音楽サロン表紙 目次 バロック目次 作曲者別作品表 時代別作品表 制作者:国本静三  わが指針 



バッハの生涯、そしてその功績

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bachドイツ(1685-1750)


 エリアス・ゴットロープ・ハウスマンElias Gottlob Haußmann(1695-1774)によるバッハの肖像画(油彩画)である。彼のバッハ肖像画は2つある。1746年と1748年制作のものである。

 左側の絵が前者1746年制作のもので、
ライプツィヒ市歴史博物館所蔵されている(1913年~)。ハウスマンは市参事会付き画家だった。同市の重要人物の肖像を多く描いた。左の有名な絵は、バッハが1747年に「音楽学術協会」入会に際して、その前年の1746年に描かれた。
 バッハが右手に持つのは、「6声の3重カノン」か。そうであれば1746年作曲の「14のカノンBWV1087」第13曲の初稿である。1747年に改稿「6声の3重カノンBWV1076」が作曲され、バッハは入会時にこれを協会に提出した。
    向かって右側のこの絵が1748年制作の肖像画である。バッハの死後、息子に受け継がれてライプツィヒを離れ、その後戦禍を逃れるために英国へ。1952年に米国の音楽学者ウィリアム・シャイデがオークションで手に入れた。2014年シャイデが死去し、遺言でライプツィヒのバッハ資料財団に譲られた(2015年~)

* BWVはバッハ作品番号=Bach Werke Verzeichnisドイツ語の頭文字である。1950年シュミーダーによって付けられたのに始まる。1990年に第2版改訂が行われ、今も研究は進む。疑作・偽作にはAnh.を付けて記されている。


<バッハの家系>


 J.S.バッハの一族の家系は、音楽史上類を見ないものである。現在約200年の家系が辿られ、最大に数えて音楽関係者(専門業でなくても)は97人の名が上がる。われらのJ.S.バッハの言によると、ハンガリーで製パン業を営み、ツィター奏者でもあったフィートゥス(ファイト)・バッハ(?-1619)は、ルター派の信徒である故、カトリック国であるハンガリーから退去せざるを得なかった。それで故国を離れ、ドイツのテューリンゲンの小村ヴェヒマルに住み、バッハ一族の系譜は始まった。小村ヴェヒマルから5家系に分かれていき、主にテューリンゲン地方で活躍していた。

 それ以後J.S.バッハ直系としてはヴィルヘルム・フリードリッヒ・エルンスト・バッハ(1759-1845)(J.S.バッハの孫に当たる)まで続いた。彼らはカントル(音楽監督)、オルガニスト、市専属(吹奏)楽師(塔守)、学校の音楽教師、オルガン制作者、市庁楽団楽師、宮廷音楽、作曲家などであった。


* 以後、われらの主人公ヨハン・ゼバスティアン・バッハのことを単に<バッハ>、<J.S.バッハ>とか<ゼバスティアン>と臨機応変に標記していくことにする。他の人名も原語発音に近い標記を旨としている。


<誕生とアイゼナハ時代(1685-95?)>


 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1685年3月21日、テューリンゲンの町アイゼナハで生まれる。父ヨハン・アンブロージウス(die Bache=町楽師であった。この<Bache>がBachの名前の由来になったという考えもある)と母エリーザベトの第8子(末子)であった。生まれて2日後にゲオルク教会で洗礼を受ける。アイゼナハは宗教改革(1517年)ルター(1483-1546)と、たいへん縁の深い町である。ルターがゲオルク教会付属学校に通い、後にアイゼナハ郊外ヴァルトブルク城で聖書をドイツ語に翻訳した地である。有名なパッヘルベルPachelbel(1653-1706)が1677年に宮廷オルガニストに就任していたし、父ヨハン・アンブロージウスとも親しく交わっていた。バッハが生まれた時はパッヘルベルは、エファルトに移っていた。バッハの長兄ヨハン・クリストフJohann Christophは、パッヘルベルから教えを受けていた。

 バッハは1693年から95年までラテン語学校に在籍するが、非常に欠席が多かったという。1694年の春、母が死去、同年11月に父は再婚したが翌年2月20日に亡くなる。それに伴い下2人の子供(第7、8子)、つまりヨハン・ヤーコプとゼバスティアン・バッハは、長兄の所へ引き取られて行った。長兄ヨハン・クリストフはすでにオールドルフでオルガニストとして一家をなしていたからである。


<オールドルフ時代(1695?-1700)>


 オールドルフの高等中学校在校名簿に、1696年7月20日からバッハの名がある。おそらくこの時、パッヘルベルから教えを受けた長兄ヨハン・クリストフから音楽教育を受けていたと思われる。兄の家でバッハは、兄ヤーコブと共に養われていたからである。オールドルフは南ドイツ、バイエルンの中にあり、イタリアにも近かった。この兄は、当時有名だったフローベルガーFrobergerドイツ(1616-67)ケルルKerllドイツ(1627-93)ベルパッヘルベルPachelbelドイツ(1653-1706)等のクラヴィーア曲集を、所持していた。しかし、バッハは見せてもらえなかったという。毎夜秘密で月明かりで写し取ったと、いわれている。これが最晩年の目の病気に影響したのかもしれない。最後には兄に見つかり、取り上げられてしまったとか。それでも大きな影響をバッハに与えることになる。生涯イタリアには行かなかったバッハではあるが、特に南ドイツ、ニュルンベルク出身のイタリア音楽の影響の強かったパッヘルベルに学んだ長兄とオールドルフという地を通して、最初のイタリア音楽の洗礼を受けたと思われる。こうしてバッハは15歳を迎えた。


<リューネブルクとヴァイマル時代(1700-03)>


 1700年3月15日、友人ゲオルク・エールトマンとともに、北の町リューネブルクへ行く。目的はミカエル教会とその付属高等中学校である。二人はミカエル教会からは聖歌隊員、教会付属学校からは給費生として迎えられた。聖歌隊ではバッハは、ボーイ・ソプラノで有能ぶりを発揮した。しかし、まもなく変声期を迎えて隊員としては役に立たなくなったが、このことがオルガンという楽器への興味を目覚めさせたようである。この町のヨハネ教会にベームという優れたオルガニストがいて、バッハは彼から大きな影響を受けた(その影響は、オルガンのコラール・パルティータや「前奏曲ハ短調BWV549」などに見い出せる)

 リューネブルクから北約50キロにハンブルクがある。ハンブルクは北ドイツ最大の都市で音楽的にも最も盛んな地の一つであった。バッハにとってハンブルク訪問の最も魅力的な目的は、聖カタリーナ教会のオルガニストで、ネーデルランド=オランダ音楽、特にスヴェーリンクSweelinckオランダ(1562-1621)のオルガン芸術によって育まれたラインケンの演奏を聴くことであった。またハンブルクはオペラにおいても盛んな所で、バッハにまたとない体験となった。北ドイツの雄壮、大胆な幻想曲Fantasia形式、緻密なフーガにおける高度な対位法書法を身に付けていった。

 また、リューネブルク南の宮廷では、領主がフランス人の妻を娶っていたためかフランス音楽が盛んであった。この宮廷楽団からバッハはフランス音楽を吸収し、フランス様式を身につけることができたのである(ex.「フランス組曲BWV812-817」etc.)。こうして繊細で優雅な装飾音のフランス風書法と、当時の伊独仏の最高の音楽文化を自分のものにしていく。

 1702年ザンガーハウゼンのヤコブ教会のオルガニストの職に応募したが、うまくいかなかった。1703年3月にヴァイマルのヨハン・エルンスト公Ⅰ(実権を握っていたヴィルヘルム公の弟)の私的楽団のヴァイオリンとヴィオラ奏者として半年間務めている。この時の大きな収穫は、重音奏法で有名なヴァイオリニスト、ヴェストホフと知り合ったことであった。後の無伴奏ヴァイオリン曲は、彼から影響を受けたものである


<アルンシュタット時代(1703-07)>


 1703年、バッハは、アルンシュタットの新しく出来た教会の初代オルガニストになった。この時期のバッハは人間的にもまだまだ未熟で、血気盛んな若者であった。リューベックへの旅の経緯からも分かるであろう。それは1705年秋、バッハは4週間の休暇を取り、リューベックへ向かった。その目的は聖マリア教会のオルガニスト、今はときめく大音楽家ブクステフーデBuxtehude(c.1637-1707)の音楽を知るためであった。アルンシュタットから400kmの道のりを徒歩で出かけたともいわれているが。この休暇を無断で4週間から4ヶ月に延長したといわれている実際は3ヶ月だった!。このことによってバッハがいかにブクステフーデの音楽に魅せられたかが分かるであろう。聖マリア教会での催し‘夕べの音楽Abendmusiken’では、ブクステフーデのカンタータが演奏されていた。ブクステフーデの音楽は、バッハには特にオルガン作品に大きな影響を与えた。パッヘルベルから影響を受けた構築性に加えて、ブクステフーデの幻想的かつ劇的な要素がバッハの音楽に加わる。しかし、バッハが身に付けたブクステフーデの楽風は、アルンシュタットの会衆には不評だったという。ブクステフーデの特徴は、当時として個性を抑圧せず大胆に解放する表現性にあった。その後、礼拝式におけるバッハの演奏は大胆、前衛的なものとなった。コラールの伴奏に装飾や不協和音を用い、間奏では目もくらむような即興演奏をした、といわれる。

 1706年2月21日バッハは、教会当局によってこの点と聖歌隊指導の怠慢、休暇の無断延長が問題にされ、叱責を受けた。さらに11月に当時女人禁制であったオルガン席で、未来の妻バルバラを歌わせたという譴責も加わった。こうした中で血気盛んなバッハが、新しい職場を求めるようになったとしても不思議はない。ともあれブクステフーデ体験が、オルガン曲「前奏曲とフーガ ホ長調BWV566」等の名曲を生み出す。

 なお有名なオルガン曲トッカータとフーガ 二短調BWV565」(1704年頃作曲)は、ブクステフーデの影響を受けて書いた作品と思いたいが、そうではないとされている。しかし間接的にでも楽譜や情報によってブクステフーデの音楽は知っていたこともあるかもしれない。直接の出会いの影響下にないとされる理由は、この作品が1704年頃に作曲されたものであり、バッハは1705年にブクステフーデと会った。加えて有名なバッハの顔のようなこの作品がバッハの真作であるか、現在疑問視され始めてもいる。より詳しい今後の研究が待たれている。


<余談>:ブクステフーデはバッハにこの地に止まり、自分の後継者になることを奨めたといわれている。しかし、バッハは、有名なハンザ同盟都市リューベックの中心教会オルガニストの地位を受け入れることはなかった。その条件がブクステフーデの20代後半の令嬢と結婚することであったとか。これはバッハより先に1703年に訪れたヘンデルとマッテゾンにも申し入れられたが、この二人も拒絶した、と伝えられている。 


<ミュールハウゼン時代(1707-08)>


 1707-08年、バッハは、アルンシュタットの北西50km余りに位置するミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストを務めた。その務めは1707年7月以後からで、この年の10月17日、バッハ(22歳)と親戚に当たる娘マリーア・バルバラ・バッハ(23歳)結婚した。このミュールハウゼンにおいて、教会カンタータの作曲と演奏にも熱意を示した。1708年2月に聖マリア教会で市参事会員交代式のために、大編成による壮麗なカンタータ「神はわが王BWV71」が演奏され、市の費用で楽譜が印刷された。バッハの生前に印刷された唯一の作品となる。

 当時、ルター派には敬虔派と正統派といわれる二つの派の対立があり、バッハは音楽を重んじる正統派を支持していた。だが、彼の務める聖ブラジウス教会の牧師は敬虔派で、音楽の役割を軽視した。6月にザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルム・エルンストの宮廷オルガン奏者に応募して採用された。そのため6月25日にミュールハウゼン市に辞表を提出する。


ヴァイマル時代(1708-17)>


 1708年7月、バッハは二度目のヴァイマル宮廷に仕えることとなる。前に務めたヨハン・エルンスト公Ⅰ(1664-1707)の兄ヴィルヘルム・エルンスト公(1662-1728)の宮廷だった。このヴィルヘルム・エルンスト公弟ヨハン・エルンスト公Ⅰより実権をもっていた。バッハは、ザクセン=ヴァイマルの領主ヴィルヘルム・エルンスト公の宮廷音楽家兼宮廷オルガニストとして務めた。この時代にバッハは、大多数のオルガン曲と20曲あまりのカンタータを作曲した。バッハの棒給はミュールハウゼン時代の2倍近い150フロリンで、一人前の音楽家として迎えられたと言える。1714年には250フローリンになり、高い評価を得ていたことも分る。この時期にマリア・バルバラとの間に長女カタリーナ・ドロテア(1708年)と将来立派な音楽家となる息子たちヴィルヘルム・フリーデマン(1710年)、カール・フィーリプ・フリーデマン(1714年)、ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト(1715年)が生まれた。

 バッハの名はこの時、テューリンゲン以外の所でも知られる存在となっていた。バッハは一介の宮廷楽団員であることに不満を覚え、ハレの聖母教会オルガニストの職に応募し、採用決定となった。これを知ったヴィルヘルム公は棒給を増額し、バッハを手放そうとはしない。さらにそれまでなかった楽師長という地位をバッハのために設けた。この時期、アイゼナハの宮廷に仕えていたテレマンTelemann(1681-1767)とも親しく交際ができた。

 1713年7月にバッハのイタリア音楽体験が起った。オランダのユトレヒトに留学していたヨハン・エルンスト公子(1696-1715)(後にザクセン=ヴァイマール公ヨハン・エルンストⅡとなる。バッハが仕えていたヴィルヘルム・エルンスト公の甥がヴァイマルに帰って来た。オランダでイタリアやフランスの音楽に接し、多くの協奏曲などの楽譜を集めて来た。ヴィヴァルディVivaldiイタリア(1678-1741)ex.「調和の霊感Op.3」(1711年アムステルダム出版)テレマンTelemannドイツ(1681-1767)アレッサンドロ・マルチェッロA.Marcelloイタリア(1684ー1750)ベネデット・マルチェッロB.Marcelloイタリア(1686-1739)トレッリTorelliイタリア(1658-1709)のものであった。エルンスト公子はそれらの編曲と、エルンスト自作の協奏曲を鍵盤楽器用に編曲するように、バッハの母方の親戚であるヴァルターWalther(1684-1748)(理論家として有名だった)バッハに依頼した。

 このヴィヴァルディを中心とするイタリアの協奏曲が、バッハにとってたいへん大きな意味をもった。バッハのイタリア体験はこれらの協奏曲の楽譜を通してであった。特にこれらの編曲により、新しい協奏曲の形式とイタリア音楽を深く学ぶことになった。バッハが編曲したヴィヴァルディによる作品は現在10曲判明しているが、全般に単なる編曲ではなく、原曲とはかなり異なったものになっているものもある。「4つのクラヴィアのための協奏曲BWV1065」は管弦楽付きであるが、他は縮小化したクラヴィアかオルガンの独奏用編曲である。華やかなイタリアの協奏曲を一人で弾いて楽しみたい、と依頼者のヨハン・エルンスト公子は考えたのだろうか。このエルンスト公子の作品である5つの協奏曲も含まれている。


[バッハの編曲作品]

原曲作曲者
 原曲
J.S.バッハの編曲

Vivaldi

vn協奏曲ニ長調 Op.3-9 RV230

clv協奏曲ニ長調 BWV972

Vivaldi

vn協奏曲ト長調 Op.7-8 RV299

clv協奏曲ト長調 BWV973

A.Marcello

ob協奏曲

clv協奏曲ニ長調 BWV974

Vivaldi vn協奏曲ト短調 Op.4-6 RV316

clv協奏曲ト短調 BWV975 

Vivaldi

vn協奏曲ホ長調 Op.3-12 RV265

clv協奏曲ハ長調 BWV976

?

原曲不明

clv協奏曲ハ長調 BWV977

Vivaldi

vn協奏曲ト長調 Op.3-3 RV31

clv協奏曲ヘ長調 BWV978

Torelli

vn協奏曲

clv協奏曲ロ短調 BWV979

Vivaldi

vn協奏曲変ロ長調Op.4-1 RV383a

clv協奏曲ト長調 BWV980

B.Marcello

協奏曲

clv協奏曲ハ短調 BWV981

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲変ロ短調BWV982

?

原曲不明

clv協奏曲ト短調 BWV983

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲ハ長調 BWV984

Telemann

vn協奏曲

clv協奏曲ト短調 BWV985

?

原曲不明

clv協奏曲ト長調 BWV986

J.Ernst

協奏曲

clv協奏曲ニ短調 BWV987

J.Ernst

協奏曲

org協奏曲ト長調 BWV592

Vivaldi

2vn協奏曲イ短調 Op.3-8 RV522

org協奏曲イ短調 BWV593

Vivaldi

vn協奏曲ニ長調 Op.7-11 RV208a

org協奏曲ハ長調 BWV594

J.Ernst

協奏曲

org協奏曲ハ長調 BWV595

Vivaldi

2vn、vc協奏曲ニ短調Op.3-11 RV565

org協奏曲ハ短調 BWV596

Vivaldi

4vn、vc協奏曲ロ短調Op.3-10 RV580

4clv協奏曲イ短調 BWV1065


 
管弦楽を伴い、4台の鍵盤楽器の協奏曲は前代未聞で、史上希有な作品である。


 バッハが仕えたヴィルヘルム・エルンスト公は、もう一人の甥エルンスト・アウグスト公(1688-1748)とはたいへん不仲であった。にもかかわらずバッハはこのアウグスト公の宮廷(“赤の館”といわれていた)にも出入りしていた。彼の弟であり、バッハにイタリア音楽をもたらしたヨハン・エルンスト公子(後のエルンスト2世)と一緒に演奏したりした。これはヴィルヘルム・エルンスト公に厳禁されていことであったのだが、反骨精神旺盛なバッハの姿が伺えておもしろい。

 ヴァイマル時代のバッハはオルガン奏者、作曲家として名高く、1717年のマッテゾンの著書「庇護されたオルケストラ」の中でも称賛され、文献としてバッハの名が出る最初のものとなった。バッハにとってオルガンは、後世のパガニーニとヴァイオリンやショパンとピアノのような存在、作曲者と一体化した楽器であった。そうしたバッハ作品の一例は「オルガン小曲集 BWV599-644」全45曲 1708-17年作曲で、たいへん興味深い作品である。この曲集では簡潔に音を切り詰めることによって、コラールの旋律と歌詞内容を浮びあがらせようとしている。バッハ流無言歌ともいうべき作品である。45曲から形成されているこの曲集は、教会歴に従い実用的な教会音楽としてのオルガン曲の形態をとっているが、時と場を超越した名作となっている。

 1717年8月5日にバッハは、ケーテン候の宮廷楽長として任命を受けた。だが、これを不満としたヴィルヘルム・エルンスト公はバッハのヴァイマル宮廷辞任を許可せず、11月6日から12月2日の間、4週間もバッハを拘禁した。結局は解放されて、ケーテンに移ることができたのである。


ケーテン時代(1717-23)>


 アンハルト=ケーテン侯国の若き領主、レオポルト侯(1694-1728)は、自らも音楽をたしなむたいへんな音楽愛好家であった。1717年から23年の6年程の間、バッハは宮廷楽長を務めた。この時期は彼の生涯においてとりわけ輝かしく、しあわせな時期となる。ケーテン宮廷楽団にソロ奏者が8人、合奏のみの奏者が4人、トランペット奏者が2人、写譜家が2人いた。バッハは前任者の2倍の33ターラーで、この宮廷の臣下の第2位という高給であった。しかし、この時期にバッハは教会音楽を殆ど作曲していない。この時期のバッハの作曲分野は、世俗音楽・器楽が中心となる。それはこの侯国が信奉する教派が、100年来カルヴァン派の改革派であったためであった。このキリスト教派は教会音楽に興味を示さなかったし、制約もあった。禁欲的な教派でもあり、シンプルな礼拝を旨としていたからである。それでもルター派信徒のバッハがこの宮廷で働くことには、支障はなかったようである。またこの侯国にもルター派教会があったし、ルター派の学校もあった。レオポルト侯の母はルター派の信徒であったことも、バッハにとって利することであったかもしれない。

 バッハが宮廷楽団と取り組んだ最も重要な分野は協奏曲であった。そのためバッハのヴァイマル時代ヴィヴァルディ体験が大いに活かされた。そしてそれらの協奏曲の中でも突出した作品は、「ブランデンブルク協奏曲第1-6番 BWV1046-51」である。この作品はヴァイマル時代からケーテン時代にかけて書かれていったと考えられている。すべて長調が選ばれ、ヘ長調=第1・2番、ト長調=第3・4番、ニ長調=第5番、変ロ長調=第6番となっている。
 この「ブランデンブルク」というネーミングの由来は、ケーテン時代、1721年3月24日にブランデンブルク辺境伯クリティアン・ルートヴィヒに自筆総譜(但しオリジナルからの筆写譜)を献呈したことにある。バッハはさらにまたもや新しい職場をこの時期に求め始めていたので、転職活動のための献呈だったのかもしれない。

 この作品はイタリア音楽の影響を受けているのは事実であろう。といってもその音楽はヴィヴァルディのような明解にして翠明な世界ではなく(?)、対位法書法を加味した複雑にして燻し銀のようなバッハ特有の世界が展開されている。形態としては合奏協奏曲であるが、独奏協奏曲の顔も随時見せている。各曲が全く違った個性に彩られた協奏曲様式をもっており、凡人を煙に巻いてしまう。さらに各6曲は異なる楽器編成をもっていて、単純に協奏曲とは明言しがたい非凡な書法が展開されている。一曲ずつ熱のこもった新しい協奏曲の世界へ踏み出す挑戦的な創意に満ちている。結果的にはイタリアの協奏曲の枠を踏み出しており、それは一言で言えばバッハの新しい世界とも言えよう。まさしくバッハにしかない音空間である。バッハの他の協奏曲作品についてもこのことが言え、その後も「ブランデンブルク協奏曲」の経験と実りが、協奏曲作品に発揮されていくことにる。

 平均律クラヴィア曲集第1巻BWV846~829」もこの時代のバッハの有名な作品である。この全24曲は伝統への傾斜という形を取るものの、作曲家バッハの新しいものへ挑戦する意欲と実験的な創意がくみ取れる作品集で、ケーテン時代の1722年に成立したものである。曲名“Das Wohltemperierte Clavier(Klavier)”には平均律という意味はなく、直訳すれば“よく調律されたクラヴィーア(鍵盤楽器)”ということになろう。全24曲の異なる調を鍵盤楽器による演奏の可能性を実証するためであったのだろうか、よく調律された楽器で弾いて欲しいというややユーモァとウィットをこめた気持ちが込められているように思われる。

Das Wohltemperirte Clavier1).
oder
Praeludia, und
Fugen durch alle Tone und Semitonia,
So wohl tertiam majorem oder Ut Re Mi anlan-
gend, als auch tertiam minorem oder Re
Mi Fa betreffend. Zum
Nutzen und Gebrauch der Lehr-begierigen
Musicalischen Jugend, als auch derer in diesem stu-
dio schon habil seyenden besonderem
ZeitVertreib auffgesetzet
und verfertiget von
Johann Sebastian Bach.
p. t: HochFürstlich Anhalt-
Cöthenischen Capel-
Meistern und Di-
rectore derer
CammerMu-
siquen.
Anno
1722.

           ↓↓
「よく調律したクラヴィア1)のための作品」
すなわち
これらの前奏曲と
フーガは、全音と半音を
長三度、すなわちドレミについても、
短三度、すなわち
レミファについても、
(各曲の調と)関係している。
熱心に楽を学ぶ若者の利益と用途のために、
またすでに熟達した方々にも
特別な喜びを与えるために
ヨハン・セバスティアン・バッハによって
作曲された。
すなわち(バッハは)偉大なるケーテン侯国の
礼拝堂マイスターにして、
楽部監督の職務をもつ。
1722年
「平均律クラヴィア曲集第1巻Das Wohltemperierte ClavierⅠ BWV846~829」 手稿譜タイトル・ページ
★ バッハはKlavierクラヴィーア独語ではなく、Clavierクラヴィエ仏語と記している。             活字化と筆者訳


ヘンデルとの会見の一度目の失敗

 バッハヘンデル1719年の5月か6月頃、ロンドンから故郷のハレに帰って来たといううわさを聞き、ヘンデルを訪ねるため駅馬車で30キロの道のりを行った。ハレに着いてみるとヘンデルは、ドレースデンに向けて出発したところであった。ヘンデルはこの頃、オペラ作曲家としてロンドンで大成功を収め、国際的名声を得ていた。



妻マリア・バルバラの死とアンナ・マグダレーナとの再婚

 1720年5月から7月にかけて侯爵のお供で、カールスバートへ保養に行った。帰国して知るのだが、13年連れ添ったマリア・バルバラMaria Barbara(1684-1720)急死し、帰国の10日程前の7月7日にすでに埋葬されていたという。二人の間に7人の子をもうけたが、その時4人の子供が残されていた。

 1720年11月の秋、ハンブルクの聖ヤコブ教会のオルガニストのポストを考え、おもむいて試験演奏(11月28日)をしたかったが、23日にケーテンに向わなくてはならなくなった。非公式ながら聖カタリーナ教会で、オルガンを市の有力者たちを前で2時間余りも演奏した。聴衆を大いにわかせ、聖ヤコブ教会のオルガニスト就任を乞われた。だがその招聘を断る。

 1721年9月25日の洗礼式(ケーテンのカルヴァン派の聖ヤコブ教会で)が行われたが、その記録に代父・代母5人の中に楽長バッハと女性歌手アンナ・マグダレーナ・ヴィルケの名がある。このアンナ・マグダレーナAnna-Magdalena(1701-1760)は、当時20歳でソプラノ歌手として宮廷に籍を置いたところであった。この洗礼式から2ヶ月少し経った11月3日バッハとアンナ・マグダレーナの結婚式が行われた。ルター派教会での候が挙式を喜ばなかったのか、侯の命令で自宅で式が行われた(花嫁20歳、花婿36歳)。結婚後は13人の子をもうけ、バッハの仕事の大いなる協力者(ソプラノ歌手としてや写譜の手伝いもこなした)となる。

二人の妻の性格

 アンナ・バルバラは1歳年上ということもあり、夫ヨハン・セバスティアンとはよき友人のような感じがあったと思える。バッハ一族に属していたし、バッハと同じく内向的で芯の強い性格であった。後妻となるマリア・マグダレーナの方はバッハ一族とは異なり、外向的で楽天的な性格であったといわれている。これらの性格は各々の子どもにも受け継がれている。

名を残す音楽家になった息子たち

 1歳年上のバルバラは7人、16歳年下のマグダレーナは13人の子をもうけたが、各々2人ずつが名のある音楽家になる。バルバラからヴィルヘルム・フリーデマン(1710-84)カール・フィリップ・エマヌエル(1714-88)、マグダレーナからヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732-95)ヨハン・クリスチァン(1735-82)が秀でた音楽家となる。バッハは、「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」と2冊の「アンナ・マグダレーナのクラヴィーア小曲集」といわれる楽譜帳を残しているが、教育家や家庭人としてのバッハの姿を示すものといえよう。前者は「インヴェンション(2声)「平均律クラヴィーア曲集第1巻」(一部)が含まれ、バッハの音楽教育者としての高さを示し、後者には「フランス組曲BWV812-817」「パルティータBWV825-830」(一部)も含まれる。これらによって、バッハや子供たちのアンナ・マグダレーナに対するほほえましい夫婦愛や家族愛が示されている。

転職活動

 バッハが再婚した8日後に、彼が仕えるレオポルト侯も19歳の花嫁を得た。だが、バッハを失望させたのは、この侯妃が音楽に興味がなく、レオポルト侯までもが、音楽に熱意を無くしてしまった点であった。それ以前から教会音楽への関心のないケーテンからの脱出と転職を考えていたので、このことが拍車をかけた。

 1722年6月にライプツィヒの聖トーマス教会のカントルのクーナウKuhnauドイツ(1660-1722)が亡くなったので、後任選びをしているのをバッハは知っていた。内定していテレマンTelemannドイツ(1681-1767)が辞退したので、1722年末に応募する気持を固め、志願したのだった。テレマングラウプナーGraupnerドイツ(1683-1760)の続いての辞退後、バッハが紆余曲折の結果、クーナウの後任に正式に契約を交したのは1723年5月5日、就任式は6月1日であった。これがバッハにとっては最後の職務となった。聖トーマス教会のカントルは、トーマス教会付属のトーマス学校の教師と市の全教会の音楽監督という二重の職務である。たいへんな重責であった。



[注]


1) バッハのラテン語やイタリア語嗜好の傾き(?)を含み、個々の作品名の場合を除いてフランス語Clavierクラヴィエをクラヴィアとバッハは表記している。ドイツ語はKlavierなのに。




ライプツィヒ時代(1723-50)>


 1723年5月22日にバッハは、家族と家具を伴ってライプツィヒの聖トーマス教会敷地内の改装なった住居に移った。だが、ライプツィヒ市参事会による難航した後任選びの中で、言えることはバッハについて高い評価がなされていたわけではなかったということである。彼のオルガン奏者としての評価は高いが、総合的な職務カントル(音楽監督)としての能力について疑問視されていた。バッハがなぜケーテンの高い地位から、棒給が安くて問題の多い地味な仕事を選んだかは不思議であり、興味深いことである。だが、ライプツィヒではかなりの副収入があったともいわれている。ライプツィヒ移住についてバッハ自身は、息子の教育のためだと言っている。つまり本格的なルター派の地の学校で、学ばさせたかったためだと思われる。しかも父バッハが関係するトーマス教会付属トーマス学校では、子供たちは大いに優遇されたことだろう。

 ケーテンでは妻マグダレーナも歌手として棒給を得ていたが、ライプツィヒでは単なる主婦となった。大都市での生活費の高さと子だくさんのバッハ家は、経済的には楽なものではなかった。加えて幾度も市当局や校長とのごたごたもあり、何度かライプツィヒを去ることも考えることもあった。なぜならカントルは複数の職務と複数の上司の支配下にあって、音楽以外にも雑務の多い地味な仕事であった。

聖トーマス教会内後部:13世紀創建-1702年=1985年生誕300年リニューアル 聖トーマス教会内陣中央正面:J.S.バッハの墓所 


 ライプツィヒのカントルKantorは、合唱指揮者とか教師をも含む職務であった。しかも、トーマス教会付属トーマス学校は音楽学校ではない。現在のギムナジウムに当たる12歳から23歳に当たる大学に入る前の50人から60人ほどの教育機関であった。ルター派ラテン語学校で、基礎科目と古典語、宗教教育、そして音楽も教えられた。カントルの学校教師としての仕事は、まず上司としての校長が上におり、大きなストレスをもたらした。14条ある契約書の第1条には“高潔でつつましい生活態度を守りながら、生徒たちの範たるべくつとめ、校務に専念し、かつ、生徒たちに誠意ある授業を行うこと”とある。生徒たちの声楽と器楽のレッスンを行い、年に13週は生徒の生活の管理役を務めた。また、ライプツィヒ市の葬儀のために奉仕する生徒たちに付き添い、墓地までの道のりを歩かなければならなかった。ラテン語の授業も重要な任務であったが、ラテン語が不得手なバッハは自分で年棒を払って(なんと自分の全年棒の半額であった!)人に任せた。

 カントルの市の音楽監督としての仕事は市参事会の権威の下にあり、ライプツィヒの主要教会の音楽を司るという仕事であった。聖トーマス教会はじめ聖ニコライ教会、聖マタイ教会、聖ペテロ教会の4つの教会の日曜と祝日の礼拝の奉仕のために、トーマス学校の生徒のボーイ・ソプラノによる聖歌隊が能力別に4つに分けて派遣された。最も優秀な第一聖歌隊はカンタータを演奏した。バッハは教会歴に従って、週に1曲というペースでカンタータを作曲し、演奏していった。これが最もたいへんで重要な仕事であった。だが、演奏には人数が足らず、その都度エキストラを調達する難問もあった。という具合に驚異的な多忙さであった。カンタータの作曲は1723年から28年位に集中することになる。日曜日と祝日の年間の数は60位でその数だけカンタータが必要だったのである。こうしてたいへんな激務が死ぬまで続くのである。

 1723年12月25日マニフィカト 変ホ長調BWV243aをこの年に作曲し、初演した。
 1733年7月、ドレースデンのザクセン選帝侯兼ポーランド王にキリエとグロリアからなるミサ曲(後にこれがミサ曲ロ短調BWV232(1724-49年)となる)を献呈し、ドレースデン宮廷作曲家の称号を願った。バッハはすでにケーテンとヴァイセンフェルスの宮廷楽長の肩書きを有していた。はるかにより大きなドレースデン宮廷は、より権威ある肩書きであった。3年待って、しかも再度1736年に請願してやっと達成された。

 1733年、かってのバッハの弟子であったシャイベ(1706-76)は、彼が編集していた雑誌“批評的音楽家”の中で、バッハ批判を激しく行った。それはバッハの複雑な対位法による音楽は、旋律の流れも聞き取れないほど不自然である、というような内容であった。当時既に新しい音楽として対位法によらないモノディ様式がすでに現れており、たいへん興味ある論評ではある。モノディはつまり、主旋律に和音を付け、主旋律を浮き上がらせる書法である。これはバロックの新しい動きと、終焉を告げるものであった。新しい音楽様式への動きの一つとなっていくものであった。

ヘンデルとの会見の二度目の失敗

 1729年6月ヘンデルのイタリア旅行の途中ハレに寄った時、病気中だったバッハは長男フリーデマンをハレに遣わし、ヘンデルをライプツィヒに招いた。しかしヘンデルはこの招きを断ったため、二人の出会いはついに永久に実現しなかった。

 バッハはヘンデルの作品を高く評価し、彼の「ブロッケス受難曲HWV48」やカンタータ「棄てられたアルミーダHWV105」、「コンチェルト・グロッソ ヘ短調」を自らの手で書き写したことが知られている。ヘンデルのオペラ「アルミーラHWV1」とバッハのカンタータのいくつかの楽章との間に見られる主題や動機の類似から、このオペラを知っていたことが推測される。


 1741-46年に編曲・作曲し、バッハ自身が最後の作品にしたと考えてもよい力作がある。それはバッハ最晩年のモテット「神よ、私の罪をおゆるしくださいTilge, Höchster, meine Sünden BWV1083」(1741-46年編曲)である。この原曲はペルゴレージPergolesiイタリア(1710-36)作曲スタバト・マーテルStabat Mater(悲しみの聖母)(女声2声部、弦楽と通奏低音)である。バッハの楽譜を一見すれば、ただ写譜しているだけのように見える。とはいえ 第12曲と第13曲の順番を入れ替えたり、第2ヴァイオリンとヴィオラ部に加筆、声楽部のリズム、装飾音、アーティキュレーションなどにも手を加えるといったことはしている。

 バッハモテット「神よ、わたしの罪をおゆるしくださいTilge, Höchster, meine Sünden BWV1083」と、全く別の内容の歌詞テキスト旧訳聖書・詩編51(旧番号50)「ミゼレレ・メイいつくしみ深くわたしを顧み」の独語訳(ルター訳)に替えた。しかし、大まかにはバッハ版とペルゴレージ版の音(楽譜)から見た大きな差違はなく、歌詞テキストが替えられた以外には見当たらないように一見みえるには見える。このような作業をなぜしたかのかたいへん興味ある点である。といってもこれにはパズルのような作業や音と詩句の語の調整などたいへんな労苦が伴うものであったろう。最初から作曲した方がはるかに容易であったろう。このように大がかりに気合いを入れて他人による作品を編曲作業をしたのが、ヴィヴァルディ9作を含む編曲だった。これによってバッハに大きな実りをもたらした。今回の作業がバッハのやまぬ好奇心と研鑽心の現れとみなくてなんであろう。名作の写譜、写文、模写etc.は、限りない実りを生むことは知られている。加えていえばそうした向上心をもつバッハは、あと数年少しで終わりを告げる時期にいた。どんな思いがあったか分からないが、神に謙虚にゆるしを願う歌詞を選んだ。こんなことにも共感を覚える筆者である。そして当時としては高齢者に入るバッハが、20代半ばの若い作曲家ペルゴレージから何を得ようとしたのだろうか。バッハから聞いてみたいものである。そのキーワードはあこがれのイタリアだったのだろうか。




バッハの死



 バッハは白内障の兆候を見せ始め、1749年5月頃にはもう楽譜を書く仕事が不可能になった。ライプツィヒ市当局は、6月8日に、ハラーJ.Harrerドイツ(1703-55)を呼んで次期カントルの試験演奏を行っている(バッハの死後、バッハの息子エマヌエル等をさしおいて、ハラーが選ばれた)。眼科医ティラーJ.Taylorイギリス(1703-73)がライプツィヒに来て評判を集めているのを聞いたバッハは、白内障の手術を1750年3月末日に受けた。一旦うまく行ったかに見えたが症状が再発し、1週間後に二度目の手術を受けたが、結果は失敗で、薬剤の副作用が致命的な結果をもたらした。以後、目の見えぬままに病床に伏す身となる。7月18日、不思議にも両眼が視力回復を示した。だが、数時間後に卒中が起こり、高熱に見舞われる。そして病魔と闘い、10日後の7月28日の夜に世を去った。

 遺骸は3日後、聖ヨハネ教会の墓地に埋葬された。アンナ・マグダレーナはバッハより10年長く生きるが、晩年は貧困に陥り、子供たちからの援助のないままに生涯を閉じた。1894年、聖ヨハネ教会の墓地が発掘され、樫材の棺の初老の男性の骨が掘り出された。調査の結果、ハウスマンの描く肖像画(1748年)から知る骨格とほぼ一致することから、バッハのものと断定された。1950年にその体全体の遺骨は、聖トーマス教会内陣祭壇前の床下に移された。そして現在に至っている。




<バッハの功績>



 バッハの音楽史的な功績はバロック音楽の総合者、と言っても足りないものである。それは中世、ルネサンスをも含めて考えなくてはならないだろう。そして特にイタリア、フランス、イギリスのバロックをプラスして、過去の西洋の音楽伝統を吸収していったバッハBachという小川、いや小川でなく大河、いや大海となっていった。海は多数の河川が注ぎ込んで形成されるのである。かのベートーヴェンが、“バッハはバッハBach(小川)でなく、メールMeer(大海)である”と深い洞察と抜群のセンスとをもって言い、称えたのはそれゆえであろう。また、音楽史のなかで確固たる評価をずっと与えられ続けている作曲家は少なくないが、バッハは別格である。しかも歴代の作曲家、演奏家、音楽学者ばかりでなく、物理学者、数学者や神学者などさらに一般の音楽愛好家たちもこぞってバッハを愛し、賛美をやめることがない。また彼の作品群は、すべての個人的好みや主観的判断を越えて美の最高峰と評されている。

 しかし、バッハは単なる伝統主義者ではない。いやむしろ新しい音楽の開拓者であった。彼の調性駆使によるすぐれた和声的対位法による多声的音楽様式は、質ともに類を見ない高さと普遍性を見せている。声楽作品器楽作品においてもまた教会音楽世俗音楽においてもそれは言え、後世のどの時代にも規範となり、影響を与え続けている。その勢いは衰えることなくこの21世紀なった今も、どの時代よりも偉大なるバッハ像が浮かび上がり、バッハの作品は今なお我々を惹きつけ続けている。コンサートのプログラムばかりでなく、コンペティションや大学音楽学部の試験曲としても重要課題として選ばれている。さらに一般聴衆にとっても愛し続けられる作品群である。また作曲を学ぶ者には今なお研究の重要な対象でもある。

 作品分野おいても教会音楽と世俗音楽、その両面において名作を残している。ただオペラが一つもないことを惜しむのは筆者だけであろうか。娯楽的要素の多いオペラの世界は、バッハに全く興味をもたらさなかのかったのだろうか。オペラのような劇場世界はバッハのものではなかったのだろうか。バッハには劇的世界は無縁だったのだろうか。否、それは言えない。例えば彼の大作マタイ受難曲では、バッハの劇的嗜好が充分に感じられし、余すところなく彼の能力が発揮され、燃焼し尽くされている。


<バッハの特徴>


 バッハの音楽の特徴は、全西ヨーロッパのバロック音楽の総括と言える。イタリア、フランス、イギリス、フランドルなどの音楽の影響は顕著であるが、とりわけヴィヴァルディからの影響は重要である。それはヴァイマル時代にヴィヴァルディ作品を中心に協奏曲を編曲した事例が有名である。これらをみると単なる職人的作業ではないことが分かる。多くは原曲とは異なったものになっており、バッハ自身の音楽が全面的に顔を出している。こうした作業によって最も深くイタリア音楽を吸収し、新しい世界を生み出していったと思われる。

 すぐれた構築性とその対極にある感性においても完全である。彼の多声的音楽polyphonicは、調性tonalityに基づいた和声的対位法によって展開された。非凡なる転調、そしてそれに伴う和声の動きは、大理石の神殿のような構築compositionをもたらしている。それなのに劇的で幻想的な感性の面が欠けることはない。両面における密度の高さは喩えようもないものである。フーガのような一見無味乾燥な(?)形を持つ楽曲についてもバッハにかかると、詩と幻想の世界へと誘ってくれる。また数学的、記号的な方法で、深遠な世界を表現している。そして創意をあふれさせているのは、驚きである。

 また、バッハは非凡なる引用・転用の名手である。彼の引用は主に自作の転用による編曲で、一例ををあげると、現在伝わっているヴァイオリン協奏曲3曲をチェンバロ協奏曲に置き換えている。どちらを聴いても全く遜色がない。こうした例をあげると枚挙の暇がない。特にカンタータにおける使いまわしは、実用的な手抜き(?)の目的もあってほほえましくもあり、結果としてあっぱれである。こうした時は職人的音楽家のバッハの面も見られる。バッハ全作品の究極にして総括ともなったミサ曲ロ短調BWV232(1724-49年)の後半部は、ほとんど自作のカンタータなどの転用で構成されている。だが、テキストミサ典礼式文に合わせた再生作業は、単なる転用ではできなかったものである。むしろ一から作曲作業に入った方が、容易で早く事が進むようにも思われるほどである。

 バッハの筆跡、手写譜は真に味わい深く、魅力的である。割合多くのものが現存しており、作曲者の意志や思い、音楽的リビドーが伝わってくる。そうした例として「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調BWV1001」(1720年作曲)の第1頁の手写譜を下記に示す。



 次はバッハ最後の未完の大作フーガの技法BWV1080(1745-50年頃作曲、ベルリン、ドイツ国立図書館所蔵Mus.ms.autogr.Bach P 200)をあげる。この作品は計18曲の様々なタイプのフーガとカノンから成り立っている。最後のフーガの第239小節まで書き進んだところで筆は止まっている。失明と健康の悪化があったと考えられる。この最後の頁で次男エマヌエルの手で次の語句が書かれている。「このフーガで、BACHの名が対位主題として用いられた箇所で、作曲者は死去した。Uber dieser Fuge, wo der Nahme “BACH” im Kontrasubjekt angebracht worden, ist der Verfasser gestorben.」






[参考文献]

J.S.BACH/Matthäus-Passion BWV244/Edition Eulenburg No.953/Ernst Eulenburg Ltd Printed in GermanyE.D.T.

Storia della musica a cura della societa italianadi musicologia/Torinoより第5巻Alberto Basso /L'eta di Bach e Händel

The New GROVE Dictionary of Music and Musicians 20 vols/London より第1巻“J.S.Bach”の項

角倉一朗 監修/バッハ事典/音楽之友社
マルティン・ゲック(小林義武監修・鳴海史生訳)/ヨハン・セバスティアン・バッハ第1-3巻、別巻/東京書籍
ヴェルナー・フェーリクス(杉山好訳)/バッハ 生涯と作品/講談社学術文庫




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