上の兵士が眠る丘となりました。。→ハワイナビ/アーニー”アーネスト・テイラー・パイル(Ernest Taylor "Ernie" Pyle, 1900年8月3日 - 1945年4月18日伊江島で戦死)は、アメリカ合衆国のジャーナリストやショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 - 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。の墓石。

1949年12月  セブンスデーの屋比久孟吉は平信徒でありながら華府本部から特別伝道者の任命を受けて伝道者の資格で沖縄へ赴くことになった。

1950年12月  慈光園教団発足ー顧問・小波津幸秀、上原与吉 相談役・伊芸長吉、村岡敏恵、桜田漸、福本元蔵、伊波幸繁、大嶺発市、仲真良樽金、宮城栄吉、大兼久秀一、石川元真、大城太郎、宜野座太郎、伊佐松 名誉教団長・・・与世盛智郎 教団長・山里慈海 理事長・宮里平昌 副・瑞慶覧智珍、仲嶺真助 書記・神谷益栄、上地安宏 会計・真喜志康輝、豊見里友義、監査・宮城麗栄、高良牛、宮城亀盛

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』
1951年2月 乙姫劇団が来布公演

1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>



1951年3月 雑誌『おきなわ』湧川清栄「布哇沖縄人五十年史抄」」
1951年3月 雑誌『おきなわ』大城登美「見たり聞いたり味はったり」

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1951年10月 山里慈海『居士は春風』/1953年3月 玉代勢法雲『遠慶宿縁』


クラ放送局沖縄文化放送部デイゴメロデー/左から大城とみ子、津波實重、山川喜信→1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』

1951年3月 遣米第二回国民指導員来布□志喜屋孝信、大城つる、城間政善、上江洲由道、渡口政義、永山盛三郎、当銘正順、上間亀政、翁長俊郎、大嶺政寛、名渡山愛順、松岡政保、中江実孝、屋田甚助、森敬道、林哲雄、財部つさえ 名渡山愛順「私は終戦後、青年将校の肖像画を五百枚以上も画きました。20数点持参してニューヨークで展覧会を開きますが出来たら帰路にハワイでも開き、又ハワイのカラーも描いて見たいと願っています。」
1951年6月 東京大阪合同琉球芸能団一行8名は渡口政善、金城常盛、上江洲安雄、安谷屋政信の招聘で来布□渡嘉敷守良(我如古安子の叔父)、池宮城喜輝、奥間英五郎、奥間清子、佐久間昌子、渡嘉敷信子、渡嘉敷利秋、島正太郎
1951年6月 南加大学の招聘で琉球音楽を講義しに行く東京沖縄音楽舞踊研究会会長の山内盛彬はツル夫人同伴寄港。
1951年7月 宮里辰彦(第三回沖縄国民指導員)ホノルル郊外ヒッカム飛行場着。此の飛行場は例の日本軍の真珠湾攻撃の際、真っ先に叩かれた所である。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記

1951年8月 ハワイ沖縄連合会発足(理事長・儀間真福)
1953年2月  慈光園で柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチ講演会「琉球文化を語る」。沖縄紹介映画、幻燈などがあった。
1953年12月 雑誌『おきなわ』№33「ハワイのうつりを語る座談会」
出席者ー平良牛助、玉代勢法雲、比嘉静観、小波津幸秀、金城珍栄、山里慈海、天願保永(おきなわ布晆支局長)

1954年4月  平良リエ子来布/5月 安谷屋政量・琉球工業連合会長「ハワイ第四十九州共進会」に参加で来布。慈光園で「琉球特産品展示会」、6月からハワイ各島で展示する。/12月 金井喜久子来布

1954年4月 雑誌『おきなわ』「ハワイ同胞事業家座談会ー慈光園ホール」
出席者ー仲宗根蒲助(越来)、天願加那(具志川)、上原正義(本部)、伊芸良吉(宜野座)、仲嶺真助(与那原)、山里慈海(久米島)、天願保永(具志川)、平真輔(石川)、長堂嘉吉(真和志)、島袋萬吉、速記ー津嘉山朝吉、瀬長清吉

       
上原正義(エバーグリン・レストラン社長)            天願保永(ハワイ沖縄人連合会)

      
儀間真福(ハワイ沖縄人連合会)                沢岻千恵子(名護市出身)

      
安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会)               上江洲智綸


右ー池宮喜輝送別演芸の夕に開演を宣する司会者の仲嶺眞助、ドクトル上原與吉(ホノルル1952年)


布哇ホノルルに於ける三味線祭 焼香する池宮喜輝、左が開教師の山里慈海(1952年2月)

馬哇島ワイルクに於ける三味線展と池宮喜輝(1952年4月)
1954年7月 池宮喜輝『琉球三味線寶鑑』東京沖縄芸能保存会(比嘉良篤)

1955年5月 玉代勢法雲(マッカリー東本願寺住職)逝去/8月 写真業の屋比久孟吉は1953年3月、訪沖し那覇市崇元寺近くにベストソーダ合資会社創立したが、ニューヨーク市に機械購入の途次寄港。/8月 日航機で根路銘房子来布。イオラニ高校で開催の聖公会大会に参加で川平朝申来布。/11月 大浜信泉、国際大学連盟会議出席の後、欧米視察を経てパンナム機で来布、夫人英子は目下アメリカ国務省の招聘でアメリカ滞在中。/12月 高原芳子結婚来布。
1956年4月 ビショップ博物館で初の「琉球古典文化展」。/6月 大伸座長期興行。/8月 MGM社の「八月十五夜の茶屋」の撮影は大成功、同劇に出演して帰国の途にある大映スター根上淳、清川虹子および沢村みち子らの土産話にあったが、芸者(京マチ子)が沖縄舞踊を踊るとき地方になって蛇皮線を弾いた内間ハル子は儀間真福の妹。



12月 比嘉悦雄はペプシコーラ日本総販売権を獲得し、日本政府の認可で日本飲料株式会社創立。

1958年11月 真境名由康父娘来布
1959年1月 『守礼の光』創刊号(表紙・崎山さん)「写真ー守礼門」、納富浪連子「原子力を平和へ」

1959年6月 ヒロ市の浦崎政致の息子・政一は18ヶ月ぶりで両親見舞いで帰布、1945年8月28日、情報本部附民間人、そしてアメリカ人として最初に東京に入って通訳。琴に東条大将とは死せし約一ヶ月半寝食を共にし世話したので大将から軍服を貰った。
1961年2月 『オキナワグラフ』「沖縄へのアドバイスーホノルル夏の家快談」出席者ー当山哲夫(月刊「市民」社長)、仲嶺真助(2002年7月『仲嶺真助自伝』新報出版)、上原正治(エバーグリン・レストラン社長)、ワーレン比嘉(中央太平洋銀行モイリリ支店長)、安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会顧問)、コンラッド赤嶺(元ホノルル日本人青年商工会頭)
1961年3月 『守礼の光』「姉妹都市ー那覇とホノルル」


フランク・ホーレー資料

1961年4月 「ホーレー文庫」が布大の手に入り、東西文化センター内に「沖縄文庫」を開設し陳列された。/5月 仲原善忠、比嘉春潮来布
1961年6月 『守礼の光』「東西両文化の新しいかけ橋ーハワイ大学東西文化センター」
1961年8月4日 オバマ・バラク・、ハワイ州ホノルルにある病院(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。→ウィキペディア
1962年5月 『守礼の光』「立法院議員ハワイを見るーキャラウエイ高等弁務官のあっせんにより、琉球立法院議員の当銘由憲氏、嘉陽宗一氏、真栄城徳松氏、平良幸市氏の一行4人は、このほど6週間にわたり、とこ夏の国ハワイをおとずれました。」
1962年6月 『守礼の光』「ハワイに学ぶ営農の近代化」
1962年6月 宇良啓子がラジオKTRG局より電波に乗せて「沖縄貴族階級の方言で小咄を創作して」放送。

1962年7月 『守礼の光』「ハワイ同胞の警告『あわてて復帰は損』ーハワイ島のヒロ市で、内科と外科の開業医をしているマタヨシ・ゼンコウ博士は、琉球の古い友人や親類の人たちに会うため、このほど23年ぶりに、琉球をおとずれました。」/ヘンリー・ナカソネ(ハワイ大学付属農業試験場)「琉球の園芸の現状と可能性(1)」
1962年10月 『守礼の光』外間政章「1854年に結ばれた琉米条約

1963年 東京ー金城珍栄を囲んで、右から比嘉春潮、比嘉良篤、瀬長良直、當間重剛、金城珍栄、島清、仲原善忠

1963年5月 仲嶺真助、日本人連合協会会長に選出。/10月 琉球国民党総裁の大宜味朝徳は米軍用機で来布。

1963年7月 国際興行の小佐野賢治、ハワイのプリンセス・カイウラニ・ホテル買収□12月、モアナ、サーフライダー2ホテル買収/1974年9月 ワイキキ・シェラトン、マウイ・シェラトン、ロイヤル・ハワイアン3ホテル買収

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。


 瀬長亀次郎は戦後も沖縄人民党行事としてこの碑(人民解放戦士真栄田一郎君に捧ぐ)の前に集い団結を誓った。瀬長亀次郎「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」→1991年8月『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社
 
1954年6月 沖縄県学生会編『祖國なき沖縄』日月社
ーなちかしや沖縄戦さ場になとて 世間おまん人(ちゅ)ぬ流す泪ー この本を祖国日本と沖縄の同胞に捧ぐ

写真ー米軍家族住宅(ずけらん)/日本復帰活動の帰省学生の宣伝隊/これが今なお各地にある小学校校舎である。/第一号線軍用道路/平和を訴える琉球大学生、これがいわゆる琉大事件の発端となった/踏みにじられた稲田に乱立する鉄塔、農民達の訴えをよそに/琉球列島米国民政府長官オグデン少将と握手する琉球政府比嘉任命主席/見るかげもなく破壊された首里高校(旧沖縄一中)/無残にも破壊されたままになっている旧那覇市の廃墟。前方に見える鳥居は波の上神社跡。
悲憤の島オキナワの記録・・・・中野好夫
○あらゆる意味において、オキナワは日本の縮図だとは、オキナワから帰ったすべての人の口から、わたしの直接聞いた言葉である。物質的生活の極度の困難から、やむなく精神的荒廃にまで追い込まれてゆく大多数の庶民、それらの犠牲の上にのっかって私腹を肥やす一部少数の追随的権力盲者、利権屋、享楽業者、そしてまた火事場稼ぎ組の渡来日本人、-まさしくこれは日本の縮図でなければならぬ。(略)わたしは本書にあって、一人でも多くの日本人が、悲しみの島オキナワの実情と、その県民の熱望とを、自分たちの問題として知ってくれることを、もう一度あらためて心から祈る。
郷土愛の結晶・・・・・・・神山政良・沖縄諸島祖国復帰促進協議会会長
善意の記録として・・・・沖縄県学生会
○またこの書の刊行に多大な支援を寄せられた宮城聰、神山政良、比嘉春潮、金城朝永の諸先生に感謝いたします。殊に金城先生には玉稿をいただいてお礼申し上げます。なお、この書の監修に当たられた新日本文学会員の霜多正次兄、同じく当間嗣光兄、それに城間得栄兄に感謝します。殊に当間兄には終始御尽力を煩わしました。
第一部
拳銃におののく村/百鬼夜行/琉球王国を夢みる人たち/ひき殺された二少年/琉球古文化財の行方/帰省学生の日記/沖縄の子供たち/売春の町/沖縄基地図/海なき海人
第二部
土地なき民/労働者と労働組合/ドルとB円経済のからくり/琉球大学事件/日本復帰への道
島の歩み(琉球の歴史と文化)・・・・・・金城朝永
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当間嗣光
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1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」
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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子
 
『沖縄年鑑』「文化・絵画ー儀間比呂志 第三回個展は5月16日から三日間タイムスホールでひらかれた」/1961年8月『琉球のあゆみ』 

1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」

1965年12月『沖縄春秋』「去る22日正午、 カメラマン岡村昭彦氏が本社を訪れ、およそ1時間にわたって(大城宗憲と)懇談した。」
1968年11月 東京沖縄県学生会『祖国なき沖縄』太平出版社
○沖縄百万同胞の苦悩の歴史を知るためにー『祖国なき沖縄』の再刊にあたって・・・・・・・中野好夫
○悲憤の島オキナワの記録ー初版序文・・・・・・・・・中野好夫
○売春の街ー女中からパンパンへ/悪魔のような仲介人/借金のある女が使いやすい/収入は半分わけ/妻はパンパン/夫は居候/パンパン街を育てるもの
○解題『祖国なき沖縄』以後の14年…・・・新里恵二
○『祖国なき沖縄』の再刊にあたってー初版の監修者として…・・・・当間嗣光
○即時祖国復帰をたたかいとるためにーあとがきに代えて・・・東京沖縄県学生会

1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      2月『月刊タウン』「岡村昭彦ヒューマン報告 №2ハワイ 観光地の裏側」
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 
      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」 
      
       1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社


      12月・3日『毎日グラフ』笠原友和「東京から飛んで3時間だが遠のく島」
    1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」

1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)

伊波廣定氏と新城栄徳

1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      
 
1970年7月『アサヒグラフ』「被爆直後の広島・長崎」(山端庸介撮影)山端庸介 1936年 - 法政大学中退。父が経営するジーチーサン商会(サン商会を改称)にカメラマンとして就職。ジーチーサン商会は戦時中に山端写真科学研究所(□1943年ー????宮城昇も勤めた)と改称。1943年に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦にともない解散。(→ウィキペディア)
     8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 


 1970年5月8日 写真家・杉山吉良来沖/1977年 杉山吉良『讃歌Ⅱ』
1971年

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」
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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」
      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」
1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫


 
1972年 1月1日 『人民』 沖縄県民のみなさん 1972年 あけましておめでとうございますー蜷川虎三京都府知事・黒田了一①大阪府知事・美濃部亮吉東京都知事」  
      1月22日『人民』 山田英盛「戦前の社会運動ー本のなかに『赤旗』が」
      2月5日 『人民』 国吉真哲「戦前の社会運動」
 
1972年5月 『歴史地理教育』№196<特集・沖縄県に学ぶ>儀部景俊「これからの沖縄問題」、金城正篤「沖縄史のとらえ方」、田港朝昭「沖縄学習の意味」、金城弘子「沖縄の子どもたち」、西里喜行「近代沖縄の歴史と差別問題」、来間泰男「沖縄に関する文献案内」/早乙女勝元「東京大空襲と紀元節」

1072年7月 日本民主青年同盟『青いしぶき』小渡清孝「発刊にあたって」

写真ー中列左から小渡清孝氏、→阿里山森林鉄道/沖縄人民党中央委員会書記局『沖縄基地の実態と機能』
1973
       1月27日 『人民』「話題の人ー竹田秀輝さん」
       4月7日 『人民』 「沖縄人民党第17回党大会の成功に期待する」

1973年6月 永田久光『赤旗戦略』講談社

右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


『人民』1973年4月7日「科学的社会主義の党への発展をめざす」/『人民』1974年1月1日「炎の街」(題字・仲松庸全)作・源河朝良 さし絵・青山恵昭


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」
☆私が写真機を手にするようになったのは息子が誕生(1974年)したときで、成長ぶりを記録しょうと住吉大社近くのカメラ屋さんで中古のオリンパス一眼レフカメラを購入したのが最初である。
1974年11月20日~25日 那覇・八汐荘「写真学校WORKSHOPin沖縄」 

1976年『中央公論』12月号 濱谷浩「昭和女人集ー玉城美千代(大城政子琉舞道場)/大宜味静子(小太郎夫人)/糸数カメと愛弟子の仲宗根玲子/島袋光史と高良ベテイ/久高恵子(民謡クラブ)/エイサー謝苅青年会/カチャシーの与那城カナ(82)/藤村玲子紅型工房での玉那覇弘美、伊佐静子、堀川文子/宮平初子染織工房の具志堅清子/新垣栄三郎の妹・菊/吹硝子の宮城嗣俊夫人・静子/菓子天ぷら揚げの照屋林徳夫人・千代/市場の女性たち/市場の一角の化粧品店/守礼門前の宜保清美/東京コンパの武美、アキ/コンパバブロの絹江/那覇まつり・第一回ミス那覇選出大会/国際通りを口笛を吹いて歩く老女/斎場御嶽の中村美津」(敬称略)同誌には上原栄子「辻(くるわ)の女たち」も載っている。」

1978年6月『オキナワグラフ』「6月1日・写真の日/7人のカメラマン」

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会



1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社/1979年2月 『戦後沖縄写真集 0ゼロからの時代』那覇出版社

☆1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


1983年10月 『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和10年代』新星図書

1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

1984年8月『島空間からー1984年・沖縄・反核・反戦文学アンソロジー』沖縄・文学を通して反核反戦を考える集い(編集委員・あしみねえいいち,大湾雅常,国吉真哲,新城太石,芝憲子,瀬底月城,知念清栄,知念光男,仲松庸全,牧港篤三,安嶋涼人/編集委員会事務局・加勢俊夫,来間富男,芝憲子,富山嘉泰,宮城義弘)
〇私たちの、日常の営為は、それは本来的に単なる日常でしかありません。しかし、今や私たちは核時代に生きています。「破滅か、救済か、何とも知れぬ未来に向かって人類は邁進して行く」(峠三吉)こうした日常は、解き放つことのできない矛盾と無力感に掩われています。
 いまから40年前、沖縄であった戦争の影を背負っている者にとってはなおさらのことです。
 文学をする私たちにとって本来的には、もはやこうした虚構の中では、文学行為を半ば喪っているかも知れません。なぜ考え且つ書き、創るのか、誰に向かって何を伝え、そして言おうとしているのか。私たちの自由を奪い、個人の死をも無意味にする突然の大量死、ぢりぢりと用意されていく戦争をフィクションの世界に押し込めてよいものでしょうか。
 米ソの核軍拡競争の谷間で、核攻撃指令機能をもつ米軍基地をかかえる沖縄は、日本でもっとも危険な地域だといってもよいと思います。自衛隊の演習もエスカレートしています。沖縄戦の苦い体験をもち、今もこのような現状の地で、文学にたずさわる私たちは、私たちの仕事を通じて、平和へのねがいを訴えたいと思います。芸術家だからといって、目をつぶってはいられない危機的な時期にきていると思います。過去の15年戦争時代、多くの詩人、歌人、俳人、作家らは、時代に流され、戦争を讃美するような戦争協力の作品を書きました。私たちは、あの過ちをくり返したくはありません。「殺されるときはいっしょ」という、戦争のような強大な動きに対しては、芸術分野でも、個々人の力を合わせないと対抗できないと思います。個々人がテーマも題材も全く自由に創作し、それらを「反核反戦」のタイトルのもとに、ここにアンソロジー『島空間から』を出版致しました。                   1984年8月15日


『コミックおきなわ』1987年に創刊された沖縄初の月刊まんが雑誌。B5判、約200ページ。第23号より隔月刊。90年の第30号の後休刊。新里堅進、田名俊信、大城ゆか等、県内20人余のまんが家の作品を掲載する他、新人も発掘した。

1980年3月 那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ』


那覇出版社1990年3月 『写真集 沖縄戦』/1984年9月『写真集 沖縄●失われた文化財と風俗』 /1986年5月『写真集 沖縄戦後史』


1985年1月21日『沖縄タイムス』
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1985年ー那覇市役所にて写真中央・親泊那覇市長、その右・秋山庄太郎、新垣典子、右端・山田實
1985年5月 『政界往来』小板橋二郎「激写で勝負する『フォーカス』と『フライデー』の完全比較」

1985年11月 『沖縄人民党の歴史』日本共産党沖縄県委員会

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2013年3月 前泊博盛・編『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社

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1936年1月5日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー七島の荒波くぐり①薩藩へ海上伝令 活躍した”琉球飛船„」
1936年1月8日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”帳面と矢立„で語学の交換教授③愛嬌者の眞榮平」
1936年1月9日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”捧げ銃„の敬禮下にぺルリ堂々入城④嘉永6年 黒船來琉す」
1936年1月11日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー関番所設けて 佛人の出入監視⑥米艦去り佛艦來琉」
1936年1月12日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー斉彬公渡琉藩士に軍艦購入の密令⑦密使市来の苦心」
1936年1月14日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー突如、斉彬公薨去で軍艦購入を中止⑧契約解除で芝居」
1936年1月15日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話-琉球側の薩摩党頻りに投獄さる 斉彬の壮図遂に空し」









1936年8月15日『改訂版 日本地理風俗大系 九州地方』誠文堂 新光社(小川菊松)

1936年9月29日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「糸満人は果して異人種か」
1936年9月30日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「久高島の奇習 午年に貞操試験」(写真ー久高島に残る原始的な風葬)」
1936年10月4日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「哀切胸を打つ 与那国島の民謡」

1936年10月23日『琉球新報』喜屋武眞榮(女師附属)「新体操要目と運動会(1)」

1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄(當間諭)・文、西條寛・絵「首里風景ー辨ケ岳/与那原街道を右に、大空につ立ってゐる無電の鉄塔を左に、蝙蝠形に腰を据へて、翠緑に煙る霊嶽!辨ケ岳は首里八景中の筆頭にして、霊地久高島の遥拝所である。舊の八、九月は首里人を始め各郡村から参詣者が、バス車庫の後方から敷き詰められたダラダラ坂を上に下りし、賑やかである。嶽頂よりの眺望は碧海あり連峰あり、眼下 傾斜して広かる西原の画板は素晴らしい」

當間諭さんを検索したら『新旧対照暦』の著者というだけである。その著(1976年)に多和田眞淳氏が「この際、當間君に御願いしたいことは、君の新旧対照暦を駆使し、君の多年蓄積したメモ帳のチツを解き放して、最も我が琉球史の壷所をついた、最も簡明な『袖珍琉球史年表』とでも名づけられる、何時でも何処でも迅速に間に合い、真に役立つような『ポケット年表』を編集してもらいたいことである。」とポケット版の琉球史年表を出されることを當間さんに勧めている。

手元にある當間諭さんの年賀状を出してみると、1979年は大阪市住之江区、1980年、82年は大阪の沖縄関係資料室の西平守晴方になっている。83年から那覇市泊が受け取った住所となっている。『沖縄タイムス』の83年4月に「孫と遊ぶ」、86年10月には「新聞から人物を記録」が記事となっている。當間さんがお元気なころ、よくご自宅を訪ねいろいろな話を聴くのがすきであった。人を指すとき「やっこさん」が口癖であった。書斎には新聞の死亡広告のスクラップ帳が所狭しと並んでいた。
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2004年元旦の『日本経済新聞』に「春秋ーイスラムのヒジュラ暦など太陰暦のほか、さまざまな民族や集団のなかに生き続けてきた西暦と異なる時間を壊して地ならしをしていったのは、鉄道や学校といった仕組みである。情報化の進展がそれをさらに進めて古い時間が失われてゆくのが今世紀だとすれば、何気ない新春の眺めもいとおしくみえる」とある。今は『ポケット年表』も時代遅れとなり携帯電話でカバー出来る時代となった。
1936年12月19日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描①崇元寺」
1936年12月20日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描②首里王城」
1936年12月22日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描③那覇の埠頭」
1936年12月23日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描④赤い屋根」
1936年12月24日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑤泉崎橋」
1936年12月25日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑥萬座毛」
1936年12月26日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑦鹽屋灣」
1936年12月27日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑧海辺の福木」

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かつての京都沖縄青年会同志・中根修氏







右が当真嗣一氏(『沖縄のグスクめぐり』当真嗣一監修、2001年、むぎ社)と西村貞雄氏

1976年3月 沖縄の雑誌『青い海』51号 当真嗣一「本部の貝塚時代とその周辺」



□2013年7月12日『週刊金曜日』島田健弘「頻発するメディア幹部と安倍首相の会食・会談ー記者の筆がにぶらないわけがない」で示されるようにネットでは「NHKマスゴミ」「ネトウヨ 百田尚樹」「ワタミ ブラック」などが飛び交っている。その中で「嫌中・嫌韓」は「在日人脈と安倍」とも絡んで目立っている。こういったものは匿名なので信頼性に疑問があるが「マンガ」「タレントグラビア」と同様に読み捨てのものと考えてよい。2014年5月『琉球新報』「岐路の憲法ーかすみゆく未来図」に雑誌が「嫌中・嫌韓」特集が目立ってきたという。その中で「タブーに切り込む」が売りの月刊『宝島』が世の雑誌の嫌韓特集に遅れ馳せながら昨年メーン特集で「嫌韓」を組み売り上げを伸ばしているという。ますます新聞雑誌が消える未来図がたち現れてくる。

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1928年11月 エグ・オグニヨフ著/饒平名智太郎・訳『ソウェート学生の日記』世界社
1928年11月『中央公論』饒平名智太郎「出版会のリーダー四人男 講談社の野間氏、改造社の山本氏、新潮社の佐藤氏、平凡社の下中氏其の人と事業の短評。 野間氏は僕の中学時代の国語の先生だ。其頃の野間氏は快活な放胆な、教育者といふよりは一個の遊子ローマンテイストだった。国語の時間に、よく八犬伝を聞かせてくれたものだ。氏の放蕩は、学生の間にも知れ亘っていたから余程遊んだものらしい。それの快打策として当時の中学校長だった大久保氏に世話して貰ったのが、今の野間夫人だ。(以下略)」
1929年7月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第一輯』世界社
1929年11月 饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第二輯』世界社

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
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「二十日正月踊」のジオラマ

1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」

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1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社 高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。

〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」


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1908年9月ー愼氏我部家7代目・我部政榮葬儀/1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)


1955年7月1日『琉球新報』我部政達「本土に散在する郷土文化財について」
 1973年3月ー『琉球の文化』第三号<特集・琉球の伝統玩具/琉球の塗物>□琉球文化社〒902那覇市安里425丸清ビル2階/コザ支社(城間喜宏)/関西支局(沖縄関係資料室・新城栄徳)/神奈川出張所(平良秀夫)


<50年前の琉球の玩具>我部政達が1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」に出品したもの。

特集Ⅱ・琉球の漆器
  琉球漆器考(再録)ー石沢兵吾
  文献にみる琉球漆器の古さー山里永吉
  漆に魅せられてー前田孝允
  琉球独得の漆芸「堆錦」についてー編集部
  沖縄漆工芸の現状と将来を考えるー伊差川新
  沖縄の漆器素材と漆料の問題ー多和田眞淳
  琉球の漆工芸・郷土玩具に関する文献ー新城安善 
  現代沖縄の工芸家ー漆芸家・前田孝允さん


左のカラー図は、崎山嗣昌「闘鶏」/古倉保文「首振りトラ」、


1974年9月 『月刊 歴史手帖』名著出版「地方史雑誌・文献目録ー◇琉球の文化 第三号」

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
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「二十日正月踊」のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」



山田真山・住所変遷
山田泰雲君は元篆刻てんこく師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許しを得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。→青空文庫/高村光雲「幕末維新懐古談・その後の弟子の事」
1916年   東京府下日暮里谷中本1017
□石野瑛『南島の自然と人』表紙・山田真山画「オメントー」
1918年   東京市下谷区三崎南町60
1929年   東京市外井萩町上荻窪963
□2001年3月『新生美術』山田博「具志堅(聖児)先生の思い出」
□真山家族ー妻・博子(小堀鞆音の娘)、長男・真、次男・博、長女・栄子、3男・光三
小堀鞆音 こぼり-ともと
1864-1931 明治-昭和時代前期の日本画家。
文久4年2月19日生まれ。川崎千虎(ちとら)にまなび,歴史画を得意とした。明治31年日本美術院の創立に参加。41年東京美術学校(現東京芸大)教授。大正8年帝国美術院会員。門下に安田靫彦(ゆきひこ),川崎小虎(しょうこ)ら。昭和6年10月1日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。旧姓は須藤。本名は桂三郎(けいざぶろう)。作品に「宇治橋合戦」「武士」など。(→コトバンク)
1937年   名古屋市中区米野町居屋敷52

1937年7月18日『琉球新報』「工房を開放し太田翁の胸像 本日、一般へ観覧さす」
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山田真山、太田朝敷像制作
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比島移民翁・大城孝蔵立像
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先月、芸大の小林純子准教授研究室に遊びに行くと山田真山資料がまとまってあった。沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館には真山の下絵、スケッチ、平和祈念像の構想図が、1986年に遺族から寄贈された。今回、その整理が終わったので報告を書いているのだと小林さんは言う。小林純子「山田真山による下絵資料について」に真山の略歴がある。私も以前、那覇市が真山の日本画、彫刻作品を購入するにあたって参考資料を提供したことがある。

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1940年・日本の放送事業
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大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月  沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」

1949年6月  沖縄劇場協会『芝居と映画』6月号□編集兼発行人・志良堂清英
旗岸平「新演劇への第一歩」/伊良波尹吉(梅劇団長)「芸談」/玉城盛義「玉城盛重翁追憶ー叔父を語る」/松村竹三郎「”武士松茂良”余談」/仲今盛良(梅劇団)「芸道苦心談」/山里永吉「雑談(2)」/「演芸ー芝居狂言作者年表(1)」/「演劇映画用語集」
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1950年5月ー『演劇と映画』第2巻第1号□上間朝久「名優の思出ー儀保松男」
1950年8月 『演劇映画』7,8月合併号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・沖縄ヘラルド印刷局)
山里永吉「演劇放談」/「王将ー大映作品」/川平朝申「沖縄映画製作への雑感」/沖縄ペンクラブ同人「沖縄文化を語る放談会」/上地一史「沖縄ペンクラブ」/小林寂鳥「なが雨の素描」/具志幸孝「幕波に就いて」/伊集田實「演劇雑感」/本部茂「シナリオ 朝から晩まで(2)」/田幸正英「『袈さの良人』の演出について」/サンゴ・タロウ「詩 啓示」/美田太郎「一流館」/又吉つる子「袈さの良人出演後感」/沖縄の芸能ー折口信夫「同胞沖縄芸能の為に」、比嘉良篤「沖縄芸能の味」、式場隆三郎「琉球文化の愛護のために」、今井欣三郎「邦舞への挑戦」、西崎緑「琉球舞踊一年生」、水田龍雄「遥かなる郷愁」


沖縄劇作家協会1950

映画ー1950年代の那覇の映画館・新聞社

劇場
1ー国際劇場、2-中央劇場、3-那覇劇場(芝居)、4-沖縄劇場、5-沖映、6-大宝館、7-大洋劇場、8-珊瑚座、9-オリオン座、10-平和館
新聞社
11-琉球新報社、12-沖縄タイムス社、13-琉球新聞社、14-沖縄朝日新聞社

1950年10月 『演劇映画』10月号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・南西印刷所)


1950年10月『うるま新報』「中央劇場ー帰国ダモイ」

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1951年2月 乙姫劇団ハワイ公演

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沖縄のバス切符

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 1952年8月 マーガレット・ミッチェル大久保康雄訳『風と共に去りぬ』三笠書房(上映記念 總革装豪華一千部限定版) 大久保康雄訳・初刊は1938年)は、1949年、1950年の年間ベストセラー第3位にランクされるなど、300万部を超える大ベストセラーとなった。なお、映画の日本公開は1952年で、同年もベストセラー第7位に入っている。『風と共に去りぬ』で得た莫大な利益によって、三笠文庫(1951年創刊)、『三笠版現代世界文学全集』(全27巻、別巻4。1953年-1957年)などを刊行している。和書では創業の1933年に内田百閒の随筆『百鬼園随筆』を出版しており、その後も『阿房列車』など、たびたび百閒作品を刊行している。→ウィキ





1954年7月 中野五郎『アメリカの暗黒ー米国を衝動した大事件ー』角川書店

1957年4月8日『琉球新報』川平朝申「M・G・M・ダニエル・マン監督の『八月十五夜の茶屋』を観て」 

『シンドバッド七回目の冒険』(1958年、公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼン①の初のカラー作品となった。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。
①レイ・ハリーハウゼンは、アメリカ合衆国の特撮映画の監督・特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。 本格的なデビュー作となったのは、『原子怪獣現わる』(1953年)である。SF作家・レイ・ブラッドベリ(ハリーハウゼンとは高校時代からの親友であった)の短編『霧笛』を原作としている。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』(1954年)にも大きな影響を与えた。→ウィキペディア


『ヒット曲歌謡集』1958~1961

1959年1月、『守礼の光』が創刊され守礼門が写真で紹介された。6月に宮森小学校にジェット機墜落、大惨事となった。東京の新聞雑誌は大きく報じた。このとき比嘉春潮は第三回沖縄タイムス賞受賞のため帰省中であった。8月には東京で沖縄記者会が設けられ、伊波普猷未亡人・冬子が帰沖した。11月1日、沖縄テレビがNEC日本電気の技術で誕生した。開局祝賀パーティは中継された。出席したのは當間主席、具志頭社長、安里立法院議長、国場組社長、崎山沖縄グラフ社長らであった。同年末の新聞は「街に映るテレビブーム」などと報じた。


1959年12月 「アダムとイヴ」「日本誕生」

1960年1月の『守礼の光』に外間清が「茶の間で見る世界ー沖縄テレビの話」を書いている。安里慶之助『放送余聞~草創期のラジオ・テレビ』に拠ると、ウチナー芝居が初めてテレビで放送されたのが1959年12月21日の劇団与座の時代劇「片割れ心中」で、あけぼの劇場からのナマ中継であったという。だがウチナー芝居はすぐスタジオ製作に切り替わった。7月、ラジオ沖縄が開局。開局記念に大伸座による「首里城明け渡し」が放送された。その舞台は『オキナワグラフ』8月号で紹介された。60年現在、私設のラジオ有線放送社は那覇に16社、地方に32社、ほかに公営の有線放送は10ヶ所にあった。

1961年1月『オキナワグラフ』「在阪沖縄映画人会」


1961年1月 那覇のグランドオリオンで「渚にて」上映

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1963年7月 『守礼の光』表紙「自作『雪払い』を踊る真境名由康氏と愛嬢由苗」
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1963年7月 『守礼の光』表紙「自作『雪払い』を踊る真境名由康氏と愛嬢由苗」

1965年5月29日 30日の国映館の東宝まつりに出演の草笛光子、藤本真澄①が日航機で来沖
①藤本真澄 ふじもと-さねずみ
1910-1979 昭和時代の映画プロデューサー。
明治43年7月15日生まれ。昭和12年PCL(現東宝)にはいる。戦後辞職して藤本プロダクションをつくり,「青い山脈」を大ヒットさせ,のち東宝に復帰し取締役,副社長となった。作品はほかに「若大将」シリーズなど。昭和54年5月2日死去。68歳。山口県出身。慶応義塾高等部卒。 →コトバンク

1965年6月6日『琉球新報』「おきなわ出演の千草かほるに聞くーきっかけに困った方言のセリフ」、仲井真元楷「明治 大正 昭和名優伝 嘉手納良芳」 
         沖映本館「伝説史劇・おきなわ」/グランドオリオン「明治大帝御一代記」(嵐寛寿郎)/東宝劇場「赤ひげ」(三船敏郎)
         台湾で琉球芸能紹介、高安六郎一行(フリユンターズ)きょう出発


1965年11月ー那覇 グランドオリオン「クレオパトラ」(エリザベス・テイラー)
エリザベス・テイラー 本名:エリザベス・ロズモンド・テイラー。アメリカの映画俳優、女優。愛称リズ。
1932年2月27日、イギリス・ロンドン生まれ。現在に至るまで結婚暦は8回。2011年3月23日死去。(はてなキーワード)


1966年1月15日 沖映本館で沖縄興行史上最大の豪華一大絵巻!!「龍神の舞い」開幕


1966年2月9日~10日 沖縄タイムスホール 琉球組踊保存会主催第1回鑑賞会「大川敵討」

1966年2月17日『琉球新報』上間朝久「大川敵討を見る」


1967年3月 琉球組踊保存会(代表・真境名由康)『組踊研究』創刊号 

1967年12月 沖映本館「愛の雨傘」/桜坂オリオン「007ゴールドフィンガー」(ショーンコネリー)
1969年1月『沖縄の芸能』邦楽と舞踊社□3、流派と現状 
仲井真元楷「現地における」
石野朝季「本土におけるー『沖縄の伝統芸能は、日本本土で命脈を保っている芸能家の手で保存しないかぎり消えてゆくしかない。さいわい鹿児島には舞踊界の渡嘉敷守良、熊本には野村流音楽の池宮喜輝両師匠(共に故人)が疎開で健在であり、二人を東京に招いて弟子を養成、沖縄に再び平和が甦えるときまで、郷土にかわって伝統保存の担い手になろう』と、1947年春、東京沖縄芸能保存会が伊江朝助、比嘉良篤、戦前沖縄で新聞経営、安富祖流音楽の有数な弾き手でもあった武元朝朗(1953年10月6日没)らの手で結成された。結成翌年の1948年11月には、有楽町の読売ホールで第一回公演。」

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1971年7月 『守礼の光』「琉球文化を携えてアメリカを訪問した芸能団」

1972年2月 雑誌『青い海』』№10<復帰不安の沖縄>□「優れた沖縄を語りたいのですー若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」、嘉手川重喜「沖縄の歌劇(4)辺土名ハンドーグヮー」


1972年3月 『青い海』春季号 「青い海芸能ー情熱と美の琉舞を大阪の地に  金城康子」
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那覇大綱引きで子息の衣装を整える金城康子さん



1972年3月『琉球の文化』第4号 琉球文化社

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Category: 04-書の森
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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ。
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。
レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。

知念良秀
 2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。


 大濱聡2019-2■文学者たちの面影をたどっていたら、なぜか54年前の高校の修学旅行を思い出した。本郷の旅館に泊まったのだが、到着した日の夕刊で谷崎潤一郎の訃報を知ったことを今でも鮮明に記憶している。


饒平名智太郎②









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12/01: 新生美術

Category: 03-所感
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1984年8月 『新生美術』<特集・玉那覇正吉>
1987年5月 『新生美術』6号□新城栄徳「『浦崎永錫画伯』美術史を語る」
1988年5月 『新生美術』7号<特集・大嶺政寛 追悼アルバム>
1990年5月 『新生美術』8/9合併号<特集・山里永吉・豊平良顕・宮城孝也
1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
 
        □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」
1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>
2001年3月 『新生美術』12号<特集・追悼 思い出 アルバムー具志堅聖児・金城安太郎・大嶺政敏・大嶺信一・宮良信成>
         □新城栄徳「金城安太郎さん」
2004年9月 『新生美術』13号<特集・比嘉景常・島田寛平・南風原朝光・名渡山愛順・大城皓也・宮城健盛・安谷屋正義・新川唯盛・仲嶺康輝・山之端一博>





知念亀千代(1899年4月19日~1991年2月9日)
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島袋和幸『沖縄の軌跡』84号□東京都葛飾区四つ木4-18-10 電話03-3695-9276


知念亀千代「履歴書」
1988年12月 知念亀千代『生命の行先』(沖縄県立図書館所蔵)
1991年2月11日『琉球新報』
知念亀千代(ちねん・かめちよ=洋画家)9日午前零時10分、胃かいようのため埼玉県川口市の川口市民病院で死去、91歳。南風原町出身。自宅は川口市元郷1-18-3.告別式は12日午後零時半から東京都板橋区舟渡4-15-1、戸田葬祭場で。喪主は妻二三子(ふみこ)さん。二科会所属。日展7回、二科会23回各入選。

2012年7月10日『沖縄の軌跡』86号「画家・浦崎永錫
」 島袋和幸 〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952



星雅彦氏と新城栄徳/2014年2月5日 星雅彦氏



1981年4月 福井県立美術館「堀田清治 大回顧展」
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昭和53年6月『美の沖縄』琉球新報社

□1941年11月来沖ー堀田清治(日展参与・新槐樹社代表)
堀田清治 ほった-せいじ
1898-1984 大正-昭和時代の洋画家。
明治31年12月6日生まれ。東京で高間惣七にまなび,大正11年故郷福井の北荘画会の創立にくわわる。15年帝展初入選。昭和8年「炭坑夫」で特選。33年新槐樹社を創立。はじめははたらく人々を,のちに「磨崖不動」など仏像をおおくかいた。昭和59年2月17日死去。85歳。福井中学卒。(→コトバンク)

沖縄県立図書館に堀田清治画伯の「磨崖威徳明王」F150号が展示されている。画伯は戦前1941年の沖縄取材をもとに守礼門などを戦後に描いている。


1980年4月 沖縄の雑誌『青い海』92号「青い海ギャラリー/大浜佳津子ーパビョン・ドゥ・アゼール・リドゥ」
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1996年3月 大浜佳津子『水辺の春ーフランスの古い橋やムーランなど』築地書館

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Category: 04-書の森
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 東北関東大震災後の関西に出てみた。(東日本大震災 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖で発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震により引き起こされた大災害。最大震度7の強い揺れと国内観測史上最大の津波を伴い、東北・関東地方を中心とする広い範囲に甚大な被害をもたらした。また、東京電力福島第一原子力発電所が被災し、放射性物質が漏れ出す深刻な事態になった。→知恵蔵)〇2019年(令和元年)7月9日時点で、震災による死者・行方不明者は1万8429人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4890戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、2019年7月30日時点の避難者等の数は5万271人となっている。→ウィキ
新城栄徳「関西日誌2011-10」
 私の本格的な古本屋巡りは1965年から始まっている。何ぼネット時代と言ってもこの身に染み付いた古本屋巡礼の快楽は、バーチャル(仮想空間)なネット世界では絶対に味わえないものだ。第一、歩くことによって運動にもなる。古本屋がどんな場所にあるのか訪ねるのも楽しみの一つである。本、新聞もネットで読めるとよく若い人は言うが、持ち時間が余り無い初老には馴染む気力も体力も無い。
 午前10時に布施の自宅を出て、JR永和駅から乗り大阪天満宮に行く。電車賃は170円、那覇市内バス210円より安い。天満宮で「天神さんの古本まつり」(大阪古書古書研究会主催)がある。天気も良く参拝客も多い。5冊1000円コナーで、W・A・スウォンバーグ/木下秀夫『アメリカ新聞界の巨人・ピュリツァー』(早川書房1978)、小糸忠吾『超大国米国ソ連のマスメディア』(理想出版社1981)、高橋康雄『物語・萬朝報』(日本経済新聞社1989)、木村愛二『読売新聞・歴史検証』(汐文社1996)、雑誌は『人物往来』「昭和重大事件の真正報告ーあの時の証人は語る」1955年の復刻版を買った。

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 100円コーナーで、『醍醐寺の研究』(飛鳥園1930)は中にチラシ「出雲大寺薬師」や長崎、大宰府天満宮近くの飲食店の箸袋が挟まれていた。平凡社発行(1929~31)『世界美術全集』21巻、27巻、別巻「宗教図像篇」、最後の巻には週刊朝日チラシ「ワーナー・ブラザース映画『百萬長者』/フエアリイランド/秋の画廊」「日本古墳と安南の墳墓」「古代朝鮮文化の粋」「古今東西女性美名作物語ー上野府美術館」(数点の戦前の新聞切り抜き)が挟まれていた。新村出『広辞苑』(岩波書店1960)、雑誌は、『話の特集』第191号(1981-12)には今話題の島田紳助らの「とことんやったれ!ツッパリ漫才爆走中」が載っている。たしか今の琉球新報社長の富田詢一氏もかつて『話の特集』編集部にいたことがある。『芸術新潮』「ナチスが捺した退廃芸術の烙印」(1992-9)、「悪趣味のパワー」(93-6)、「天災と闘った美術」(95-5)、「『東寺』よ開け!」を買った。
 天満宮を天六方面に行けば末広町の「成正寺」がある。入口に「中斎大塩平八郎墓所」の石碑がたっていて、奥にソテツがある。。東の方も散策。天満東寺町の龍海寺(緒方洪庵墓所がある)に寄る。ここは門が来るたび閉まっている。『大阪春秋』(2006-10)にT・M生が「寺町と掃苔ー著名人の墓碑は文化遺産」を書いていて「それよりも緒方一家といえば、いまも家運隆盛で良識ある優秀な方ばかり(略)戦後緒方家の墓地を整備なさったとき、無縁となられた中家の墓域ぐらい購入されて洪庵先生と並べて眠らせてあげれば、洪庵もさぞかし喜ばれたと思うのですが残念

 新城栄徳日記メモー1995年1月1日ー奈良東大寺大仏初詣/1月17日午前5時過ぎに京都で大きな揺れ。東大阪の息子に電話。午後2時23分電車で京阪淀から近鉄経由で布施。/1月24日、尼崎市の兵庫沖縄県人会事務所。沖縄県からのビニールシートが届いていたので配送を手伝う。息子名義で見舞金を贈ったとき宮城幹夫氏も来所し見舞金を贈られた。挨拶をした。1月30日、西宮からバスで三宮。午後8時に帰宅。1月31日、大正区へよって、阪神青木から東灘区へ。その後、息子も神戸へ。

 10・10那覇大空襲の日である。1944年7月のサイパン陥落。10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備。これに先立って、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃した。10日の沖縄の大空襲はこの一環として行われたものとされている。このとき那覇市内の9割が消失して壊滅した。死者は255人以上にのぼった。大阪は翌年45年3月13日から深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。同年3月23日には粟国島空襲、26日には慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し沖縄戦が始まった。大阪ではその後、6月から8月にかけて空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われる。それから60数年。未だにアメリカ軍は「トモダチ」としてオキナワ・日本に居座っている。何ら疑問も感じない日米両政府。それを容認する国民の感覚も分からない。今日まで核の傘、原発も容認してきた国民。これからも<しょうがないにゃあ>。


大阪の本・雑誌
 午後から大阪市天王寺区生玉町界隈を見学。法音寺は天王寺区の北部、建物は南面している。新しい本堂だが、古い屋根瓦がよく目立っている。1612年創建。1945年ー大阪大空襲により焼失。戦後再建された。画家上田公長の墓所でソテツもある。浄土宗圓通寺には俳匠の大江丸墓所。ソテツもある。大江は大坂出身。飛脚問屋・嶋屋の主人で、家業上諸国を旅したので、交際がきわめて広く、またたいへん筆まめで、そのうえ長寿でもあったので、残した紀行文や随筆、そして発句などは莫大な数にのぼる。作風としては京都の蕪村派の影響を受けているが、西山宗因や上島鬼貫の模倣をした作品もある。のちに江戸の大島蓼太に私淑し、著書においても蓼太を師として敬っている。
 生魂山齢延寺には幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、緒方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音がある。やがて「いくたまさん」と呼ばれる難波大社 生國魂神社北門入り口に着く。鳥居をくぐって生玉北門坂をのぼる。神社本殿の脇には11社の境内社がある。一番右側の鳥居は「浄瑠璃神社」で、近松門左衛門や竹本義太夫など人形浄瑠璃(文楽)に成立に功のあった『浄瑠璃七功神』をはじめ文楽および女義太夫の物故者を祭神として祀られている。
 境内社の1つ「鴫野神社」。大坂城外鴫野弁天島にあった「弁天社」は淀君の崇敬が厚く、後に「淀姫神社」として祀られるようになったが、1877年に現在地に移転された。家造祖神社は、家造の祖神を祀り、建築関係者の崇敬が篤い。鞴神社は、鞴(ふいご)の神・鍛治の神を祀り、製鉄などの金物業界の崇敬が篤い。
 境内に井原西鶴像がある。西鶴は1680年、「生玉神社南坊」で一昼夜独吟四千句を興行した。後ろの碑は「南坊」の所在跡を示す石碑、「南坊」は明治初期の神仏分離の折、現在の中央区島之内に移転した法案寺の前身である。「米澤彦八の碑」に京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪では当社境内を舞台に米澤彦八が広めたとある。「八雲琴の碑」には「二つ緒の八雲の琴に神の世の しらべを移し伝え来にけり」と記され中山琴主(愛媛の人、文政年間出雲大社に参拝し神事を得て完成したと伝えられる、琴は二弦で「八雲琴」)を顕彰。
 1496年、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して『石山御坊(後の石山本願寺)』を建立したが、1580年、織田信長に屈し灰燼に帰した。1583年、豊臣秀吉が石山本願寺(現在の大阪城の二の丸周辺にあった)跡に大阪城を築城。そのため、神社に社領を寄進し社殿を造営。1585年に現在の鎮座地に遷されたと伝えられている。明治維新の廃仏毀釈によって境内にあった神宮寺が境外へ分散するなど境内は著しく変化したが、1871年、官幣大社に加列された。社殿は(明治45年)『南の大火』、1945年の戦災による消失、1950年の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返し、現在の社殿は1956年(昭和31年)に建立されたものである。10月22日から神社参集殿で「出口王仁三郎耀琓展」が開かれるという。
 近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。

大阪の本・雑誌
 誓願寺門前にプロレタリア文学を経て、転向。西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した 武田麟太郎文学碑がある。この文学碑は武田の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。 午後ー近鉄布施駅から鶴橋。近鉄駅改札のまん前にある「高坂書店」では数多くの在日コリアン関連の書籍が売られている。いわゆる「嫌中本」「嫌韓本」も意外に数多く揃えてあり「マンガ嫌韓流」といった山野某の本もある。私はブックオフで買った山野「在日の地図」で、日本の中のコリアンを見つめなおしている。鶴橋商店街はいつも見慣れているが、面白いのは、ガード下にも広がる市場の存在。闇市の世界をそのままに、という風景で八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、そしてキムチ屋、ありとあらゆる韓国食材が揃う、まさに日本の中の朝鮮。大阪の東の玄関口として戦前から発展してきた下町、鶴橋。大阪府は全国で最も在日韓国・朝鮮人が多く、人口は15万人。その多くが大阪市東部の生野区を中心としたエリアに住んでいる。生野区の人口14万人の4分の1に当たる、3万人程度が住んでいると言われる。
 明治、大正時代の大阪は、日本の急激な工業化に伴い大量の労働者が必要となり受け入れた。大阪は大大阪となる。現在の生野区や東大阪市、八尾市あたりには、朝鮮半島から出稼ぎをした人間が大勢住む事となった。終戦直後には210万人程度居たと言われている。その多くが京阪神に住んでいた。現在も在日韓国・朝鮮人の人口は60万人程度居るが、今では在日二世・三世がほとんどで、中には帰化をして日本人になっているものも多く、その実態を掴むのは不可能だ。
 鶴橋商店街を通っていつもは通らない反対の方向に行く。やがて大阪市生野区弥栄神社に出る。秋祭りの地車(ダンジリ)の手入れの最中であった。傍で子どもらが鐘と太鼓の練習をしていた(→「秋祭り」画像検索)。彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて鎮座しているのが御幸森天神宮。仁徳天皇を主祭神とし、昔の東成郡猪飼野村の氏神、天皇崩御の後、この森に社殿を建立し、天皇の御神霊を奉祀して、御幸森と称したという。このバス道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。天神宮に沿って御幸通商店街がある。反対側に韓国式の立派な門、沖縄の守礼門と似かよっている。商店街は東西で3つの区画に分かれており、コリアタウン色が強いのが御幸通中央商店街。ほとんどの店舗がキムチ屋や肉屋、韓国料理店や屋台料理、民族衣装、それに韓国の音楽CDやDVDを売る店舗となっている。この商店街は大阪に永いこと住んでいるが初めて来た。

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1987年9月 「歴史散歩マップ 首里マーイ」(イラスト・新里堅進)那覇市教育委員会文化課


1989年11月3日「首里城木遣」


1991年7月 日本旅文庫『琵琶湖・若狭湾』昭文社


1992年10月 『月刊建築仕上技術』「首里城再建と沖縄の建築文化」工文社


久能山東照宮- 国宝 拝殿・本殿 〈静岡県静岡市〉 /朝鮮ソテツと鼓楼(ころう) →行って見たい神社とお寺


斎藤 陽子(Walnut, California)2019-11-24 10年物のソテツです、こちらは乾燥しているので水やりが欠かせません。


2016年1月8日 若狭の龍柱
  安田浩一2018-11-3「沖縄の龍柱は、沖縄のものです」若狭の「龍柱」のデザイン日本列島は龍の形をを担当したのは、沖縄美術界の大家として知られる琉球大学名誉教授の西村貞雄さんだ。「私も『中国の手先』などと直接に面罵されたこともあります。一部で龍柱の意味がまったく理解されていないのが本当に残念です」そう言って、西村さんは悔しそうな表情を見せた。「沖縄の龍柱は、沖縄のものですよ。だいたい、中国各地に存在する龍柱とは形状からして違います」たとえば、中国特有の「龍柱」は、那覇市内の中国式庭園「福州園」に足を運べば目にすることができる。(略)中国式「龍柱」は、龍が柱に巻き付いた形状となっているのに対し、沖縄の「龍柱」は、龍の胴体そのものが柱となっている。そう、デザイン的にはまったくの別物なのだ。

福州園は中国福建省福州市(ふっけんしょう・ふくしゅうし)と那覇市の友好都市締結10周年と、那覇市市制70周年を記念して、1992年に完成しました。園内は中国の雄大な自然と福州の名勝をイメージして造られている。
 「私はアジア各国を回って龍柱を見てきましたが、中国の影響を受けつつも、それぞれの国がそれぞれの龍柱を持っている。爪の数にしても同様です。属国の龍柱は5本爪であってはならないというのが通説ですが、私から言わせれば、これも怪しい。モンゴルには3本爪、4本爪、5本爪の三種の龍柱がありましたし、韓国には6本爪の龍柱がありました。私が若狭の龍柱を4本爪にしたのは、単に沖縄の伝統的な龍柱が4本爪だったからにすぎません。歴史どおりに、伝統に基づいてデザインしただけです。そこには中国への忠誠だの、そんな意図が含まれているはずがない。仮に批判を受けいれて5本爪にしたら、それは歴史を無視した、きわめて政治的なデザインとなってしまうではないですか」西村さんによれば、若狭の龍柱には、沖縄の歴史と未来への思いが込められているという。
 「一対の龍は向き合っているのではなく、海の方角を向いています。つまり、尾の部分は首里城までつながっているという想定です」西村さんは、これを「龍脈」と呼んでいる。龍のからだは首里城から国際通りの地中をくぐり、海岸線で地中から垂直に飛び出る、といったイメージだ。首里城は沖縄の源流であり、国際通りは戦後復興の象徴である。そして若狭の港は外に開ける海の玄関だ。つまり、この「龍脈」は沖縄の歴史を意味する展開軸、導線なのだ。「龍の頭が海を向いているのは、その先の未来を見ているからなのです。水平線の先にあるニライカナイ(理想郷)ですよ」「龍脈」は過去と未来を結ぶ。中国とも侵略とも関係ない。龍の目玉はニライカナイの海を望む。



2019年9月 琉球新報編集局『琉球新報が挑んだファクトチェック・フェイク監視』高文研

写真左よりー安田浩一氏、平良肇氏、島袋和幸氏、長嶺福信氏
2017年11月3日13:00 なは市民活動支援センター第三会議室「〔検見川事件を語る会〕学習会」

2017年10月 朝日新聞出版『一冊の本』安田浩一「沖縄の右派と〔プロ市民〕7 人々を虐殺に向かわた回路」
安田 浩一(やすだ こういち、1964年(昭和39年)9月28日 - )は日本のジャーナリスト。日本労働組合総評議会(総評)系の機関誌『労働情報』編集委員。静岡県出身。千葉県在住。慶應義塾大学経済学部卒業。伊豆半島の温泉地帯に生まれた。日本経済新聞など様々な新聞社、出版社の記者を経て『週刊宝石』の記者だった1999年(平成11年)前後に、同誌にて創価学会の批判記事を書いていた。『サンデー毎日』時代は名誉毀損で訴えられ、証言台に立った。→ウィキ2014年9月 佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』小学館文庫 解説・安田浩一


御菓子御殿 国際通り松尾店ー私が奥原崇典氏(首里城の瓦を手掛けた。1950年-2014年3月12日)を最後に見たのがこの柱の龍を仕上げているときである。

2014年5月20日~6月22日 沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」
同時期開催/6月3日~8日 西村貞雄主催「復元のあゆみー琉球王朝造形文化の独自性を求めてー」


石川和男氏、松島弘明氏

1991年4月19日『レキオ』

末吉安允氏(末吉麦門冬の甥)と西村貞雄氏〇11月5日の沖縄タイムス文化欄に、大城立裕さんが焼けた首里城について「当時の持ち主であった首里市は、取り壊しにかかったが、識者の末吉麦門冬の注進で、建築家の伊東忠太が文部省(当時)に掛け合って温存され、2年後に国宝に指定された」と書いておられるが、結果論としては合っているが、具体的な経緯は別にある。

平良昭隆氏、平良知二氏、新城栄徳、宮城篤正氏

2019年11月12日『沖縄タイムス』宮城篤正「視点 焼けた首里城」

2014年6月5日ー左から伊佐眞一氏、西村貞雄氏、亀島靖氏

1991年1月 伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』伊佐牧子〇編集後記に下の新聞記事の解説




新城栄徳、西村貞雄さん

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琉銀「2千円札券で復興支援!」/「二千円札流通促進委員会」委員長・湖城英知/守礼門グッズ

 「読売」6-7 沖縄県議選、知事派が過半数維持…辺野古移設巡り引き続き県と政府対峙へ沖縄県議選(定数48)は7日、投開票され、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する玉城デニー知事の支持勢力が過半数を維持した。辺野古移設を巡り、知事は県議会と両輪となって、引き続き政府と対峙(たいじ)していく方針だ。

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-7日本時間 相変わらず続いているカリフォルニアの非常事態宣言、外出禁止も79日目を迎えました。急に37℃と暑かった3日前と違い、今日の土曜日は気温24℃と快適な週末です。庭のプルメリアも満開になり、夏がやってきたことを気づかせてくれます。最近はプルメリアの花の色違いの鉢を集めるのに凝っていますが、白色はポピュラーなのですが、他の色を探すのが困難です。プルメリアの白色の花は挿し木をしても、簡単に100%根付いてくれますが、ピンクや黄色などの色付きのプルメリヤの挿し木率は50%ほどと、なかなか難しく細心の管理が必要です。南カリフォルニアの冬は0度になることもありますが、この厳しい寒ささえしのげれば、夏の豊かな太陽を浴び、南カリフォルニアではプルメリアが満開の花を付けてくれます。冬は気温が下がるのを見計らい、30年物のやや大きめのプルメリアの木に、毛布やブルーシートなど被いを掛けて、特別に寒さ対策の養生をしてあげています。

 今年も夏が来たと実感させてくれるプルメリアの花が、庭を賑やかに色どり咲きはじめました。夏に時々雨が降ったり湿度が高いという条件のハワイや沖縄と異なり、南カリフォルニアは超乾燥している気温なので、水の好きなプルメリアの水やりには随分気を使かっています。プルメリアは中南米カリブ海諸国が原産で、300種類もの色が有ると言われます。タヒチ、フィジー、サモア、ハワイ、ニュージーランドなどの太平洋の島々でレイに好んで使われ、プルメリアの花は女性の髪にも飾られますが、未婚者は頭の右に、既婚者は左に飾るのが決まりの様です。赤い花のプルメリアはニカラグアの国花とのことです。
 53年まえ1ドルが360円の時代、渡米するには飛行機は随分高価で、また飛行機の便も少なく、今ほど飛行機がポピュラーではない時代でしたので、横浜港から目的地のサンフランシスコまで、2週間かけて貨客船プレジデント・クリーブランド号に乗って、ハワイ経由でカリフォルニアまで2週間の船旅でした。途中1週間目に1日だけハワイヘ寄港したのですが、この日が私にとってアメリカの地の第一歩で、これから学生として一人で異国の地で過ごす不安なども手伝って、複雑な気持ちで興奮しておりました。寄港したホノルル埠頭に、初めて会う沖縄系移民の遠い親戚の方々20人ほどが、プルメリアのレイを持って律義に迎えに来てくださったのには驚きました。初めて見るプルメリアに感激し、頂いたプルメリアの幾つものレイで完全に顔が埋まり、初めて会う親戚の方々の、その熱烈歓迎に感激してウルウルしたものです。可憐なプルメリアの花を見ると、53年まえ女一人留学で渡米するには心細さで潰されそうな思いをしアメリカはハワイの地を初めて踏んだ、あの日のことを思い出します。

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-6日本時間 ミネソタ州ミネアポリスで警官の暴行により死亡した事件をめぐり、抗議デモが全米主要都市に広がる中、カリフォルニア州ロサンゼルスでもロサンゼルス市役所や警察本部ビルが立地するダウンタウンで抗議デモが始まっています。デモ隊の多くは行進やシュプレヒコールなど平和的に行動していますが、中にはデモに便乗して小売店や飲食店、ハリウッドの有名ブランド街の、宝石店や服飾店などの商品略奪や、放火を行うなど暴徒化する集団もみられます。新型コロナウイルスの影響による約2カ月半の事業閉鎖や活動制限を経て、ロサンゼルスは5月末にはレストランの店内飲食など、自粛の段階的な解除として、再開を検討していましたが、抗議デモの激化を受けて、外出禁止令により新たな営業制限に直面しています。
 昨日6月3日のロスアンゼルスの気温は37℃と大変暑い中での、亡くなったジョージフロイド氏の追悼 抗議集会は、ロスアンゼルス支庁舎近辺で3000人の人々が集まって、暴動化するのではないかと、ヒヤヒヤしながらテレビ中継を見ていましたが、比較的へ平和な集会だったようで、安堵していますが、大勢の人が密になっての集会は2週間後のコロナウィルス感染数が心配でもあります。
 今日の写真は抗議集会が毎度行われている、リトル・トウキョウに隣接しロスアンゼルス・ダウンタウンに位置する、人口400万人を抱えたロスアンゼルス市の行政をつかさどる、32階建てのロスアンジェルス市庁舎です。1928年に建てられた市庁舎は、当時マグニチュード8.2までの耐震を考えて作られた建築物とのことです。ロスアンゼルス市だけでも関東平野と同じ大きさが有るとのこと、ニューヨークにに次いで第二の都市を擁護している市庁ビルディングも90年になろうとしています。

 90年前の旧式な建物だけに、コンピューターの時代を迎え、なにかと施設には近代的な技術に対応すべく、手を加えるのも大変でしょうけれども、ロスアンゼルスっ子には、スーパーマンがこの屋上から飛んで出て来そうな気がして、このビルへの愛着があるものです。内装も90年前のアールヌーボー風の風格をいまだに保ち、一見の価値はあります。さすがにハリウッドを抱えた映画の都らしく、この市庁舎は「ダイ・ハード2」「スーパーマン」「LAコンフィデンシャル」などの、映画ロケ地ともなっています。
 市庁舎の27階には展望デッキもあり、ロスアンゼルス全貌が360度見ることができ、眼下のリトル・トウキョウ(日本町)は日本からの移民世代の時代が過ぎ一時衰退していましたが、最近は幾らか活気を出してきています。またこの支庁舎に隣接して、ロスアンゼルス警察、出入管理局、裁判所、ロスアンゼルス駅舎、全米日本人博物館、メキシコ・タウン、コンサ-トホールなどが集中して建っております。お天気にはハリウッドまで見渡せるので、ロスアンジェルスへいらしたら立ち寄ってみてください。また、ロスアンジェルス市は名古屋市とも姉妹都市で、活発な交流プログラムもあります。


大濱 聡 6-5■4日の参院財政金融委員会での麻生財務相の発言――日本で新型コロナウイルス感染症による死者が欧米の主要国と比べて少ない理由について、「民度のレベルが違うから」との自説を披露。生活や文化の程度を示す「民度」との表現を使い、日本の優位性を表現したかったようだが、他の国をおとしめることになりかねない発言だ(『朝日』)。■政府のコロナ対策に対する日本人の自発的な協力を強調する意図があったようだが、欧米市民の感染予防への意識が低いと認識していると取られかねず、波紋を広げる可能性がある(『共同』)。■感染者が世界一多いアメリカでは、黒人男性が白人警官に窒息死させられた事件をきっかけに全米で抗議デモが広がっている。トランプ大統領が一時、鎮圧に米軍部隊の動員も辞さないとしたことに対し、マティス前国防長官は強い調子で非難。■「ドナルド・トランプはアメリカ国民をまとめようとしない。そのふりすらしない私の人生で初めての大統領だ。彼は私たちを分断しようとしている。私たちは成熟した指導者がいない3年間の結果を目の当たりにしている」(米誌「アトランティック」への寄稿)う~む、何やらどこかの国に対して言われているような気もするが。

 JIJI6/5五輪祝日移動法案、成立見送り 政府・与党は5日、来年の東京五輪開・閉会式に合わせて祝日を移動する特別措置法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。与党内手続きが遅れ、審議日程の確保が難しいと判断した。秋の臨時国会で改めて成立を目指す見通しだ。 

 【ワシントン時事】6-4 米国での白人警官による黒人男性暴行死とその後の抗議デモ拡大をめぐり、今も健在の4人の元大統領から発言が相次いでいる。大統領経験者は政治的な発言や現職への攻撃を控える不文律があるが、社会に広がる差別と分断への深い憂慮から口を開いたようだ.民主党のオバマ前大統領(58)は3日、インターネット上の集会で、米独立の歴史に触れ「この国が抗議行動によって築かれたことを忘れてはならない」と述べ、デモを支持した。1日には「本当の変化には抗議だけでなく政治が必要だ。変化をもたらす候補を確実に当選させるよう組織化していかなければならない」と説いた。共和党のブッシュ(子)元大統領(73)も、2日に声明を発表。「傷つき、嘆き悲しむ人々の声を封じようとする者は、米国の意味と、それがどのようにより良き場所になるかを知らない」と訴え、デモを抑圧するトランプ大統領を暗に批判した。民主党のクリントン元大統領(73)は「誰も(被害者の)ジョージ・フロイド氏のような死を迎えてはならない」と語り、人種差別解消へ行動を起こすべきだと主張。同党のカーター元大統領(95)も人種的融和の必要性を強調し、「沈黙は暴力と同じぐらい命取りだ」と訴えた。


大濱聡6-4
 斎藤 陽子(Walnut, California)6-4日本時間 ロスアンゼルスでは新型コロナウィルスで、外出禁止76日目を迎えています。ミネソタ州ミネアポリスで5月25日、白人警察官による黒人男性の拘束死事件が発生してから1週間以上が過ぎても、止まることを知らない抗議デモは、全米各地に広がっています。20日前に外出禁止令下のハリウッドの高級ブランド商品店の有る、ロデオドライブに雑誌の取材で視察した時には、通りはひっそりとして、猫の子一匹歩いてない街が、今では抗議デモの暴動と化し、高級店は略奪に遭ったり放火されたりの暴力行為に発展し、見にくい街と変り果て、いまだにダウンタウンを中心に夜間外出禁止令(curfew)が各地に出ているにも関わらず、夜間の暴動化は続いています。
 トランプ大統領は抗議デモに対して抗戦的な態度を取り、かえって人々の不満をあおるような行為を行い、連邦政府兵士の派出案を出すなど、その高圧的な言動はかえって抗議者たちの気持ちを逆なでし、大統領の言動は人々を挑発している様な結果を見るにつけ、この国の指導者の横暴行為には呆れるばかりで、この抗議デモを収拾するはずもありません。ロスアンゼルスなど全米各地の都市で抗議活動が拡大している状況は、コロナ感染と経済の両方が悪化する恐れが出てきて心配です。この最悪なアメリカ全土の状況を、終息させる名案な方法は無いものでしょうか。
 コロナ禍など関係なく、自然界の鳥たちは繁殖を続けていて、わが家の軒先は毎年メキシコからのツバメが飛来しますが、今年のツバメたちは記録的に8個も軒下に巣を作り、明け方には10羽ほどのツバメが餌を求めて飛び立つサマは壮観です。北半球にしか生息をしないこの鳥、古くはツバクラメ、ツバクロと呼ばれ、♪ ♫ 旅のツバクロ寂しかないか ♬ などと昭和8年のヒット曲の懐メロを知っている人は私も含めて、相当古い人に入ります。

今日の写真は現在カリフォルニアの私の庭に咲いている、ハイビスカスのオンパレードです。

 全国ネットママの会@愛知6-4 ええっ?!評価Aの会社が落選、評価Cの電通が作った謎会社が落札。そしてなぜ評価Aの会社の入札額が黒塗り?!電通より安い入札疑惑浮上。“入札資料が黒塗りに”「デトロイトトーマツ」A評価→金額が黒塗りに!!「サービスデザイン推進」C評価なのに落札。公金の使い途のプロセスを黒塗りにするとかおかしいし…安倍首相「必要な情報開示を行うことを含めて丁寧な説明を行わせたい」既に情報が隠蔽されてるだろ!

 「くろねこの短語」2020年6月3日ー持続化給付金の運営法人であるサービスデザイン推進協議会の設立に、どうやら経産省が関わっていたそうだ。インターネット上にある定款のファイル作成者名に経済産業省の署名があることからわかったとか。でもって、ファイルのタイトルが「補助金執行一般社団法人(仮称)定款(案)」となっているってんだから、うさん臭さがプンプン匂ってきます。経産省の言い訳がまたとぼけていて、「(サービスデザイン推進協議会の)設立は、産業界の皆さんがこれから、この政策が盛り上がると空気を読んだのではないか」だとさ。
 電通、パソナ、トランス・コスモスの関係者が理事に並ぶサービスデザイン推進協議会は、そもそもが公共事業を利用した税金の中抜きのためのシステムとして設立されたんじゃないのかねえ。そんな妄想もあながち妄想とは言えないような気がする今日この頃なのだ。これはひょっとすると、戦後最大の疑獄資源に発展するかもね。もっとも、電通がからんでるから、大手メディアは腰が引けているようだけど・・・。
 最後に、東京アラートだとさ。空襲警報のつもりでもいるんじゃないか、ボッタクリバーのチーママ小池君は。都庁やレインボーブリッジを赤くライトアップまでしちゃって、まんま大阪府知事のネズミ男のパクリなんだから、カイロ大学卒業が聞いて呆れます。これで再び補償なしの休業要請なんてことになったら、中小・零細はもとより個人商店もバタバタと倒れていきますよ。特に、東京の飲み屋文化は壊滅的な状況になることは間違いない。・東京アラート発令 「夜の街に外出控えて」と小池知事

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-2日本時間 6月1日を迎えた月曜日の南カリフォルニアです。新しい月になり気分も新たにしたい気持ちは有るのですが、外出禁止74日目、ロスアンゼルスでは一週間前に起こった、ミネアポリスでの白人警官の逮捕行為で亡くなった事件は、昨日は抗議デモでビバリーヒルㇲのブランド店街ロデオ・ドライブなどの店内の商品が、略奪などに遭ったり、警官への投石など、ロスアンゼルス・ダウンタンは市街戦さながらです。
今日も抗議は尾を引いて、各地で抗議集会で警官と睨みあっているようです。何だか最初は人種差別への抗議だったのが暴動と化し、新型コロナウィルスでの長い忍耐生活からのフラストレーションも大きな要因になっている様な気がしてなりません。今回のミネアポリスの事件は私も憤りを感じておりますが、今はコロナウィルスの終息の方が大切で、暴動をしている場合じゃないと思う外野の私です。一日も早い暴動の終息を願っています。
 今日は沖縄の切手に関わるお話に触れたいと思います。沖縄では戦争が終わって廃墟の中から立ち上がった1947年頃から、琉球切手が出現しましたが、もちろん価格は「B円表示の切手」ですが、これが暫定的なガリ版一色刷りで、紙質も藁半紙の粗末なもので、1958年のドル通貨に切り替わるまで、数種類が出まわりましたが、これらの切手は今では「幻の切手」となり、切手コレクターには羨望の切手で、大変入手困難で価格も今では高価になっています。写真にあるのはドル時代の1958年から1972年の復帰前まで使用された、ドル通貨社会でのドル郵便切手、この頃になると一人前の色刷り切手となり、価格表示はドルとセントになり、切手コレクターの日本の友人たちに大変人気がありました。最近ではFAXやインターネットなどの進歩で、昔ほど郵便切手というものを使わなくなってしまった時代ですが、ドルを使用していた頃の、日本復帰前の沖縄の郵便切手はデザインも豊富で、沢山の切手が印刷されました。もうこれらの切手も再び発行されることのない、ドル表示の切手も「幻の切手」となってしまいました。
 米国統治時代1952年に発足した、琉球政府は行政、司法、立法の三権が分立して、国家的要素の形をまがりなりに保ち、日本本土の都道府県のような地方公共団体とは異なり国家のような独自の形をなし、政治の形態やB円通貨、渡航証明書(パスポート)、郵便切手などで見るように、琉球は特異な形をした地域で、独立運動を唱える人々もいて、当時は独立も可能な形態でした。偶然にも取り出した切手の中に、いま新基地埋め立て建設反対で揺らいでいる、辺野古の海に回遊するジュゴンのデザイを発見しました。この切手は1966年に、時の琉球政府が天然記念魚としてジュゴンを認めた時の、3セントの記念切手です。ジュゴンは48年前に天然記念魚と指定されていることを、この小さな切手が証明してくれています。この時代に辺野古沖を回遊する「ジュゴン」が天然記念になっていた事を初めて知りとても驚いています。
 天然記念として指定されている「ジュゴン」が来る海を、新基地建設のために埋め立てる無謀と無知な案に、ただ呆れるばかりでいます。国は天然記念物保護法の違反を堂々と犯すことを、なんと弁解するのでしょうか。天然記念のジュゴンが回遊する、自然豊かな辺野古の海を破壊する権利は、誰にもありません。わたしたちは次の世代に誇れる、豊かな沖縄の自然を党派を越えて、守らなければなりません。

 【ワシントン共同】6-2 米国の黒人男性暴行死事件を巡るデモが首都ワシントンでも激化したのを受け、国防総省高官は1日、軍部隊が首都への派遣に備えて近郊に待機していると明らかにした。/「立憲フォーラム通信1817」トランプのアメリカが心配です。BBCの記者が「スペイン風邪、大恐慌、キング牧師暗殺という米国の過去の三大災厄が重なったようだ」と評したそうですが、トランプは 首都に軍派遣を表明 です。――ミネソタ州で黒人男性が白人警官に圧迫死させられた事件で、人種差別への抗議が全米で燃え上がった。英BBCの記者は、まるでスペイン風邪、大恐慌、キング牧師暗殺という米国の過去の3大災禍が重なったようだと評していた▲コロナ禍により失業率は大恐慌時を思わせる20%に達する恐れがあり、なかでも黒人の失業率は高い。抗議の一部の暴徒化、略奪の発生も、背景には雇用悪化の現実があろう。感染症、経済の低迷、人種差別という負のスパイラルだ、と「毎日」コラム。そんななか、人種差別反対グループに寄り添う警官やM・ジョーダンやレディー・ガガの意見表明はアメリカの底力を示してもいます。FNNの世論調査でも内閣支持率は7ポイント減です。/「もの知らず ドナルだけなる タランプに 救い求める アホのシンゾウ」

 「くろねこの短語」2020年6月2日 コロナ対策の専門家会議議事録を、とうとう作成せざるを得なくなってきたようだ。「発言者が特定されると自由な議論ができない」なんて間抜けな言い訳で押し通そうとしたものの、専門家会議のメンバーからも「そんなことは言っていない」「議事録に発言を残してほしい」という意見も出てきて、これ以上のゴリ押しは内閣支持率にも影響するって読んだからに決まってる。
 これって、政権の屋台骨が揺らいできた証明でもあるんだろうね。世論調査でもコロナ対策に関しては「NO」の声が大きくなって、これまでのように時間がたてば忘れるなんて悠長に構えていられなくなってきているのは間違いない。テンピン黒川君の賭けマージャンで世の中の流れを読み間違え、そこにもってきていまだ届かないアベノマスクや持続化給付金の不可思議な金の流れが発覚。モリ・カケ・サクラ疑惑に対する相次ぐ告発なんかもあるし、河井バカップルの買収疑惑では総理大臣に捜査の手が及ぶ可能性すら囁かれるんだから、ペテン総理はさぞかし気が気でないことだろう。
 それにしても、アベノマスクや持続化給付金における税金のピンハネ疑惑ってのは、そうとうに根が深そうだ。この問題を一部のメディア以外はスルーしているというのも、政権にとっては致命傷になりかねないシビアでデリケートな案件ってことの証なのかもね。


 大濱聡6-1■昨夜(5.31)のNHK「ダーウィンが来た!」は、2年間ヤンバルクイナに密着した記録。推定生息数1500羽。世界でも沖縄のやんばるの森にしかいない絶滅危惧種の鳥。人に育てられた若鳥55羽を森に放鳥して6年、そのうちの1羽が子育てに挑戦した物語。
■「ダーウィン」はじめNHKの自然番組を見ると、よくこんな映像が撮れたものだと感心することが多い。サイエンス系の番組とは無縁で動植物、鳥類、虫類などにとんと疎い私は番組のディレクター、カメラマンに畏敬の念を抱いている。■ネットでは「良心的な番組だと思いますが、もっと突っ込んでほしかった。野良猫よりもやばい問題あるでしょ!!」との突っ込みも。おそらくやんばるの森に広がる米軍基地、演習、環境汚染、オスプレイ飛行etcのことを言っているのだろう。

 新型コロナウィルス対応「三密」でここ2週間、自宅でパソコンばかりしていたところ、画面上に「貴方のパソコンが汚染されています。対処ご相談はお電話下さい」とのメッセージがあり、表示された先に電話をすると「汚染されていますね」と丁寧な返事があり、指示に従い入力したところ、最後に「対処費用として8カ月5万円、12カ月なら12万円振り込み下さい」とのメッセ-ジに驚き「検討させて下さい!」と返事したら「いや、早急に振り込んで下さい」との催促、再度「いや、検討して返信します」と答えると、パソコンから大音響の“貴方のパソコンは障害があり、大至急対応の必要があります”とのメッセージが続き、なかなか電源が切れません。
 完全に私のパソコンが遠隔操作で乗っ取られていたようで危うく詐欺に引っ掛かるところでした。すぐ、パソコンに詳しい友人に対応を相談し、パソコン電源・NET接続を外し、外部ディスクにファイルを移し、インストールされていたプログラムを全部削除し初期化しましたが、この対応に半日位かかりました。
 因みに、この外部から電話回線音声は東洋系の外人訛りでした。連絡要求された電話NOは050-5806-8164をネットで検索したら上記の掲載写真がアップされていました。皆さん、こうしたインターネット詐欺には気を付けましょう!→重田辰弥”朝吼夕嘆・晴走雨読”2020-5-51

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 「くろねこの短語」2021年1月31日 イギリスで発生したコロナ変異種が、埼玉県のある職場で集団感染したってね。イギリスへの渡航歴がないことから、どうやら市中感染が起きているんじゃないかというんだが、日本は世界でも変異者感染が多いんだよね。特高顔のカス総理は「市中で一例でもあったらそこ(の国からの入国)は即停止したい」って得意げにのたまってたんだが、いまではEUに日本からの渡航禁止されちゃうんだから、ペテン師・シンゾーがほざいていた「日本モデル」って何だったんだろうね。
 そんな中、組織運動本部職員がコロナに感染したってんで、自民党が全職員のPCR検査をするってさ。「正確性に難がある」ってdisりまくって、これまでさんざんPCR検査を抑制し、あげくに感染爆発の引き金を引いてきたくせに、足元に火がついたらこれだ。しかも、自民党には政党助成金という税金が入っているわけで、考えようによっては一般大衆労働者諸君が汗水流した金で職員のPCR検査をするのと同じだろう。妄想だけど。
 最後は金目のノビテルの無症状入院に続いて、ああ、やっぱり上級国民優遇なのねって声がネットで飛び交っているけど、「今だけ金だけ自分だけ」の自民党ならではのゲスの極みってことだ。

 立川談四楼1-30 「自民党本部の全職員にPCR検査を」って、二階さんは思い切ったことをやりますな。国民が検査を受けようにも体制が整ってないのに、自分のところだけですか。順序を間違えてませんかね。医療施設や老人を始めとする介護施設が先でしょうが。デリカシーの欠片もねえな。国民を怒らせることが目的かよ!
 「くろねこの短語」2021年1月30日 (前略)なんでも、大阪市には民間企業に委託する「総合就職サポート事業」があり、その特約条項に次のような記載があるんだとか。「▽受給者が就職し、生活保護廃止になった場合▽保護申請中の人が就職し、受給に至らなかった場合―に1人当たり6万1111円が委託料に加算されます。また、職場に定着した場合は、さらなる加算も。逆に、支援を受けた人の就職率が50%未満であれば、基本委託料から割合に応じた減額があります。」
 つまり、「委託料とは別に生活保護打ち切りに結びつけば、成功報酬1件6万円まで払っていた」(宮本岳志全衆議院議員)ってことだ。でもって、業務委託を受けていた民間3社ってのが、パソナ、アソウ・ヒューマニーセンター、パーソナルテンプスタッフだとさ。何か匂うようね。そう、パソナは言わずと知れた竹中平蔵の会社で、アソウ・ヒューマニーセンターはひょっとこ麻生の弟が会長をつとめる麻生グループの人材派遣会社のひとつでしたとさ。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2021-1ー30 気温は10℃ 夜中は4℃と寒い日が続いています。夜半に滝のように降った、ロスアンゼルスの雨はきょう一日だらだらと降り続けていますロスアンゼルスからサンフランシスコ方面へ行く、高速道路は積雪で通行がが閉鎖状態で、ロスアンジェルス市内各地では地崩れの被害も起こっています。カリフォルニアはコロナ患者の減少に成功し、今週から外出禁止命令もゆるくなり、閉鎖を余儀なくされていた飲食業も開店していいとの事です。小中学校の長い期間のリモート授業も、2月から対面授業に切り替え、児童はやっと登校できるようで、去年からの長い自宅待機リモート授業に児童も父兄もよく耐えたと思います。

 『京都新聞』1月29日 近畿日本鉄道と近鉄レジャーサービスは29日、マンボウの飼育で知られる水族館「志摩マリンランド」(三重県志摩市)の営業を3月末で休止すると発表した。

 斎藤 陽子(Walnut, California) 2021-1ー28 夜中に降った雨は明け方には止みましたが、放射冷却現象で寒い朝の南カリフォルニアです。今日一日はカリフォルニア晴れのようですが、また明日から週末まで雨の日々になるとのこと、8ヶ月ぶりの恵みの雨は嬉しいのですが、夏に火災にあった山裾の住土砂崩れの危機にさらされているとのことです。十分に降った雨は彼方の山の裾野近くまで真っ白に雪で覆われて、自然が与えてくれた美しさに見とれています。今年も鉢植えの「河津桜」が2年続きの満開を迎えています。わが家の河津桜ははるばる異国に来て咲くからか、新芽の葉も花とが同時に出ると言う昨年と同じ珍現象ですが、夫婦二人でのカリフォルニアの花見には充分満足な桜です。
 東京はオリンピックが決まった時、道路上にある電柱を全て地下に埋めると小池都知事が宣言していました。これは美観はもとより、災害時の電柱の倒壊などを避ける目的とのこと、訪日する度に目障りなことが一つ解消すると期待していますが、果たして東京の電柱は地下に潜ったのでしょうか。もう一つオリンピックまでに何らかな方法を考えなくてはならないのが、東京のごみ問題です。日本へ行くと、歩道横にポリ袋に入ったゴミ袋の山を見かけます。NHKのニュースでスーパーラットなる殺鼠剤に耐性した、しぶといネズミが繁殖し、中国ではネズミから媒介された病気で死者がかなり出ているとのニュースをし、その関連から日本では特に渋谷、銀座などの深夜過ぎの繁華街に、沢山のネズミが出没している現状ニュースを放映してました。
 気になることは、渋谷、銀座などの深夜過ぎの繁華街などの歩道横にポリ袋に入ったゴミ袋の山を見かけることです。ネズミが来て袋からゴミを食べる事を気にしていない風で、これではネズミも増えることでしょうし、早朝にはカラスなどがごみ袋をつついて、ゴミが散乱している風景など良く見かけます。早急にこのポリ袋の捨て方のシステムの検討もしなければ、オリンピックに向けての美観の観点からも問題となることでしょう。
 カリフォルニアの各市によって、幾らかシステムが異なりますが、ロスアンゼルスの「家庭ゴミ処分事情」は一週間に一度、月にすると4回、市から委託された、このようなゴミ運搬車が来ます。指定された日に、各家庭は支給された写真の様な200リッターの大きさの、蝶つがい状になった蓋つきのゴミ入れ容器を指定されて曜日に、週に一度 歩道へ出して置くと、市が契約したゴミ取り運搬業者がきて、フォークリフトの様に機械でゴミ箱をはさみ、ゴミ運搬のトラックにゴミが投げ混まれる仕組みになっており、全て運転手1人の仕事でその作業は済まされます。このゴミ捨て代金は市からの援助もあり、一軒当たり月2000円のゴミ捨て代金が請求されます。ブラウン色の容器には、台所から出るゴミは分別せず(生ゴミ、紙類、ガラス、プラスチック類)すべて一緒に廃棄し、日本のように焼却はせず(焼却の際に出る有毒ガスなどの環境問題から)、砂漠や谷間などに埋められます。
 庭から出た枯れ葉や剪定した木々などはグリーンの容器に入れて、指定日に歩道に出せば、収集車が持って行き、切り刻み肥料などに還元される仕組みのようです。なお、アルミ缶(1㌔約500円で買い取ります)、ガラス瓶(1㌔100円ほど)の買い取りのスタンドも各所にあります。また訪日した時に一人暮らしを体験した時に、過剰包装の日本では一週間に出るゴミの量が、アメリカ生活に比べて多いのには驚いたものです。エンゲル係数が高いとゴミの量も多くなるようで、「ゴミ問題」を征する都市こそが、真の文化都市と言えましょう。 
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1987年8月 編著 ラブ・オーシュリ・上原正稔 監修 照屋善彦『青い目が見た「大琉球」』ニライ社/2021年1月27日~28日『沖縄タイムス』後田多敦「ギルマール写真と首里城正殿」。図版は『青い目が見た「大琉球」』ニライ社に紹介されている。図版のもとになった写真を確認したということだろう。

 東スポWeb 2021/01/26 森会長の失言がIOC内で不満を買っているという(代表撮影)〝失言王〟への不満がついに海外でも爆発だ。新型コロナウイルスの感染爆発で今夏の東京五輪開催がピンチを迎える中、大会組織委員会の森喜朗会長(83)が国際オリンピック委員会(IOC)をはじめとした海外の五輪関係者から「もうしゃべらせるな!」と怒りを買っている。

 M・T 1-25 自衛隊水陸機動団の辺野古キャンプシュワブへの配備常駐の自衛隊と米海兵隊の極秘合意、これは憲法違反どころかシビリアンコントロールという近代国家の大原則を踏みにじった軍の暴走だ。外交努力より集団安保で軍事力を優先させた安倍政権の暴走、そこに隠されていた軍事秘密だった。これで辺野古は普天間の代替施設ではない米軍と自衛隊の共同軍事基地という これまでにない新しい性格の日米集団安保の軍事基地であることが明白となった。政府の説明が国民を騙し続けてきたことが暴露された。併せて今種子島の馬毛島の基地建設計画との関連も明白になる。それだけに 那覇軍港移設、馬毛島新基地建設が争点になっている 浦添市長選 西之表市長選の意義は一段とはっきりしてきた

  「くろねこの短語」2021年1月23日  (前略) そもそも、感染症において自宅療養なんてのは家庭内感染につながるだけで、なんの解決にもならないんだよね。だからこそコロナ感染者を保護・隔離する施設を整えるのが急務なわけで、そうした状況を踏まえてオリンピック選手村の活用が専門家の間では議論されてきたんだね。ところが一向に国が動かないのはどうしてなんだろうと思ってたら、なんと特高顔のカス総理が強く拒否していたそうだ。フジテレビ『とくダネ』に出演した二木芳人昭和大学客員教授によれば、「ともかく診断された人を現場現場でその都度判断するのではなくて全部どこか大きな宿泊療養所とか待機所みたいなものをつくって、いったんそこに入って頂いてそこで正確な判断をしながら振り分けをしていくと。第1波の時から言っているんですが五輪の選手村を使ってはどうだって話をして、ずいぶん叱られましたけど」
 オリンピック選手村をコロナのための施設として活用するという案をカス総理やフリップ小池君が無視し続ける裏には、選手村がオリンピック後は分譲マンションとして販売される計画があるからなんだね。コロナのための施設なんかに使われたらマンションとしての資産価値は大幅に下がる可能性があるのがその理由に違いない。妄想だけど。カス総理やフリップ知事の考えそうなことで、ようするにコロナより利権が大事ってことだ。そんなんだもの、この非常時にもGO To トラベルについて担当大臣が「新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底するなど必要な見直しを行い、事業の再開を目指したい」なんてクズ発言するわけです。

 ABCニュース1-22 大阪メトロが民泊事業を目的に購入した物件を開業前に売却して、多額の損失を出していたことがわかりました。大阪メトロはおととし、民泊事業への参入を目指し、大阪市浪速区の通天閣近くにある13階建てマンションを約20億円で購入しました。来月から営業を始める予定でしたが、新型コロナの影響で外国人観光客が激減し、事業の見通しが立たないことから去年12月、売却しました。

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1月22日、偶然映画のパンフが出てきた。個性的な悪役で知られる戸浦六宏(1993年、62歳没)も出ている、地井武男(2012年、70歳没)、佐々木愛が出ている。1970年1月『劇映画「沖縄」』/津嘉山正種「地井ちゃんの事」津嘉山氏は最近は瀬長亀次郎役/1月24日『赤旗日曜版』「この人に聞きたいー佐々木愛」/フェイスブックに大里康永をアップしたのも偶然ー1970年3月5日大里康永氏 帰省歓迎会及び出版祝賀会で瀬長亀次郎の祝辞を受ける。

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1936年8月 泊図書館開館準備/1982年7月 大里康永『自由への歩みーわが思い出の記』沖縄時事出版→書評、新報は真栄里泰山氏、タイムスは山城善光氏

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2021年1月20日ー昼、弟がムーチー供える/むつみ橋通り/平和通り/国際通りー臨時休業が目立つ

 ジュンク堂那覇店「第4回新春古書展フェア」に行く。今日の当番は櫻井伸浩さん(ちはや書房)。久しく見なかった、伊波普猷解題の山村耕花編『古琉球紅型』1928年がある。この図録の大半は上里参治が八重山で収集したもので、1928年1月銀座の松屋呉服店、4月京都の大丸呉服店で展観した。
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 自公政権幹部と、その政治家たちは政治資金パーティーで5人以下会食規制も適用外、それなのにコロナ感染抑制だと国民に罰則規定を設けるなんて・・・ふざけるな!「しんぶん赤旗」日刊紙1月16日号電子版

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2021年11月『琉球』(隔月刊)№80 <追悼 崎原盛秀さん>琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947  
下地ヒロユキ「表紙絵」/崎浜盛喜「崎原盛秀先生から沖縄の未来へのメッセージ!!」/大城冝武「風刺画からみる アメリカ統治下の琉球の世相㉙」
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しもじけいこ「宮古IN どうなる?市長選 ・・・自民党への復党を目論む下地幹郎衆議院議員や、保守中道を掲げる国場幸一グループが事務所を構えるなど、4年前とは色合いの違う選挙となっている。片や、候補者選考でバタバタしたオール沖縄側は『自前の候補者』を擁立できず、保守系で前県議の座喜味一幸氏を保革の統一候補者ととし、『ワンチームミャーク』を結成して選挙戦を展開している。」→当選確実の報を受け、支持者と万歳する座喜味一幸氏=17日午後10時50分、宮古島市の選挙事務所/土岐直彦「『任命拒否』菅首相の強権手法ー対学術会議、対沖縄に見る」/島袋マカト陽子「東京琉球館便り70-首里城消失が私に伝えたこと 旧日本軍第32軍司令部壕 1877年の首里城正殿 伊東忠太と伊藤博文・・・沖縄神社について、新城栄徳さんの研究成果『琉文21』は鹿児島新聞の記事を掲載し伝えている」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑳」
 参考ー眼の瞳はウナーを見下ろしいる /1910年10年3月 シーモン/1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」/1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」◎宮里朝光氏□開会の挨拶ー百浦添御殿と言うすばらしい固有名詞があるのに首里城正殿とヤマトゥは言う。識名御殿も識名園と云い世界遺産にも識名園と登録している。
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『新婦人しんぶん』2020-5-21の切り抜き。

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1月15日ー天気がいいので、渡口さん、山田勉さんを訪ねる。那覇市歴史博物館にも行く。
1月14日ーなるみ堂に遊びに行くと、翁長氏から大嶺薫資料のリスト、海洋博資料のリストを見せてもらった。並河善知「復活した琉球泥藍の古法」を見たので、沖縄県立博物館・美術館で「沖縄の藍」展をやっていたので博物館に同行した。

  「くろねこの短語」2021年1月15日  (前略) そもそも、「Go To イート」で外出を奨励したくせに、それが感染爆発につながったとたんに飲食店に対して営業自粛を強要するというポンコツ政策こそがすべての元凶なんだよね。飲食店にしてみれば、「時短要請」に続いての「ランチも自粛」ってのは、営業妨害以外の何物でもない。そりゃあ、サイゼリアの社長ならずとも啖呵のひとつもきりたくなろうというものだ。やっぱり、補償あってこその休業要請でなくてはならないんだよね。カス政権のコロナ対策がどこかピンボケなのは、経済的な支援がとことん抜けているからなのだ。
 持続化給付金や家賃給付金も早々と締め切りになるし、定額給付金についてもまったく見向きもしない。そのくせ、何百億円もかけてアベノマスクなんて不良品をばら撒くんだから、お話になりません。最後に、特高顔のカス総理が朝のホテル会食自粛でストレスがたまってるってさ。馬鹿言うんじゃないよ。コロナによる失業者が巷に溢れ、自殺者だって増加の一途を辿ってるってのに、ホテル会食できないくらいで泣き入れるんじゃねえ。読売もこんな記事書いてる場合じゃないだろうに、ったく。

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Posted by: ryubun02
  「くろねこの短語」2022年1月7日 (前略)あまりの感染者数に、さすがにほっといてはまずいと思ったのだろう、外務大臣の昼下がりのマッサージ・林君が「ブリンケン米国務長官と電話協議し、在日米軍に対して外出制限を導入するなど、新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対策の強化と徹底を申し入れた」ってさ。でも、具体的な対策については何の回答も得られなかったそうで、ようするに「やってる感」を演出するためのパフォーマンスってところか。本気で交渉するなら、日米地位協定見直しの絶好のチャンスなんだから、そこを突かなきゃ政治家とは言えません。・岸田首相、日米地位協定の見直し否定…「現実的な対応が大事」 本紙・東京新聞「水際対策の抜け穴」と質問に<新型コロナ>
 沖縄や山口の米軍由来と思われる感染爆発を見ていると、新型コロナウイルスのそもそもの始まりは中国で開催された軍人スポーツ大会に参加した米軍じゃないかという噂話を思い出す。ちょうどその頃に、アメリカでは原因不明の肺炎が流行っていて、それが新型コロナウイルスで、それを米軍が中国に持ち込んだというわけだその後、トランプが武漢ウイルスなんて喚いて、中国叩きに利用したけど、それは米軍由来を誤魔化すためのものだったんじゃないのか。スペイン風邪だって、大元はアメリカだったんだから、いまの沖縄、山口の感染拡大を見ていると、あり得る話だ・・・妄想だけど。こうなったら、基地外をうろつく米兵に、アベノマスクを配布したらどうだ。どうせ保管料ばかりかかって迷惑してるんだから、一石二鳥だと思うんだが、どうよ。

 「くろねこの短語」2022年1月6日 臆面もなくと言うか、機を見るに敏と言うか、露骨な癒着と言うか、ヘタレ総理が連合の新年交歓会に出席して挨拶しましたとさ。立憲代表の希望の党崩れ・泉君と国民のタマキンも出席していたのに壇上にすら上げてもらえず、そんな光景を指をくわえて見ていたってね。いやはやです。連合ってのは大企業サラリーマンの互助会で、一般大衆労働者諸君とは無縁と言うよりも敵対する組織だってことがよくわかる。「さまざまな課題に立ち向かうには政治の安定が重要だ。参院選では与党に貴重な理解と協力を心からお願いする」ってヘタレ総理はスピーチしたそうで、ここまであからさまに秋波を送ったってことは、既に話はついてたりするんじゃないのか。
 立憲民主党の人も、本当は「連合の正体」に気づいているだろう。連合は大企業正社員が優遇される現状の秩序を守りたい。だから政権交代のような変動要素は望まない。立憲や国民にまとわりつくのは、政権交代させないため。だから選挙支援で貸しを作り自分たちに依存させる。https://t.co/brD1CPxO2i連合会長の反共・芳野君は相も変わらず共産党への敵意剥き出しで、このままだと参議院選は自民党圧勝なんてことも現実味を帯びてくる。そうなると、2025年まで大型の国政選挙が行われない「黄金の3年」が手に入る。そうなりゃあ、改憲を含めたやりたい放題も夢ではなくなりますからね。
 それにしても、連合は舐められたものだ。ていうか、もはや自民党のお手付き集団に堕したってことなのだろう。ま、会長自らが「新しい資本主義実現会議」のメンバーになったり、自民党幹事長のキツネ目の男・茂木君に「初の女性会長なので頑張ってほしい」なんてエール送られちゃうんだもの、それだけで終わってます。

 「くろねこの短語」2022年1月5日 新型コロナウイルスの国内感染者が1200人超となって、とうとう第6波へ突入ってことか。ペテン&ポンコツ政権がコロナ対策の失敗で沈没したように、ヘタレ総理にとってもここは正念場ってことなのだろう。「今後は市中感染が急速に拡大するという最悪の事態が生じる可能性」に備えて、「自治体の判断で陽性者を全員入院、濃厚接触者を全員宿泊施設待機とする現在の取り組みを見直す」ってさ。でもって、「在宅・宿泊療養、入院の体制を強化」するんだと。
 いやあ、これってポンコツ総理の「自宅療養(=自宅放置)」と同じ轍を踏むことになるんじゃないのか。そもそも、自宅療養ってのは、家庭内感染に繋がるのは間違いないところで、本当に自宅療養を機能させるためにはそのための医療体制が必要なんだよね。昨日の年頭会見では、そうしたところがまったく不明のまま。ま、ヘタレ総理って、いつもこんな具合で、口先ではいろいろ言うんだが、だったら具板的にどうするって政策がまったく見えてこない。
 第6波に突入して、感染者が倍々ゲームで増えていけば、当然病床数は逼迫するんだから、自宅療養という手段も止むを得ないのは理解できないこともない。でも、その時に大事なことは、必要な時に適切な医療を提供することができるかどうかなんだね。でないと、それはただの自宅放置ってことになる。ヘタレ総理の頭の中で、コロナ対策がどれだけ具体的なイメージとして描かれているのか。そこが問題だ!

 昨日のエントリーでテレビ朝日『相棒元旦スペシャル』について、ラストシーンにおける杉下右京のセリフに込められた社会的視点と同時に「ドラマとしては物足りなさもある」と書いたんだが、そうした違和感の原因がわかった。ちょっとネタばれになっちゃうんだけど、ドラマの中で非正規従業員が企業に現状改善を訴えて押しかけるシーンがあったんだね。そこでは、デモのリーダーが、持論を喚き散らすヒステリックな女性として描かれていた。そのカリカチュアライズされた演出にちょいと鼻白む思いがしていたのだ。(以下略)
 「くろねこの短語」2022年1月2日 年の初めに改めて思う。テレビってオワコンの極みなんだね。相も変わらず芸NO人の悪ふざけを垂れ流すばかりで、そこにはクリエイティビティのカケラもない。「電気紙芝居」と揶揄されながらも必死になって「テレビとは何か」を追及した先人たちはさぞや草葉の陰でため息をついていることだろう。そんな正月のテレビにあって、テレビ朝日『相棒元旦スペシャル』のラストシーンにおける杉下右京のセリフがちょいと話題になっている。秘書による殺人に関わっていた与党幹部に対して、最後は金目のノビテルを彷彿とせる辛辣な言葉が右京を口を突いて出てくる。こんな具合です。
 「なるほど、あなた方にとって低賃金で働く労働者は国民ではなくモノというわけですか 確かに彼らはあなた方のように何かあればすぐ病院の特別室に入れるわけではない。しかし、そんな人々にも大事な家族や生活がある。どんな人にも守りたいと思うそれぞれの幸せがあるんですよ」
「12歳の少年が何もかも受け入れて諦めて、この世は自己責任だという。困った時に助けを求めることすら恥ずかしいことだと思い込まされている。それが豊かな国と言えるでしょうか? 公正な社会と言えるでしょうか?」「自分たちの利益しか考えない愚かな権力者たちが、このような歪んだ社会をつくったんですよ!」
 ドラマとしてはこれまでの元旦スペシャルに比べて物足りなさがあるんだが、最後に右京が与党幹部にぶつける言葉は、まさにいまの社会状況への批判であり、これこそが制作現場の矜持だったに違いない。これがガス抜きではなく、テレビというメディアが権力と対峙する決意表明になってくれたらいいのだれけれど・・・。

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 令和3年暮れ31日、県内コロナ142人(44人+米軍基地98人)!!なので、国際通り、平和通りに出かけた。/なるみ堂で1964年12月 那覇高等学校社会研究クラブ『おもろ』第一号を見せてもらった。/沖縄のシンボル守礼門絵、自分史を購入。

 『神奈川新聞』12-31 神奈川県の黒岩祐治知事は31日、米海軍横須賀基地における新型コロナウイルス感染対策の徹底を求める緊急要請を外務、防衛両省に提出した。同基地が30日、新たに75人の陽性者を確認したと発表したことに伴う対応。/『琉球新報』12-31 宜野湾署は31日、酒気を帯びた状態で車を運転したとして、米軍キャンプ・シュワブ所属の海兵隊三等軍曹(23)を道交法違反(酒気帯び運転)の容疑で現行犯逮捕した。

 「くろねこの短語」2021年12月31日 この年の瀬に、フリップ小池君が東京オリ・パラは「共生社会を実感する大会だった」と言い出しとります。そして、なんとまあ、「大会の意義やレガシー(遺産)を伝えるプログラムを実施するとともに、1周年記念式典を開催」するってさ。おそらく、どこぞの広告代理店からのプレゼンがあったんだろうね。それにしても、大会経費の不透明性さだって説明責任果たしてないってのに、なんとも能天気だこと。
 そんなことより、コロナ対策はどうしたどうした。オミクロン株の市中感染がジンワリと広がっているってのに、記者会見ではまるで傍観者のような冷ややかさでたんたんと原稿を読み上げるだけなんだよね。1ケ月も欠勤してたのだって、いまだ何の説明もないんだから、東京オリ・パラの記念式典よりも自らの政界引退式典の方が先じゃないのか。
 ところで、ここ数年は、大晦日の恒例としてペテン師・シンゾーのお粗末暴言集で笑い納めしていたんだが、当のペテン師が政権放り出して遁走してしまったので、「今年はこんなバカがいました」で1年を振り返ってみてはいかがでしょう。それでは、皆さん、良いお年を!

 TBS 12-31 海上自衛隊はきのう、山口県の岩国航空基地に所属する隊員3人がオミクロン株に感染していることが確認されたと発表しました。岩国基地を共同で使うアメリカ軍でも、きのう新たに27人の新型コロナ感染者が確認されています。

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大濱 聡 12-30 ■師走某日、金城 実彫刻アトリエに珍客(賓客)来訪。前衆議院議員の辻元清美さんと、『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』の著者・洪玧伸(ホン ユンシン)さん(早稲田大学アジア太平洋研究センター特別センター員)のご両人。金城アトリエの常連さんが集まって歓迎会を開いた(※コロナ対策に備えました)。

 「くろねこの短語」2021年12月29日 官公庁の仕事納めの日に、検察が「桜を見る会前夜祭」をめぐる公職選挙法違反疑惑で、ペテン師・シンゾーを嫌疑不十分ということで再び不起訴にしちゃいました。これで、ペテン師・シンゾーへの捜査は終結となったわけだけど、この結論は検審が「不起訴不当」の議決を出した時に決まってたようなものなんだね。なぜなら、「不起訴不当」ってのは再捜査後に改めて「不起訴」になったら、もうそれ以上は追及のしようがないからだ。これが、「起訴相当」だったら「強制起訴」もあったんだから、ハナっから筋書があったんじゃないのかねえ。妄想だけど。
 おそらく、検察はロクな捜査してないに決まってます。やる気があれば、ペテン師・シンゾーへの強制捜査だってあり得ただろうけど、任意の事情聴取ではそもそもからして腰が引けてます。「捜査で何をしたかはお答えしない」って特捜部副部長は言い放ったそうで、これだけでどこ向いて捜査していたかわかろうというものだ。総理大臣への疑惑ですからね。潔白だって言うなら、それなりの説明責任は捜査当局にあると思うけどねえ。
 結局は、年末のどさくさにまぎれての「不起訴処分」ということで、とんだ仕事納めをしてくれたものだ。ペテン師・ンゾーはさぞかしお腹の調子もいいに違いない。このところ北方領土だの台湾有事だの、妙に口が軽いのも検察の結論がわかっていたからのことなのだろう。こんな男が、これからも永田町を跋扈するかと思うと、なんとも背筋が寒い年の瀬なのだ。

 12-31 本日ウィルス、沖縄44人米98、大阪78人、東京人78人
 12-30 本日ウィルス、沖縄50人米45、大阪52人、東京人64人
 12-29 本日ウィルス、沖縄27人米20、大阪61人、東京人76人
 『朝日新聞デジタル』12-29 沖縄県警は29日、米海兵隊キャンプ瑞慶覧(北中城村など)所属の曹長ジョセフ・エレスミラット容疑者(38)を道路交通法違反(酒気帯び運転)の疑いで現行犯逮捕
 12-28 本日ウィルス、沖縄29人米13、大阪51人、東京46人(1)

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Posted by: ryubun02
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2022年4月 沖縄県立博物館・美術館「第1回シンポジウム・琉球弧の無形文化財の危機を考える」

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高江洲義英氏

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横山學氏(ノートルダム清心女子大学名誉教授)
島袋和幸氏

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新城栄徳、島袋和幸氏、高江洲義寛氏

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2022-4 島袋和幸(090-4920-6952)『本土に出た沖縄・伊江島人』

 「くろねこの短語」4-22 なんとも姑息なことを。自民党安全保障調査会が、「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」に名称変更する提言案を了承しましたとさ。これって、ペテン師・シンゾーが「安全保障法制」を「平和安全法制」にすり替えたのと同じで、ロシアがウクライナ戦略を「特別軍事作戦」といまでも言い募っているのと何ら変わりはありません。もっと言えば、戦時中に、「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と悲惨な状況を美辞麗句に置き換えた大本営の手口そのままなんだね。
 さらに、攻撃対象として「指揮統制機能等」という文言を追加してるんだが、何を意味してるんだろう。「等」と付いているのがなんとも不気味だ。拡大解釈するのに一番便利な言葉ですかからね。そして、防衛装備移転三原則の見直しにも言及している。「侵略を受けている国に幅広い分野の装備移転を可能とする制度を検討」するんだとか。これって、侵略している側にすれば、宣戦布告にも等しいことなんであって、まさにいまのロシアがそうなんだよね。
 自民党安全保障委員会の提言ってのは、つまるところ「いつでも戦争しますよ」宣言みたいなものだ。でも、いまのウクライナの現状からもわかるように、ミサイルがビシバシ飛び交ういまの戦争は、一般大衆労働者諸君がダイレクトに攻撃されるんだよね。「撃ちてし止まん」の玉砕精神で戦えってか・・・。それにしても、コロナ禍で貧困に喘ぐ一般大衆労働者諸君をほったらかしたままで、ウクライナ戦争をいいことに、よくもまあ軍備がどうのこうのと火事場泥棒みたいなことができるものだ。

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山城 明 いいね うるま市 4-19

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末吉安允氏提供
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2022-3 豊里友行『沖縄にどう向き合うか』新日本出版社

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2022-4-18 コロナ禍で疎遠になっていた友人の記者を新報に訪ねる。左から宮城修氏、新城栄徳、米倉外昭氏
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2022年3月 宮城修『ドキュメント<アメリカ世>の沖縄』岩波新書

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Posted by: ryubun02

1903年ー大阪で開催された第五回内国勧業博覧会美術館に出品したもの

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1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会/左端が比嘉崋山


写真・中央が比嘉華山





沖縄県献上衝立図(絵葉書)/上の原画
1928年11月ー昭和天皇御大典献上の螺鈿大衝立の原画(那覇港図・中山門)は比嘉華山、製作は友寄英茂とその弟子たち、衝立の木地製作は宮大工の玉城サンルー(その息子政康は戦後の守礼門復元に関わった)。沖縄県工業指導所で製作した。□1988年6月29日『琉球新報』に「黎明館の『漆絵螺鈿衝立』」が報じられ製作年代は不明とあった。新城栄徳はすぐ比嘉華山の作品と解釈、その旨を岡田新報記者に連絡。1988年7月5日の記事「製作は昭和3年ー鹿児島の琉球『螺鈿大衝立』」となり、序でに比嘉華山の顔写真も紹介した。





鹿児島で沖縄物産を扱う息子のために書いた絵


かわいぎょくどう【川合玉堂】「長閑」
1873‐1957(明治6‐昭和32)
日本画家。愛知県木曾川町に生まれる。本名芳三郎。別号偶庵。1887年京都に出て望月玉泉,続いて幸野楳嶺に師事。その後,橋本雅邦の《竜虎図》に感動,96年上京してその門に入る。狩野派を学び,岡倉天心,雅邦を指導者とする日本絵画協会に出品し,しだいに注目される。1907年東京府勧業博覧会出品の《二日月》が好評を博し,第1回文展以降審査員となる。四条派の親しみやすい即物的作風と,狩野派の折り目正しい品格を合わせた画境を開き,第2次大戦前の日本のどこにでも見られる風景と生活を主題とした。(→コトバンク)


比嘉崋山「臼アラサー」

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比嘉崋山作


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