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大澤くんでもないし、悠大くんでもなくてアロエくん。
どの角度から見てもどのタイミングに話しても、彼はアロエくん。アロエと聞くと、なんだかとってもカラダにいい気がして、でも、じゃあどこにどう効くのかって言われると、なかなか誰も答えられない、この感じ。肌にいいのか、胃にいいのか、全体的にいいのか。傷にいいのか、肌にいいのか。そして、ぼくらにとって「いい」はずのあの『アロエ』のそのビジュアルを思い浮かべるとサボテンとはまた違うけれど、いっけん、毒もありそうな、アロエ。
ここで wikipedia を引用してみる。
昔から俗に「医者いらず」といわれてきたものであり、葉肉の内服で健胃効果があるとされ、また含有するバルバロインの下剤効果により便秘に効果がある。ただし、体質によっては胃炎を起こす場合があることや 〜中略〜 また外用として傷や火傷に用いられる場合もあるが、逆に悪化させた例も報告されており、使用には一定の注意が必要である。
10月10日。アートディレクターとして独立したアロエこと 大澤 悠大 の、ある日のニュートラル。
PHOTO&TEXT:JUNYA KATO(PARK INC.)
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加藤 株式会社アロエ。ついに独立ですね。
大澤 今年のはじめ、加藤くんに呑み屋で煽られてね(笑)あ、まだ株式じゃないけど。
加藤 ああ…「悩むくらいなら明日にでも独立しろ!」って説教してた時ね。
大澤 あれでだいぶ決心ついたもんね。
加藤 いま思えば無責任な発言だよね(笑)
大澤 で、DJネームがアロエだったのでアロエって会社に。加藤くんは独立してどうだった?
加藤 ヒマがこわすぎた。ヒマが怖すぎてはじめたのがこれ(PARK MAGAZINE)だからね。毎週何かしてないと不安。
大澤 やっぱそういうものなのか。。(笑)
加藤 そもそもアロエくんってデザイナーになったきっかけとかあるの?
大澤 そういう話しちゃう? 俺の話おもしろくないよ(笑)
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加藤 地元どこなんだっけ?
大澤 小中高と埼玉の浦和で。大学が多摩美だったから二子玉川まで片道2時間かけて通っててさ(笑) バイトが新橋だったから1時間かけてバイト先まで行って、そこからさらに1時間かけて学校に。今考えると無茶だよね。その当時は普通だったけど。
加藤 若さだよね。
大澤 クラブに遊びに行くのが好きだったからさ、大学行って、クラブ行って、そのままバイトに行って、バイト先がけっこう自由だったから、そこで寝て、そこから大学行って…いま考えると異常に体力があったよなあ(笑)
加藤 酒飲んでても遊びまくってても寝ないで良いって時期あったよね。
大澤 あったあった。
加藤 でも多摩美に入るくらいだから、もうすでにデザイナーになりたかったとか?
大澤 中学くらいの頃、『AKIRA』が好きだったんですよ。漫画の。作者の大友克洋が好きすぎて「大友克洋になるにはどうしたらいいか」ってことばかり考えてて、調べまくってたら、大友克洋って建築学科だったんだよね。そう言われてみるとビルとかすごい緻密に描かれてて、パースもしっかりしてるし。メカニカルな感じがすごくて。しかもアシスタントつけないで背景も自分で描いてるんだって。そういうのにすごく憧れて。自分もあんな風に描きたいなって。で、大友さんと同じく建築学科を志して、多摩美の空間演出科で入学。でも、ちょっとゆがんでたんだよね。大友克洋みたいな漫画が描きたいっていうのが本来の目標だったのに、建築というか空間の方に行っちゃうんだよね、多摩美で。遠回りしちゃった(笑)
加藤 ずいぶん遠回ったね。
大澤 1年目はずっと空間の勉強してたね。図面を描いたりとか、子供向けの遊具を作ったりとか。作ること自体は好きなんだけど、ぜんぜん楽しくなかった。だって目標が違うからさ。こんなことやるために入って来たんだっけ? っていう想いがずっとあって。
加藤 そりゃそうだよね。
大澤 多摩美のシステムで、2年から別の科を選択できるっていうのがあったから2年からはグラフィックを選んで、音楽も好きだったしフライヤーをデザインしたり、そこでやっと最初に行きたかった道に戻って来たって感じ(笑)マンガとはちょっと違うけど。
加藤 大友克洋ってぼくらの世代はみんなわりと好きだと思うんだけど、なりたいとまで思うのは結構めずらしいよね。目指すというか。
大澤 そうだよね。でもまあ、結局なれてないけどね(笑)
加藤 もともと絵の勉強とかはしてたの?
大澤 うん。油絵やってたんだよね。5歳くらいからずっと習わされてたというか。
加藤 英才教育ってやつだ。
大澤 いやいや、そんないいもんじゃなくて。近所にたまたまアーティストが住んでて。といっても、完全に現代アート寄りの「アーティストみたいな感じ」のひとで。絵画教室とかじゃないの。基本も全然おしえてくれないし。油絵の具と筆をわたされて「描け」って言われるだけの(笑)
加藤 シュール。
大澤 そもそも俺、建築的な線が好きだったから、油絵ってまったく真逆だしね。本当は写真みたいな模写を鉛筆とかでやりたかったのに。最初がもうゆがんでるよね。油絵の具しか渡してもらえなかったからさ。見よう見まねでピカソの真似して。
加藤 そこからもうゆがんでるんだね…。油絵かいたり空間いったり(笑)
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アロエ うまくなりたかったんだけどね。結局そんなにうまくならなかった。褒められたこともあまりなかったし。一緒に通ってた兄貴と弟はすごいうまくて、褒められてて、絵描きになるならふたりの方が向いてたのかもしれないけれど、でも兄貴と弟は好きじゃなかったんだよね、絵が。でも、俺は絵が好きで。とにかく絵を描いてるのが楽しかったから。そのアーティスト風の先生の良かったところは、なにも教えてくれないけれど、自由だったんだよね。思ったまんま好きに描いて良いって言ってくれて。環境はあるからさ、それでどんどん自分がやりたいことっていうのが見えてきたというか、自由で良いんだなって。でも、油絵ではないなと(笑)
加藤 そこからずっと絵を?
大澤 いや、その教室は中学卒業でやめて。
加藤 とはいえけっこう通ってたんだね(笑)
大澤 そうだね。その先生自体は好きだったから。で、高校はほぼ帰宅部で、とくに絵を描くってわけでもなく(笑) 普通の高校生だよね。でも、高校行くとさ、いろんな音楽とかカルチャーに出会うじゃない。それこそライブいったり、音楽雑誌・カルチャー雑誌も買うようになるし。雑誌を見るとさ、面白そうなこといっぱいあって。で、そういうの追っかけてると、自然とすごいかっこいいデザインとかが目に入って来て。
加藤 しかもぼくらの世代ってちょうどMacの普及でDTP(パソコンでデザイン作業をすべて行うこと)が主流になって成熟して来た時期というか。海外ではTomato、デザイナーズリパブリックとか。
大澤 あとDTP世代とは違うかもだけど、ピーターサヴィル(グラフィックデザイナー)ね。すごい好き。一番影響されてるかもしれない。
加藤 ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダーのCDジャケットのデザイナーか。
大澤 そうそう。
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加藤 あとは国内だと宇川直宏、スケートシング、イルドーザー、グルーヴィジョンズ、アダプターとか、ぼくらの世代だとどんどん尖ったグラフィックデザインがバンバン出て来てて、それこそアロエくんの上司にあたるヒロ杉山(エンライトメント)さんとかね。アロエくんは年齢的にはちょっと下になると思うんだけど、そのあたり当時どうだったの?
大澤 すごい好きだった。今でも大好き。おれずっと筆やペンで絵を描いてたけど、パソコンの登場は本当に衝撃だった。これだなって。でもDTP系のデザインのムーブメントがちょっと落ち着いてきたくらいに大学に入ってるから、ちらほら時代の流れと共に消えてく方たちもいて(笑)当時ちょっと自分も尖ってたから、消えるようなデザイナーにならねえぞと。
加藤 尖ってるね!
大澤 髪伸ばして、クラブ通って、自分が作ったフライヤーとか配ったり。自分のデザインに自信あったし、生意気だったと思う(笑)
加藤 たしかに知り合った頃、アロエくんロン毛で生意気だった!
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大澤 でしょ。今は落ち着いた(笑)それでも尖ってても普遍的なデザインしてる前出の方たちは未だに最前線。すごいと思う。ちゃんとひとに伝わるもの。だから、普遍的なのデザインをずっと意識してたかなぁ。それで就職の話をすると、箭内さん(箭内道彦…タワーレコード『NO MUSIC NO LIFE』などを手がけるクリエイティブディレクター)が凄く尖ってて勢いがあったから、そういうところで仕事したいなぁって思って。
加藤 で、カゼプロ(箭内道彦による『風とバラッド』から独立したクリエイティブエージェンシー)に入社するわけだ。でも、入りたくても入りたいひといっぱいいるのに、よく入れたね。
大澤 たまたま偶然の縁が重なって入社させてもらいました。ラッキーすぎた(笑)
加藤 すごいラッキー。入ってみてどうだった?
大澤 甘く見てた…。関わるひとが多いから責任ののしかかり方も違うし、学校で習ったことがまったく通用しなくて。とにかく勉強勉強って感じ。すごい失敗してると思う。ひとよりたくさん失敗してきたんじゃないかな。怒られまくったし、広告に向いてないって思ったことも何度もある。それを取り戻すためにまたやるんだけど、キリが無いくらい(笑)
加藤 何年いたんだっけ?
大澤 8年。だからだいぶ勉強させてもらったよ。もはやスポーツだよね。訓練して少しずつ上手になってくというか。最初は2年くらいで独立してもいいかなって思ったけれど、学ぶことが多過ぎて、結局8年。
加藤 広告業界も進化してるし、会社もどんどん進化するしね。
大澤 とにかくいろんなことやらせてもらったし、いろんな現場にも出させてもらったし、30歳にもなったし、ここまで頑張ったんだからもうそろそろ1人でやってみてもいいかな、と。で、独立。
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加藤 自信だよね、大事なのは。今後どうしていきたいってのはあるの?
大澤 残るデザインがしたい。50年後でも100年後でも残るような。さっきピーター・サヴィルが好きだって言ったけど、彼のことが好き理由は、かなり前にデザインされたものなのに、いま見てもものすごくフレッシュ。だから、ちゃんと残る仕事がしたい。
加藤 一度きりの人生だしね。
大澤 そうそう。刻みたい。
加藤 残るデザインかぁ。ナスカの地上絵とかね(笑) 当時は最先端だったんだけど、いまでもヤバいみたいな。しかもだんだん時代が経過するにつれて、どんどんヤバい。
大澤 わかる! そういうの惹かれるなぁ。こどものころ持ってたもん、オーパーツの本。あぁ俺、オーパーツ作りたかったのかもなぁ(笑)
加藤 すごいオチだな。
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大澤 あとはさ、実は3.11がけっこう自分の中で大きくて。あのあたりから急にデザインがよくなったんだよね。自分でもわかるくらい。半端なモノは出せないって思ったし、納得いかないものは出さなくなった。もう3年半たったけど、まだ感覚が残っててさ。だって「死ぬな」って思ったじゃん。あの時。実際に亡くなられた方もいるからさ、簡単なことは言えないけど、こんなに大好きなデザインも、死んだらできないんだなって単純に思ったんだよね。たまたまかもしれないけど「生きてる」からさ、だからちゃんとやろうって思った。死を目の前にしないとやらないのかって話だけど(笑)
加藤 オーパーツつくるまでは死ねないね、お互い。
大澤 そうだね。一緒に作りましょう。
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大澤 悠大 / / Yudai Osawa
アートディレクター / グラフィックデザイナー
1984年生まれ。2006年多摩美術大学卒業。
kazeproで8年間修行後、独立。
デザインスタジオ『アロエ』主催。
広告、ブランディング、アートエキシビション、CDジャケットなど、様々な分野でフレッシュなグラフィックを手がける。
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