2019.02.08朝ドラに佐川町出身の「牧野富太郎」を!

朝ドラに佐川町出身の「牧野富太郎」を!

美しい川は、豊かな山野とともにある。自然に恵まれた土地で育った植物を愛する少年が、その生涯を植物分類学に捧げた。幕末、明治、大正、そして昭和という時代を生きた牧野富太郎という人間の「ドラマ」をもっとたくさんの人に知ってほしい。

※写真は日本に植物分類学を確立した高知県佐川町出身の世界的植物学者、牧野富太郎(高知県立牧野植物園提供)。

 明治という時代が始まったばかりのことだ。佐川町で酒蔵を営む家に生まれた少年は、川辺よりも山野に惹かれた。見過ごしてはならない。なぜならそこにはさまざまな植物たちがあふれていたからである。一つ一つの植物たちをじっと見つめれば、その葉の色や形や脈、茎の太さや質感、花びらの造形や色彩、そんなあらゆるものが一つ一つ違っている。そうして季節が移ろえばまた、新たな植物たちの姿を見つけることになる。 
 少年の名前は牧野富太郎(1862~1957年)。なぜだかよくわからないけど、植物が好きだった。晩年、世界的な植物学者となった牧野博士が言ったという。
 「私は植物の精である」
 けれど博士のこの言葉は、なぜ植物を好きになったのかという人々から繰り返される質問に対する苦し紛れの答えのような気もするし、半ば本気の思いも込めた博士独特のユーモアであったのではないだろうか。

article173_01.jpg若き牧野富太郎(高知県立牧野植物園提供)。

 仁淀川流域の豊かな自然環境で育った少年は成人となって上京して、東京大学理学部植物学教室の扉を叩いた。東大の入試を受けていないばかりか、小学校も中退しているという青年を最高学府の教授や学生たちは受け入れた。彼の植物を観察する確かな目や植物図を描く卓越した能力、そして故郷の山野を駆け巡った圧倒的なフィールドワークに、先生も学生も心うたれたのだった。それは「大学」という社会制度を超えたところにある「学問への良心」が一致したからである。
 牧野が目指したのは日本国内の植物を調べ尽くし、世界的な基準に従って分類すること。
 近代的な植物図鑑も必要だ。彼の人生は常に実践とともにある。そのために石版印刷の技術を学ぶべく印刷屋で働き、印刷機械まで買った。そして26歳のころ、精緻な植物図を掲載した「日本植物志図篇」第1巻第1集を出版した。
 その試みは日本の植物学会に大きな衝撃を与え、とりわけ牧野が描いた植物画の精細さに目を見張った。

〈自分でいうのも変だが、私は別に図を描く事を習ったわけではないが、生来絵心があって、自分で写生なども出来る〉(『牧野富太郎自叙伝』講談社学術文庫より。以下同じ)

article173_02.jpg植物への敬意を示すためという正装をして採集する壮年期の牧野(高知県立牧野植物園提供)。

 さらに牧野は日本の学術雑誌「植物学雑誌」に「ヤマトグサ」の学名を発表する。学名とは世界共通の名前であり、ラテン語で記されるものだ。これは画期的なことだった。それまで日本の植物学者たちは海外の植物学者を頼って、海外の学術雑誌に学名を発表していた。牧野は日本人で初めて自力で学名を発表したのだった。その翌年、28歳になった牧野は江戸川そばにある用水池で異様な水草のような植物を発見する。それは欧州、インド、オーストラリアの一部で確認されている希少な食虫植物だった。日本にも自生していることがわかった世界的な発見だった。牧野は「ムジナモ」と和名を付けた。
 しかし、目覚ましい活躍を続けていた若き植物学者に苦難が訪れる。東大の教授から植物学教室への出入りを禁じられたのだった。やっかみがあったのだろう。

〈今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるようなことをしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標本を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引き立てるのが義務ではないか〉

 牧野の訴えは拒絶される。日本を出て海外に出ることも考えるが、実現できなかった。失意の牧野は故郷の佐川に帰る。このまま地方に住む在野の植物学者で終わった可能性もあっただろう。けれど東大は再び牧野を必要とした。新任教授に呼び戻され、東京帝国大学理科大学助手という初めての正式な役職を与えられる。
 日本中の植物を網羅して分類する。そのために牧野は国内外の植物に関するあらゆる書物を買い求め、全国各地で植物採集を行い、自ら植物の研究雑誌を発行した。東大からもらう月給15円ではとても足りなかった。
〈左の手で貧乏、右手で学問と戦う〉日々であった。
 自宅に押しかける借金取りたちの相手をするのは妻・寿衛(すえ)の仕事になった。夫の借金を返すために「待合(まちあい)」と呼ばれた宴席や会合を行う料亭のような店も始めることになる。しかしそれでも莫大な借金を返済するには至らない。すでに高名な植物学者となっていた牧野の経済的困窮を新聞が報じた。
〈このままでは植物標本を売るほかない〉。という時に、またしても牧野に救いの手がある。神戸の資産家だった若者が3万円、現在の価値でいえば1億円ほどの寄付を申し出るのだった。

article173_03.jpg自宅の膨大な蔵書に囲まれて(高知県立牧野植物園提供)。

 牧野富太郎は77歳で東大を辞職するが、それからの活躍も目覚ましい。
今も改訂を重ねながら出版されている「牧野日本植物図鑑」は1940年、牧野78歳の時に刊行されたものだ。戦争を過ごして、敗戦後も牧野の植物研究は続いた。植物を愛した昭和天皇は庭を散策するときに牧野図鑑を手にしていたとも伝えられる。1948年、牧野は皇居に招かれて昭和天皇へのご進講を行った。そして56年、東京都練馬区大泉にあった自宅で94歳の生涯を閉じた。

article173_04.jpg最晩年の牧野富太郎(高知県立牧野植物園提供) 。

article173_05.jpg博士が愛したバイカオウレンの花。いま高知県立牧野植物園で咲き誇っている(2019年2月1日撮影)。

<植物は人間がいなくても育っていくが、人間は植物がないと生きてはいけない>
 牧野はそうも語っている。いまこそ私たちは牧野という「ドラマ」に学ぶことがあるのではないだろうか?
 昨年7月、そうした思いをともにする人たちが集まって「『朝ドラに牧野富太郎を』の会」(会長=堀見和道・佐川町長)が発足した。NHKの連続テレビ小説で牧野富太郎をドラマ化することを要望する会だ。まずは署名活動を通じて牧野の魅力を知ってもらう。晩年の自宅があった練馬区も協力している。
 NHKのネイチャー番組は優れたものが多い。ドラマ部門のスタッフたちに加えて、自然番組で培った撮影技術も駆使し、植物の美しさも4K8Kの高精細映像で伝えることができないだろうか。
 そして何より牧野というチャーミングな植物学者の幸福で希有な人生のドラマを今こそ広く知ってもらいたい。そんな共感の輪が広がりつつある。

 〈人の一生で、自然に親しむことほど有益なことはありません。人間はもともと自然の一員なのですから。自然にとけこんでこそ、はじめて生きるよろこびを感ずることができるのだと思います〉(『牧野富太郎植物記』あかね書房」)

(高知新聞社学芸部・竹内 一)
●今回の編集後記はこちら