花火「かぎや」が上げても「た〜まや〜」〜

   

江戸の人々にとって夏の大きな楽しみといえば花火であり。花火といえば両国橋(墨田区と中央区との間)が有名でした。

2枚の「両国花火」を見くらべてみよう

歌川広重の『名所江戸百景』の一つ。最晩年の安政三(1856)〜五(1858)年にかけて制作したといわれています。両国の花火大会の風景です。花火の音が聞こえてきそうですね。花火の大輪が描かれていますが、現在の花火と違い多色ではありません。鍵屋15代目の天野安喜子さんによれば、「浮世絵に残っているように、橋を浮かび上がらせるほどの明るさもなかったと思います。でも、月明かりが最高に明るいとされていた時代、人々の目にはこんな風に映っていたのでしょうね」

両国橋の花火の歴史

国学者の戸田茂睡が、天和三(1683)年に著した随筆「紫の一本(ひともと)には、次のように記されています。

見物客の中からは「天下一、あつちやあ、あつちやあ」のほめ声があがり、付近は立ち上げられた花火で照らされて日中のような明るさとなり、花火の出る筒音、流星の響き、人のわめく声で、心静かに漕いでいる舟はない。

江戸は火事が多かったため、慶安元(1648)年には「町中にて鼠火りうせい(流星)その外花火の類仕間敷事但川口にては格別の事」と、町中での花火や花火商が禁止され、隅田川(川口=河口)だけでは許されていたのです。隅田川の河口の両国橋付近で花火がさかんに行われた背景には、幕府の防火政策がありました。

享保一七 (1732)年、幕府が隅田川において水神祭を催しました。これは、前年に起こった全国的な大飢饉・コレラの流行で100万人以上の死者が出たため、大飢饉の慰霊、悪疫退散を願ったものでした。翌年の5月28日に隅田川の川開きを行い、この時に両国橋に近い料理屋が花火を上げました。両国橋の川開きは、例年5月28日から8月28日までの3ヶ月として年中行事となり、納涼舟の舟遊びが許され、初日には花火が上げられました。

花火の費用は、この日に多くの客を見込めた船宿が8割、両国周辺の茶屋・料理屋が2割を負担し、この他にも自分でお金を出して打ち上げてもらう者もいました。

両国川開きの大花火の盛況が一段と盛り上がったのは、鍵屋と玉屋が互いに技を競い合うようになってからだったようです。文化五年(1808年)、浅草横山町の八代目鍵屋の優れた番頭であった清七は、のれん分けで両国吉川町に「玉屋」を開き、玉屋市兵衛を名乗りました。両国橋をはさんで上流では玉屋が、下流では鍵屋が担当し、納涼舟や水茶屋の客がこれにお金を払って花火を打ち上げさせたのです。両者が花火を舟から打ち上げるたびに観衆は「かぎやー」「たまやー」と叫んで景気をつけました。天保14年(1843)玉屋は大火事をだしてしまいます。将軍家慶の日光社参の留守中でもあり、花火屋としての玉屋は廃業に追い込まれてしまいました。それでも、江戸の人たちは玉屋の技術を惜しんで、鍵屋のうちあげる花火にも「た〜まや〜」とかけ声をあげたのです。

 

北斎の習作の時期(1788−9)の作品。
「新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」
花火は木炭の燃える橙色だけでした。

 
 初代広重 『江戸名所 両国花火』 屋形船の桃燈に「歌川」とある

 
 『東都名所両国夕涼の図』(安政3年)大判錦絵三枚続 国郷 


『東都両国納涼之図』(神奈川県立博物館)

参考文献
2009年6月6日朝日新聞「江戸花火師の心意気
大石学編「江戸のうんちく」(角川文庫、2008年)



トップページへ戻る

戻る