音楽サロン表紙 目次 バロック目次 作曲者別作品表 時代別作品表 制作者:国本静三  わが指針 



ヘンデルの生涯――運命の軌跡――


 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich Händelドイツイギリス(1685-1759




<誕生はバッハと同年、最初の仕事>


 ヘンデルHändelドイツイギリス(1685-1759ドイツハレ1685年2月23日に生れバッハはアイゼナハでヘンデルの約一ヶ月後の3月21日に生れた。1702年にヘンデルは法学を学ぶためにハレ大学に入り、この年にカルヴァン派1)のハレの大聖堂のオルガニストになる。両者ともドイツ福音主義ルター派の教会信徒として生まれている。この教派はルターLutherドイツ(1483-1546)宗教改革(1517年)によって生れたプロテスタント教派で、本格的なプロテスタント教会の始まりであった。その後、より過激なプロテスタントとして生まれた新派であるカルヴァン派の教会が、他の教派の信徒の働き手を受入れることは考えられない時代であった。ヘンデルはどうしたのか? この派に転身したのか。若きヘンデルにとってハレの大聖堂オルガニストは光栄に充ちた仕事であり、このためにルター派からカルヴァン派信徒に改宗したと考えても不思議なことではなかった。

 ヘンデルがハンブルクで得た最初の友人は、マッテゾンJ.Matthesonドイツ(1681-1764)であった。彼は作曲家で音楽理論家、後にヘンデルが第二の故国となる、いや自国として選んだイギリスと関係をもつようになったのもこのマッテゾンを通してであったかもしれない。彼らはお互いに啓蒙し合う友人関係を結んでいた。マッテゾンの著作「登竜門への基礎Grundlage einer Ehrenpforte」(1740年出版)において、ヘンデルがオルガンとフーガと対位法、特に即興に優れている、としている。だが、旋律については劣っている、と記している。それはヘンデルの特性の一つをを言い当てていた。マッテゾンは、ヘンデルの旋律上の様式完成を導いたといわれている。

 1703年、当時の大音楽家ブクステフーデBuxtehudeドイツ(c.1637-1707)のいるリューベックに、マッテゾンと連れだって二人は行っている。ヘンデルの重要作品分野であるオラトリオのために、この時ヘンデルはブクスフーデからオラトリオに関して多くの影響を受けた。後にバッハもブクステフーデに会いにやって来るが、このように後に大物となる人たちがこぞってブクスフーデを訪れたのは興味深いことである。ブクスフーデの当時の評価の高さが偲ばれる。


[注]


1) ルターの影響を受けて各地で教会改革者が現れた。その一人がカルヴァンCalvinフランス(1509-64)で、改革に熱心な都市の一つジュネーヴで改革を行う。ルター派より革新的とも言え、より禁欲的で厳格な考えをもっていた。実際にはカルヴァン派という名称の教派は存在しない。だが、カルヴァンは改革派Reformed長老派Presbyterian churchesを含めた一般的に用いられる総称といってよい。改革派はドイツ、オランダなどヨーロッパでの名称、長老派はスコットランドで始まり、英語圏での呼称となった。


<オペラ、そしてイタリアとの出会い>


 1705年ヘンデルはハンブルクではマッテゾンJ.Matthesonドイツ(1681-1764)と、オペラ作曲家カイザーR.Keiserドイツ(1674-1739)との交流の中で、色んなもめ事が起こった。ヘンデルはマッテゾンと決闘騒ぎを起している。後に和解を果たしたが。カイザーがこれを収めた。ヘンデルに友好的なカイザーではあったが、ヘンデルの最初のオペラ「アルミーラHWV1」(1705年初演ハンブルク、ドイツ語オペラと2番目のオペラ「ネロHWV2」(1705年初演ハンブルク、イタリア語オペラ、散失)大成功を妬んだといわれている。そうしている内にさらにハンブルクのオペラ劇場は衰え始め、ヘンデルにとって満足のできる音楽活動がハンブルクではできなかった。

 こうした時、イタリアの貴族ジァン・ガストーネ・デ・メディチGian Gastone de' Mediciイタリア(1671-1737)に出会った。彼はトスカーナ大公の兄弟で、メディチ家血筋の最後の人となる人であった。彼からヘンデルはイタリア音楽の話を聞いた。だがこの時はヘンデルはイタリアとイタリア音楽に全くといってもよいほど興味をもっていなかった。ジァンは蒐集したイタリア音楽の楽譜をヘンデルに貸し与え、フィレンツェに来ればイタリア音楽の真髄を示したいと申し出たが、ヘンデルはこの時はまだイタリアについては興味も示さず、心も動かなかった。


1706年〜10年のイタリア時代>


 1706年の秋、突然にヘンデルはイタリアに出発し、1710年1月か2月頃までの約3年半がヘンデルのイタリア時代となった。このことは、メディチ家最後のトスカーナ大公ジァン・ガストーネ・デ・メディチGian Gastone de' Mediciイタリア(1671-1737)との出会いなくしては考えられないことであった。この時期のイタリアは、スペイン王位継承戦争(1701-14)の最中であった。ヘンデルはヴェネツィアを経てフィレンツェに入った。当時アレッサンドロ・スカルラッティA.Scarlattiイタリア(1660-1725)が活躍していた。彼は若い21歳のヘンデルとは全く比較にならない名声を馳せた大作曲家であった。ヘンデルは手始めにフィレンツェでいくつかのカンタータを作曲する。

 1707年4月に復活祭のためにローマに行った。オラトリオ誕生の地ローマは、オラトリオについては優れていたがオペラについてはまだまだ遅れていた。教会音楽と室内音楽が盛んな地であった。ヘンデルはここで教会音楽を学び、ここでラテン語をテキストとする教会作品を多く書いている。

 「わが主に賜った主のみことばDixit Dominus(詩編109<現110>)HWV232」(1706-07年作曲)「主のしもべらよ、主を賛美せよLaudate pueri Dominum(詩編112<現113>)HWV236」(c.1706年作曲)、トスカーナ宮廷のルクレツィアという女性歌手によって初めてイタリア歌曲のすばらしさを知った。まだまだドイツ風の作品であったがイタリアとドイツでは知られた作品となった彼女のために書いた通奏低音付き独唱カンタータ「おお、永遠の神々よO numi eterni(ルクレツィアLa Lucrezia)HWV145」(1706-07年作曲、通奏低音・通奏低音、イタリア語)など合わせて10曲余りの独唱と器楽伴奏付きカンタータ、4曲の二重唱カンタータ、5声のソナタも作曲した。これらのラテン語による声楽作品は、明らかにカトリック教会のための作品だった。それは歌詞テキスト自体が、カトリック神学を映し出したものであったからである。

 1707年5月にはローマのルスポリ侯爵の屋敷に入り、1708年11月までここの宮廷で活躍した。ルスポリ侯爵宮廷のための多くの作品を書き、初演している。コロンナ枢機卿やオットボーニ枢機卿邸、グリマーニ枢機卿などの宮廷で大活躍した。これらの宮廷はローマのエリートの集りであった。その一つ、オットボーニ枢機卿邸での夜会で音楽会や詩の朗読が行われた。この枢機卿はコレッリCorelli(1653-1713)が主席ヴァイオリン奏者を務める優れた管弦楽をもち、システィーナ礼拝堂聖歌隊を牛耳っていた。2つのローマ様式によるオラトリオ「時と悟りの勝利Il trionfo del Tempo e del Disinganno HWV46a」(1707年作曲初演ローマ、イタリア語「復活Oratorio per la Resurrezione di nostro Signor Gesu Cristo HWV47」(1708年作曲初演ローマ、イタリア語を枢機卿の演奏会のために作曲した。

 オラトリオ「復活」1708年4月ルスポリ邸においても上演された。演奏にはコレッリの率いる45人の演奏者が参加した。後の大作メサイア」を彷彿とさせる名曲である。またその原形となる作品でもある。しかもイタリア語の台本で、ヘンデルのイタリア語習熟のために大いに利したものになった。彼はこれ以前にドイツ・オペラ(ドイツ語オペラ)1つとイタリア・オペラ(イタリア語オペラ)1つを書いているが、これ以後約43作のイタリア・オペラを作曲することになる――イギリスに渡ってからもイタリア語オペラを書いた。他におびただしい数のイタリア語のカンタータがあり、その一例である「はかない足跡を追ってDietro l'orme fuggaci(棄てられたアルミーダArmida abbandona)HWV105」(1707年作曲、ソプラノと2vl.とb.c.のため、イタリア語をバッハが1715年以前に写譜している。このことはバッハがヘンデルに強い興味を示したという証拠であろう。

 ヘンデルはローマで3人のイタリアの有名作曲家と親しくなった。それはコレッリCorelli(1653-1713)と2人のスカルラッティすなわちアレッサンドロ・スカルラッティA.Scarlatti(1660-1725)ドメニコ・スカルラッティD.Scarlatti(1685-1757)(この2人は父と子=四男)であった。ドメニコとはチェンバロ演奏で枢機卿の夜会で競い合った。結果は引き分けになるが、オルガンではヘンデルの勝ちになった。ヴァティカンの聖職者もヘンデルに興味をもち、カトリックへの改宗をすすめた。これをヘンデルは拒絶したと伝えられている。このことはこの若きドイツ・プロテスタント教徒とカトリックのパトロンである枢機卿たちとの友誼の支障にならなかったことを示している。当時のカトリック社会のおおらかさがおもしろい。しかし、この時、憶測でいうのであるが、ヘンデルが改宗したということも否定はできないのである。それは最後にヘンデルはイギリスで英国国教会の信徒になったからである。

 1707年10月ヴェネツィアへ行く。当時のヴェネツィアはイタリアの音楽の首都ともいうべき所であった。とりわけオペラの中心地で、1637年に史上初の公開オペラ劇場サン・カッシアーノが造られ、17世紀末には17のオペラ劇場が存在した。教会でも教会音楽の演奏会が行われていた。サン・マルコ教会では複数群の管弦楽、オルガン、合唱団による協奏曲様式(←複合唱cori spezzati 様式)の音楽が演奏されていた。この教会には主祭壇内陣左右の上部に2台のオルガンと合唱隊と演奏のために多数のバルコニーがあり、音響にも優れている。かってサン・マルコの楽長を務めたモンテヴェルディMonteverdiイタリア(1567-1643)の作品は、今もそのよすがを示している。またピエタ養育院ではヴィヴァルディVivaldiイタリア(1678-1741)による演奏会が毎日曜や祭日に行われ、彼の作品は出版もされヨーロッパ中に知れ渡るほど有名であった。

 11月から12月にかけてフィレンツェに行った。その目的は自作オペラ「自らに勝つことは最大の勝利である(ロドリーゴ)(1706-1707年作曲、イタリア語の初演のためで、おそらく11月と12月の初めにヴィア・デル・ココメロ劇場で上演された。序曲は1707年完成し、他はローマで完成した。台本はメディチ家のフェルナンドで、このオペラ初演のためにフェルナンドの父トスカーナ大公が金貨100枚と1セットの皿をヘンデルに与えたという。

 1708年5月か6月ナポリに行く。1709年の春まで滞在したが、君侯のような待遇を受けた。こうした生活の中でヘンデルは絵画に対して情熱的な興味をもつようになる。そしてナポリではコスモポリタンな社会の鷹揚さを楽しみ、ナポリ、シチリア、カラブリアの旋律やリズムを吸収した。スペインとフランスの影響の強いこの町でそれらも吸収して、それらの様式を生かした数々のカンタータなども作曲した。特にシチリアーノsicilianoといわれるシチリア舞曲で8分の6拍子系のリズムが気に入り、以後のオラトリオやオペラに取り入れている。これはバッハも同じで協奏曲、オラトリオ、受難曲、カンタータ、ソナタなどに多く取り入れることになる。

 1709年ナポリを経てローマ経て再度ヴェネツィアに向う。ローマでヘンデルに大きな影響を与えたステッファニーSteffaniイタリア(1654-1728)と連れだって行ったらしい。ヘンデルとステッファニ−は、ローマの枢機卿の館で出会った。彼は作曲家・司祭・外交官でハノーファー公2)に仕え、オペラ劇場の楽長であった。丁度、教皇とドイツ皇帝の関係を調停するためにハノーファー公は、ローマに滞在していた。ステッファニーはイタリア音楽とドイツ音楽の中間的位置にいたので、このことはヘンデルにはたいへん興味ある存在であったし、ヘンデルに重大な影響を及ぼした。特にステッファニーは歌曲作品に優れていて、特に二重唱の作風はテレマン、バッハにもその影響は及んでいる。

 ヘンデルのオペラ「アグリッピーナAgippina HWV6(1709年作曲、12月26日ヴェネツィア初演、イタリア語がサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で1709年12月26日から1710年にかけて上演され、大成功となった。外国人、いやドイツ人がこんなに喝采を受けることは、当時としては考えられないことであった。ヴェネツィアでのこの熱狂は全ヨーロッパに広がることを意味していた。このオペラの台本はナポリで愛顧を得たナポリの総督グリマーニ枢機卿が書いた。彼はヴェネツィア人で、初演のグリゾストモ劇場は彼の一族のものであった。このような成功のための条件は一応整っていたし、絵に描いたような運のつき方だった。
 またヴェネツィアでヘンデルは、ハノーファーの貴族たちにも出会った。彼らにハノーファー行きを勧められ、ステッファニーも自分のハノーファー宮廷楽長の地位をヘンデルに提供した。1710年2月頃イタリアを去ってハノーファーに行くことになるのはこのためである。

 イタリア・デヴューの独唱カンタータ「おお、永遠の神々(ルクレツィア)HWV145」にはじまり、オペラ「アグリッピーナHWV6」に終わったイタリアにおけるヘンデルの活動と野望は、驚くべきものであった。イタリアではどっぷりカトリックを背景に活動した。このような活躍は、高位聖職たちをパトロンにしないことには考えられないことであった。また、カトリックに改宗しないことには受け入れられない身の振り方でもあったことも驚きである。たしかにこの時期に作曲された教会音楽はすべてカトリック教会用のものであった。


<ハノーファーからロンドンへ(1710-19年)>


 1710年25歳のヘンデルは6月16日付でハノーファーの宮廷楽長に任ぜられ、ハノーファーにほんの少しいた。1ヶ月少しの7月末にデュッセルドルフ、9月にオランダを経てロンドンに向い、1710年晩秋ロンドンに着いた。これ以後も一応ハノーファーに宮廷楽長の席を置き、何かと名目を作りながらドイツとイギリスを行き来しながら、ロンドンでの音楽活動の手を広げていった。ロンドンに定住するにはもう少し時間が必要であった。

 ヘンデルが初めてロンドンに来た時、イギリス音楽の時代は終っていた。イギリス音楽史上最大の音楽家の一人であるパーセルPurcellイギリス(1659-95)が、15年前に36歳で夭折していた。この天才音楽家は宮廷音楽にも教会音楽にも大きな力を発揮した。当時の最先端のイタリア音楽も吸収しながら、イギリス風の自国の精神を失わなかった。彼の音楽は現代の我々にとっても、典雅な貴族的世界の具現そのものとと言えるものである。ヘンデルはこの天才を自分に取り入れることを怠らなかった。ヘンデルはこの未知の国イギリスで歩むべき道を先ずパーセルの中に見い出していた。
 イギリスはパーセル死後、イタリア人のオペラ歌手たちが力をふるっていたし、外国人たちによってイギリス音楽は牛耳られていたといってよいだろう。そうした動きの中でイギリスは、イタリア音楽を吸収したドイツ人音楽家たちに征服されて行く運命にあったと言ってよいかもしれない。実際、ヘンデルはそうした最初の征服者となった。

 ヘンデルは音楽好きでチェンバロを巧みに弾くアン女王からオペラ劇場支配人ヒルに紹介された。これによってイギリスでのオペラ作曲の機会を得た。台本はヒルの英語版台本に基づくが、ロッシによるイタリア語翻訳によるオペラ、つまりイタリア・オペラであった。台本も作曲も2週間で書かれたオペラ「リナルドRinaldo HWV7a」は、1711年2月24日にヘイマーケットのクイーンズ劇場で初演された。これがロンドンにおけるヘンデルのイタリア・オペラの勝利を決定的なものとした。とはいえこれ以後ヘンデルがロンドンに定住するまでまだ迷いがあった。ドイツかイギリスか教会音楽かオペラか迷う時期(1711-16年末)であった。ハノーファーに帰ってもオペラ劇場は閉鎖されていた。ハノーファー家もイギリス王位継承を望んでいたので、ヘンデルを愛していたアン女王と親密にする必要があり、ヘンデルの存在は貴重であった。そのため再びヘンデルは休暇が与えられ、1712年11月末ロンドンに戻った。名目はオペラ「忠実な羊飼Il pastor fido HWV8a」(1712年作曲初演、イタリア語の初演のためであり、20日間でオペラ「テセオTeseo HWV9」(1712年作曲、1713年初演、イタリア語も書き上げた。初演は1713年1月であった。

 イギリスの法律では外国人が国家的式典音楽の作曲に任ずることを禁じられていた。しかし、1713年2月6日に世渡り上手なヘンデルはアン女王の誕生日のために初めての英語テキストによる教会音楽オード(頌歌)「アン女王誕生日のためのオードOde for the Birthday of Queen Anne HWV74」を作曲し、聖ジェイムズ教会で演奏した。それに魅せられた女王は、スペイン継承戦争終結のウトレヒト条約のための音楽をヘンデルに作曲依頼した。同年7月7日に聖ポール大聖堂での盛大な式典の時に、国会議員列席のもとに「ウトレヒト、テ・デウムTe Deum,'Utrecht' HWV278」「ウトレヒト、ユビラーテJubilate,'Utrecht' HWV279」が演奏された。これらはパーセルを手本としたものであり、イギリス王室公式音楽家になることに成功させた作品となった。王室は200ポンドの年金をヘンデルに与えることとなる。

 ヘンデルの世渡り上手に加えて、国の動きもヘンデルのために動いていったようだ。1714年8月アン女王が死去し、ハノーファーの選帝侯が9月にウィンザー家初代ジョージT世として王位に着いた2)のである。ヘンデルはハノーファー宮廷楽長としての給与を得ていたし、王室公式音楽家の給料も400ポンドから600ポンドと引き上がっていった。

 1716年7月、ジョージTのハノーファー行きにはヘンデルも伴っている。ドイツでは敬虔派の動きの中で受難音楽が流行っていた。カイザー、テレマン、マッテゾンはハンブルクの元老院議員ブロッケスの台本によって受難曲を作曲して大評判をとっていた。ヘンデルも同じブロッケスの台本「世の罪のために苦しみ死んだイエスDer für die Sünden der Welt gemarterte und sterbende Jesus(ブロッケス受難曲Brockes Passion)HWV48」(1716年作曲ハンブルク初演、ドイツ語を作曲した。これはヘンデルがドイツ語で作曲した最後の作品になり、後の英語オラトリオの礎石を築く作品でもあった。また、この受難曲はバッハにも強い印象と影響を与え、最後までバッハが記憶に留めていた作品であった。

 1716年末、このドイツ旅行中に再会した大学時代の旧友の毛織商シュミットをロンドンへ連れ帰った。シュミット(英語ではスミス)は財産と妻子を残し、生涯をヘンデルに捧げ、彼の事務や音楽の仕事の世話(楽譜の清書など)をした。なおシュミット死後は彼の息子が同じように引き継ぐことになる。ちなみにヘンデルは生涯結婚をせず独身であった。ヘンデルはイギリスでは英語式にアンデルと呼ばれていた。

 1717年から1720年はロンドン郊外キャノンズカーナヴォン伯爵(1719年以後シャンドス公爵)の邸宅で宮廷作曲家を務めている。ヘンデルにとっては自己の個性の自覚と、音楽とドラマとに新しい様式を創り出す時期となった。「シャンドス・アンセム'Chandos' Anthems HWV251b、248、247、250a、256a、252、246、253、254、249b、255」(1717-18年作曲、英語、マスク劇のために「エーシスとガラティアAcis and Galatea HWV49a」英語「エステルEsther HWV49」(初稿1718年作曲初演キャノンズ? 英語)を1718年に作った。これらの英語テキストによる作曲はイギリスへの傾斜を示しているが、ヘンデルの音楽はイタリア様式であった。


[注]


2) イギリスのハノーヴァーファー朝初代国王ジョージGeorgeT世(在位1714-27年)。ドイツのハノファー選帝侯ゲオルグGeorge(在位1698-1727年)でもあった。英語も充分に話せなかったという。この出身・兼任状況がハノーファー宮廷音楽家となったヘンデルに大きな運命の転換となった。それはイギリス王室音楽家へと導く。ステュアート朝アン女王が後継者無く死去後、1714年にイギリス国王となったジョージGeorgeT世。



ロンドンでのイタリア・オペラ(1719-28年)>


 ヘンデルは<ロイヤル音楽アカデミーRoyal Academy of Music>というオペラ団体の設立に尽力するために、ロンドンに戻って来た。これによってヘンデルのイギリス定住は確実なものになる。貴族たちの発起により国王の保護のもとに、イタリア・オペラを21年間上演するとういう大企画であった。それまでの宮廷オペラのあり方とは、全く異なったものであった。ヘンデルはこの団体の音楽監督に就任する。

 1719年5月にアカデミー発足と同時にイギリスに呼び寄せる歌手との契約ためデュッセルドルフ、ハレ、ドレースデンに訪れた。ハレでは家族と共に過したが、この時そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハヘンデルに会いに行ったが、ハレに着いた日にヘンデル出発した後だった

 ヘンデルは1723年王室礼拝堂作曲家任ぜられる

 左画像の青のプレートの拡大画像








ヘンデル、ロンドンブロック・ストリートBrook Street 25の住居。1723年から死まで暮らした。現在はヘンデルの涯と績に関する博物館となっている(2階から上部)。
2008年の撮影画像。


 1727年2月20日、ヘンデルはイギリスに帰化する。こうしてイギリス国籍を取得し、正式に英国民となった。
 1727年6月にジョージTが死去し、ジョージUの戴冠式ため英語による「戴冠式アンセムCoronation Anthems HWV259、261、260、258」を作曲した。1727年10月11日ウェストミンスター・アビー教会初演され、ロンドンの人々に感銘を与えた。これは後の英語によるオラトリオという道を予見するものであったと言えよう。

 ロイヤル音楽アカデミー1728年挫折するまでオペラを487回上演した。そのうちなんとヘンデルのオペラは245回上演された。ヘンデルのライヴァルはボノンチーニG.Bononciniイタリア(1670-1747)だったといわれている。「エジプトのジュリオ・チェザーレGiulio Cesare in Egitto HWV17」(1723年作曲、1724年初演、イタリア語は、ヘンデルのイタリア・オペラの絶頂期を示すものであった。出演したイタリア人歌手の人気もたいへんなものであり、ヘンデルの人気に拍車をかけた。だが、一連のイタリア・オペラ上演の度にイタリア人歌手たちに払われる出費は莫大なものとなり、アカデミー挫折の原因となる。アカデミー最後の興業1728年6月1日「テッサリア王アドメートAdimeto,Re' di Tessaglia HWV22」(1726年作曲、1727年初演、イタリア語であった。その後も「イングランド王リッカルド1世Riccard Primo, Re'd'Inghilterra HWV23」(1727年作曲初演、イタリア語の上演もあった。

 ヘンデルのかげりのもう一つの原因は、ゲイGayイギリス(1685-1732)ペープッシュPepushドイツ(1667-1752)「乞食オペラBeggar's Opera」1728年初演の大当たりにあった。このバラッド・オペラBallad Operaは、アカデミー・オペラや政治家と宮廷人を皮肉った内容であった。概ね台詞入りで歌芝居の形をとっていた。後のジングシュピールオペラ・コミックオペレッタ、さらにミュージカルにつながるものであろう。「乞食オペラ」の牢獄の場面ではヘンデルの「タメルラーノTamerlano HWV18」(1724年作曲初演、イタリア語、「ラダミストRadamisto HWV12a」(1720年作曲初演イタリア語)、「フロリダンテFloridante HWV14」(1721年作曲初演、イタリア語をパロディ化していたので大喜びされた。何よりも「乞食オペラ」大成功の理由は、イギリス人に理解できる英語オペラであったからである。ヘンデルもこれに負けじと新作オペラ「ペルシア王シロエSiroe,Re'di Persia HWV24」(1728年作曲初演、イタリア語「エジプト王トロメーオTolomeo,Re'di Egitto HWV25」(1728年作曲初演、イタリア語で応酬した。だがイタリア語によるオペラでは、巻き返しの効果は得られなかった。 最大の理由はロンドン子がイタリア語を理解できなかったからである。オペラはイタリア語によるという固定概念が、終りを迎えようとしていたのである。イギリス人は、言語が解らない音楽の方が深遠、と考えるような人間ではなかった。



<再出発のアカデミー、そして分裂(1729-34年)>


 1729年1月よりロイヤル・アカデミー音楽監督ヘンデルとマネージメントのハイデッガーは、新たな経営方針で5年を目処に再出発をした。ヘンデルはこの年の2月にヴェネツィアとローマへ新しい歌手を探しに1年近い旅に出た。6月にヴェネツィアで母が中風にかかったという知らせを受け、ハレに向かった。この時バッハの長男フリーデマンの訪問を受けている。ヘンデルにバッハからのライプツィヒ招待を申し出たが、ヘンデルは断った。これで永遠にバッハとの出会いは無くなった。

 1732年2月23日ヘンデル47歳の誕生日にオラトリオ「エステルEsther HW50b」(第2稿第2稿1732年上演、英語が、5月2日に第2稿でロンドンのキングズ劇場で上演された。これはロンドンにおける最初の英語オラトリオ上演となった。イタリア歌手とイギリス歌手を交えて行われたが、イタリア人の英語歌唱は当然のことながら珍奇なものだったという。

 1733年、ついにアカデミーは分裂した。これはヘンデル独裁支配に対する反発から起こった。その結果、ヘンデルは6月半ばに、リンカンズ・イン・フィールズ劇場で<貴族オペラOpera of the Nobility>という新しいオペラ団体を設立する。


<オペラからオラトリオへ転身(1734-41年)>




 1734年、ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場でも音楽監督を務めることになった。1734-35年は順調に進むが、1734年夏に健康を害してタンブリッジの鉱泉で静養している。1735年春オラトリオを次々と上演した。「エステルEsther HW50b」(第2稿1732年初演ロンドン、英語を6回、「デボラDeborah HWV51」(1733年作曲初演ロンドン、英語を3回、「アタリアAthalia HWV52」(1733年作曲初演オックスフォード、英語を5回演奏し、3月のキングズ劇場でのオラトリオ「エステルEsther HW50b」(第2稿1732年初演ロンドン、英語では、幕間にヘンデル自身のオルガンでオルガン協奏曲を2曲披露した。これが好評のためこのパターンが定着していく。これらの上演は3月から4月の四旬節に行われた。その後にオペラ「アルチーナAlcinaHWV34」(1735年作曲初演ロンドン、イタリア語をコヴェント・ガーデン劇場で初演し、18回も上演された。これはヘンデルの最後のイタリア・オペラのヒット作となった。

 1736年オラトリオ「アレクサンダーの饗宴Alexander's Feast HWV75」(1736年作曲初演ロンドン、英語のコヴェント・ガーデン劇場での初演は、大成功をもたらした。その理由は、優れたイギリスの詩人による詩とよいヘンデルの音楽のためであった。

 1737年4月17日脳卒中に見舞われ、右手の麻痺が起り、指揮が出来なくなった。11月初めまでドイツのアーヘンに静養に出かけ、貴族オペラは解散同然でコヴェント・ガーデン劇場も殆ど破産状態となった。これ以後もオペラの新作が作られて行くが、成功にはつながらなかった。オペラ「セルセ HWV40(1637-38年作曲、イタリア語はそうした時期の作品である。ヘンデルは当時のやり方の従って多くの男性役にカストラート(去勢歌手)を当てた。カストラーとはイギリス人は好まなかった。さらにイタリアから歌手を呼んでの上演も経済摩擦を起こしたし、しかもすべてのヘンデルのオペラはイタリア語によるイタリア・オペラであったのでイギリス人には理解できない。これらのことがイタリア・オペラ離れの原因ともなっていく。1738年の春から快復に向い、1739年オラトリオ「サウルSaul HWV53」(1738年作曲、1739年初演、英語オラトリオ「エジプトのイスラエル人Israel in Egypt HWV54」(1739年作曲初演、英語をキングズ劇場で初演した。

 彼の最後のオペラ「デイダミアDeidamia HWV42」(1740年作曲、1741年1月初演、イタリア語1741年初演されたが、ロンドンの聴衆はすっかりイタリア・オペラへの関心を失っていて、完全に不成功に終った。


<英語オラトリオ作曲家へ(1741-59)>


 ヘンデルが英語オラトリオ作曲家に完全に転身する分岐点は、メサイアMessiah HWV561742年の初演であった。ロンドンの聴衆にそっぽを向かれて落胆したヘンデルは、イギリスを離れて故国ドイツへ帰ることを考えていたといわれる。
 彼の逆境をみかねたチャールズ・ジェネンズCharles Jennensイギリス(1700-73)は聖書を題材にした自作の台本「メサイア」への作曲を勧め、収入にもなるようにと上演の機会を作ることにも奔走したのであった。ヘンデルはジェネンズの台本に大きく心動かされたし、丁度ダブリンからオラトリオの慈善演奏会の要請もあった。それはアイルランド総督キャヴェンディシュCavendishによる依頼であった。これがヘンデルにとって究極の好運の女神の微笑みとなった。

 かくしてヘンデルは再起をかけて「メサイア」の作曲に打ち込むことになる。ヘンデルがこの作品にかけた情熱は大変なものだった。ヘンデルの手書きのスコアには独語、英語、ラテン語と伊語によって書かれた3つのメモが書き綴られている。それは“1741年8月22日着手”S.[=Solo] D.[=Deo] G.[=Gloria] (神のみに栄光あれ) オラトリオ完成 G.F.ヘンデル 1741年9月12日”である。

 この記録からみると、わずか22日間で全曲を仕上げたことになる。それにも拘らず慎重に初演の時を選んで計画をたてている。1742年4月9日公開リハーサル4月13日ダブリン初演された。上演休憩時にはヘンデルのオルガンで自作のオルガン協奏曲が演奏され、これも大きな成功を収めた。ほぼ£400の純益は、ダブリンの3つの慈善団体に寄付された。これは収益のほぼ全額が寄付されたことを意味する。その時の記事を引用すると次のようである。

 先週の火曜日にヘンデル氏の聖なるグランド・オラトリオ「メサイア」が、フィッシャンブル街のニュー・ミュージック・ホールにおいて演奏された。最高の批評家たちは、この作品を最も完成された楽曲とみなしている。それが満場を埋め尽くした聴衆に与えた絶妙な歓びは、筆舌に尽くしがたいものがある。最も高邁、荘厳、感動的な言葉で表そうとするならば、この曲の崇高さ・高貴さと優しさが、恍惚となった聴衆の心と耳を奪い、魅了したのである。ヘンデル氏が寛大にも、この大演奏会の純益をダブリンの慈善団体に寄贈したことも、広く世人に認識せられるべきである。それは囚人救済協会、慈善診療所、マーサーズ病院の団体に平等に与えられることになっており、彼らはいつまでもヘンデルの名前を、感謝とともに記憶することであろう。・・・・・・

          新聞『フォークナーズ・ダブリン・ジャーナル』の初演記事より


 初演後さらに5月と6月にダブリンでオラトリオ「サウルSaul HWV53」(1739年ロンドン初演、英語オラトリオ「メサイアMessiah HWV56」(1742年ダブリン初演、英語が1回ずつ上演された。8月末ににロンドンに帰り、来るべきシーズンのためオラトリオの上演の計画を始める。1743年3月のロンドンのコヴェント・ガーデン劇場での演奏は、さほど話題にならず、むしろこうした宗教的な作品が劇場上演(劇場オラトリオ)の是非論に話題を提供したにすぎなかった。このような論争が長い間続いていた最中にあったからである。しかし、1749年以降徐々に「メサイア」はその素晴らしさが認められるようになる。




<栄光の
「メサイア」から死まで(1741-59年)>



 1750年以降、ロンドンの孤児院の募金のために同院で毎年上演するようになった。これによって「メサイア」の人気を上げていく。ヘンデルの死までの間に総計68回上演されたと記録されている。「メサイア」は彼のどのオラトリオ上演回数よりも多かった。その後、何度も改訂と再演されていく。現在、初演時の楽譜は残っておらず、最も古いスコア楽譜は1754年5月15日の演奏されたものが残っていて、孤児院版楽譜といわれるものである。14番目オラトリオ「メサイア」と同時に作曲された15番目オラトリオ「サムソンSamson HWV57」(1741年作曲1743年初演ロンドン、英語以後、14曲の英語オラトリオが作曲されていく。「ベルシャザルBwlshazzar HWV61」(1744年作曲1745年初演ロンドン、英語「ユダス・マカベウスJudas Maccabaeus HWV63」(1746年作曲1747年初演ロンドン、英語「テオドラTheodora HWV68」(1749年作曲1750年初演ロンドン、英語が有名である。

 因みに改作を除くと29曲オラトリオ(その台本の言語は受難曲:ドイツ語1オラトリオ:イタリア語4英語オラトリオ24である)をヘンデルは生涯のうちに作曲した。オペラの方はドイツにいる時からイタリア語によるオペラ、つまりイタリア・オペラを作曲していた。生涯でオペラ約45曲作曲したが、現存するドイツ語によるドイツ・オペラは1曲のみで、他はイタリア語によるイタリア・オペラである。当時のオペラの状況をみると、オペラの言語はイタリア語という固定観念も西洋にはあった。

 当時は産業革命の結果が形成されつつあって、イギリス中産階級の支持を受けることに成功した。またオーストリア継承戦争に勝利したイギリスが、アーヘンでの平和条約締結(1748年を祝う1749年4月27日の記念祝典のために作曲され、上演されたのが「王宮の花火HWV351」(1749年初演)である。グリーン・パークの花火大会の付随音楽として演奏された。6楽章のうち第1楽章は管楽器群と打楽器郡x2のために作曲した。後に弦楽パートも書き入れる。他の楽章は管弦楽用に作曲した(その編成は24Ob. 12Fg. 9Tr. 9Hr. 40弦=100人)12、000人が押し寄せ、3時間ロンドン橋は大混雑したという。

 1750年8月初めにイギリスからヨーロッパ大陸へ行く。オランダのハーグとハールレム間で馬車の転覆事故で大けがをする。それでも故郷ハレを訪れ、12月までにロンドンに帰った。1751年1月から8月にかけて、失明と闘いながら最後のオラトリオ「イェフタJephtha HWV70」(1751年作曲1752年初演ロンドン、英語を作曲した。

 1751年夏、眼科医S.シャープの診療を受け、11月にW.プロムフィールドによって白内障の手術を受けた。それ以後も3度目の手術も受ける。1752年8月新聞で視力が失われたと報じられた。1753年には完全な失明と伝えられる。
 これ以後は旧作オラトリオの再演が多くなった。これらの演奏はスミス(子)の助けをもって行われ、ヘンデルは指揮と休憩時に自作オルガン協奏曲の演奏を果たした。作曲に際してもスミス(息子の方)の手を借り、最後のイタリア語から英語への改作オラトリオ「時と真理の勝利The Triumph of Time and Trut HWV71」(1757年作曲初演ロンドン、英語のに至るまで口述で作曲も続ける。こうして盲目生活は死までの6年3ヶ月に及んだ。

 1759年4月14日朝死去した。遺言通り王室教会ウェストミンスター・アビー教会3)埋葬され、現在今もヘンデルは歴代の王や女王、シェークスピアやニュートン等と共に眠る4)。彼は英国国教会信徒になったといわれている。

 ヘンデルの後に続いてイギリスで大きな力を発揮する音楽家はハッセHaaseドイツ1699-1783)グルックGluckドイツ(1714-87)ハイドンJ.Haydnオーストリア(1732-1809)モーツァルトMozartオーストリア(1756-91)、メンデルスゾーンMendelssohnドイツ(1809-47)たちであった。なんといってもヘンデルはイギリスにおいて特別な存在になったといえる。実際ヘンデルはイギリスに帰化し、今も王立教会ウェストミンスター・アビーの墓所でイギリス国家重要人物として眠る。tomba

王立教会ウェストミンスター・アビー内のヘンデルの墓所



[注]


3)
 Westminster Abbey、正式名称はCollegiate Church of St. Peter in Westminster。創建は7世紀にさかのぼり、カトリックのベネディクト会大修道院であった。アビーはそれを示す。

4) 往時の宰相、チョーサー、ブレイク、ロングフェロー、ブラウニング、バイロン、スコット、ヘンデル、キーツ、シェリーといった著名な作家、詩人、音楽家の墓碑が並ぶ。




<ヘンデルの運命的出会い>


ヨハン・セバスティアン・バッハJohan Sebastian Bachドイツ(1685-1750):バッハの片思い?! 1度目2度目 出会いは無かった

マッテゾン
J.Mattheson
ドイツ(1681-1764)作曲家、友人。決闘騒ぎをヘンデルと起こす
ブクステフーデBuxtehudeドイツ(c.1637-1707)リューベックの大音楽家
カイザーR.Keiserドイツ(1674-1739)オペラ作曲家友人

ジャン・ガストーネ・メディチGian Gastone de' Medici
イタリア(1671-1737):
メディチ家最後のトスカーナ公
コレッリCorelliイタリア(1653-1713)ローマで出会った大作曲家
アレッサンドロ・スカルラッティA.Scarlatti(1660-1725)ローマで出会った大作曲家
ドメニコ・スカルラッティD.Scarlatti(1685-1757)ローマで出会った作曲家

ステッファニーSteffaniイタリア(1654-1728):作曲家。自分のハノーファー宮廷楽長の地位をヘンデルに提供

ハノーファーの選帝侯ゲオルグイギリス国王ジョージT世

毛織商シュミット父子:
ドイツ旅行中に再会した大学時代の旧友の毛織商シュミットをロンドンへ連れ帰った。シュミット(英語ではスミス)は財産と妻子を残し、生涯をヘンデルに捧げ、彼の事務や音楽の仕事の世話(楽譜の清書など)をした。なおシュミット死後は彼の息子が同じように引き継ぐ。1716年ロンドンに。死後息子シュミットもロンドンに来る

チャールズ・ジェネンズCharles Jennens
イギリス
(1700-73):「メサイア」台本作家
アイルランド総督キャヴェンディシュダブリンのオラトリオ慈善演奏会をヘンデルに要請


★ ヘンデルの作品 バッハとヘンデルの年譜


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