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草森紳一 年譜
 文学、歴史、美術、書、写真、建築、思想、宗教、マンガ……。洋の東西を問わず、さまざまなジャンルにわたって旺盛な執筆活動を繰り広げた人、それが草森紳一です。ここでは、そんな自称「物書き」の70年の足跡をたどります。
 なお、この年譜の内容は、主として本人の著作に書かれた事項を参考にして記述したものです。著作は基本的に単著のみを掲載しました。書名のサブタイトルなどは省いてあります。詳細は「著作目録」をご参照ください。
1938年(0歳)
 2月23日、北海道河東郡音更村に生まれる。父は草森義経、母はマスエ。6人姉妹弟の長男。

1944年(6歳)
 4月、下音更国民学校初等科入学。
  『少年倶楽部』以外の雑誌は毎月全部読み、『平凡』『明星』『オール読物』などの大人向け大衆誌も読む少年であった。マンガは横井福次郎・手塚治虫を愛読。小説も、山中峯太郎・南洋一郎・吉川英治といった大衆小説を中心に読み始め、やがてトルストイや夏目漱石を読むようになった。

1950年(12歳)
 3月、下音更小学校卒業。
 4月、下音更中学校入学。野球部に入部。ノーエラー、バントの名人、ダブルプレーの名人で、キャプテンであった。

1953年(15歳)
 3月、同中学校卒業。
 4月、帯広柏葉高等学校入学。
 映画館に毎日通い、映画雑誌に評を投稿する。文学ではドストエフスキーに傾倒した。

1955年(17歳)
 高校3年生になるも、4割くらいは欠席。

1956年(18歳)
 3月、同高等学校卒業。上京、早稲田大学ロシア文学科の受験に失敗。浪人時代、神田でアンリ・ルソーの本を見つけ一生のテーマとする。

1957年(19歳)
 4月、中国文学を学ぶため、慶応大学文学部入学。
 大江健三郎の登場により、文学の世界にやるべきことは残されてはいないと感じる。モダンジャズに入れ込みジャズ喫茶を渡り歩いた。

1958年(20歳)
 4月、中国文学科に進む。奥野信太郎氏の中国文学史の講義で李賀を知り、一生のテーマとする。
 この年、推理小説同好会に入り、『推理小説論叢』に執筆する。ダシール・ハメット、ジョルジュ・シムノンを愛する。この時に3年生だったのが、紀田順一郎。その他の先輩に、後に東宝に入り植木等作品の脚本を書く「田波靖男」もいた。
  また、ボウルズの「the delicate prey」を訳す。

1961年(23歳)
 3月、慶応大学卒業。卒論は唐の詩人李賀で、原稿用紙500枚を超える。
  『三国志』で映画を撮ることを夢に見て、映画監督を志望し東映を受験するが、最終面接で大川博社長と論争になり、失敗。また、松竹の受験も失敗。
 4月、友人の紹介で婦人画報社に入社。

編集者1961
出版社勤務時代

1962年(24歳)
 『男の服飾』誌の改名を発案、『MEN'S CLUB』に。秋に『MEN'S CLUB』編集部から『婦人画報』に異動。伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』などを担当する。
 ある日、編集室で外国雑誌『エル』『マドモアゼル』『コスモポリタン』等を発見、“めまい”がする。なかでも『プレイボーイ』『GQ』のソフィスティケーションに刺激を受け、給料のほとんどをつぎ込んで買うようになる。
 また、仕事を通じて“写真家”と出会い、ショックを受ける。特に大倉舜二との出会いは、生涯にわたる大きな関係となる。大倉に紹介された注目すべき新進の写真家は、立木義浩であった。それ以来親交が深くなる。
 さらに、デザイン、イラストレーション、マンガの新しい始動を感じ取り、援護射撃を始める。イラストレーター真鍋博の推薦で、『美術手帖』にマンガ評論を匿名で書き始め、後に草森紳一の名で書くようになる。これが“物書き”として生きる運命を決定付けた。

1964年(26歳)
 3月、婦人画報社退社。フリーライターとなり、週刊誌や広告コピーの仕事をする。
 『美術手帖』8月号に「アンリ・ルッソー 子供の怪奇」(後、“幼童の怪奇”と改題)掲載。

1965年(27歳)
 4月、奥野信太郎氏の強い慫慂があり、慶応大学・斯道文庫に勤務。永青文庫から寄託された漢学者古城貞吉の漢籍2万冊の整理に携わる。

1966年(28歳)
 6月、ザ・ビートルズ来日に際して、写真集『ビートルズ東京』製作のため、コピーライターとしてキャピタルホテルで写真家の浅井慎平、デザイナーの鶴本正三らとビートルズを取材。

1967年(29歳)
 3月、港区芝公園に移る。上京以来、5度目の引っ越し。奥野信太郎編集『中国文学集』(盛光社)の1冊として、『史記』刊。
 5月、『マンガ考』(コダマプレス)刊。

1969年(31歳)
 1月、恩師の慶応大学教授・奥野信太郎氏死去。大きな衝撃を受け、斯道文庫を辞める決意をする。
 4月、慶応大学文学部非常勤講師を勤める(~70年3月末)。担当は「中国文学特殊」。
 8月、斯道文庫退職。完全にフリーの文筆家となる。

1971年
1971年(撮影:遠藤正)

1971年(33歳)
 2月、『マンガ・エロチシズム考』(誠文堂新光社)刊。
 11月、『ナンセンスの練習』(晶文社)刊。

1972年(34歳)

 2月、『日本ナンセンス画志』(大和書房)刊。
 4月、再び慶応大学の非常勤講師となる(~73年3月末)。
 11月、『江戸のデザイン』(駸々堂)、『底のない舟』(昭文社)刊。

1973年(35歳)

 『江戸のデザイン』で第27回毎日出版文化賞受賞。
 このころから、神戸、北海道、東京と3つの空間を行き来するようになる(神戸は足掛け7年で引き払う)。
 11月、 『狼藉集』(ゴルゴオン社)刊。

1974年(36歳)
 3月、『鳩を喰う少女』(大和書房)刊。
 夏、ライトの建築を見るためアメリカ旅行。
 11 月、 『衣装を垂れて天下治まる』(駸々堂)刊。
 12月、沖縄旅行。

1975年(37歳)

 9月、『子供の場所』(晶文社)刊。
 12月、『だが、虎は見える』(村松書館)刊。12月末から新年にかけて、大倉舜二らとスリランカへ蝶の旅。

1976年(38歳)

 3月、『悪のりドンファン』(フィルムアート社)刊。

書庫1977年
「任梟盧」(中谷正人撮影)

1977年(39歳)
 3月、『ポール・デービス』(パルコ出版局)刊。
 5月、『イラストレーション』(すばる書房)刊。
 7月、帯広の実家に書庫「任梟盧(にんきょうろ)」竣工。
 8月、『円の冒険』(晶文社)刊。

1978年(40歳)

 3月、『争名の賦』(徳間書店)刊。
 4月、『軍艦と草原』(九藝出版)刊。
 5月、『歳三の写真』(新人物往来社)刊。
 10月、『印象』(冬樹社)刊。
 12月、『絶対の宣伝1』(番町書房)刊。

1979年(41歳)

 2月、『絶対の宣伝2』刊。
 3月、『絶対の宣伝3』刊。
 4月 、『素朴の大砲』(大和書房)刊。
 6月、『オフィス空間』(鹿島出版会)刊。
 8月、『絶対の宣伝4』(番町書房)刊。

絵画館前1980
1980年、絵画館前にて
1981年(43歳)
 6月、『夢に帰る』(吉野教育図書)刊。

1982年(44歳)

 1月、大倉舜二らとトルコ旅行。
 4月、『旅嫌い』(マルジュ社)。
 12月、『見立て狂い』(フィルムアート社)刊。『墨』で「副島種臣」執筆のため、佐賀初訪問。

1983年(45歳)

 8月、江東区門前仲町に引っ越す。

1984年(46歳)

 11月、母、マスエ死去。『あの猿を見よ』(新人物往来社)刊。

1986年(48歳)

 3月、『オフィス・ゲーム』(講談社文庫)。
 12月、『女のセリフ捕物帖』(主婦と生活社)刊。

1987年(49歳)

 3月、『コンパクトカメラの大冒険』(朝日新聞社)刊。

1989年(51歳)

 3月、『九蓮宝燈は、極楽往生の切符』(三一書房)刊。
 5月28日放送の『NHK日曜美術館』で土門拳美術館を案内。同日、父、義経死去。

1990年
1990年、箱根にて
1990年(52歳)
 7月、『女の魅力百景1 しぐさについて』(KKベストセラーズ)刊。

1992年(54歳)
 3月、『銭は神に通ず』(三一書房)刊。
 8月、『随筆 散歩で三歩』(話の特集)刊。

1993年(55歳)
 6月、『写真のど真ん中』(河出書房新社)刊。

シサム1995
1995年、シサムにて
1994年(56歳)
 1月、『北狐の足跡』(ゲイン)刊。
 『芸術新潮』8月号に「ファッション写真の大冒険」一挙掲載。

1996年(58歳)

 12月、『漢詩賞遊 酒を売る家』(竹書房)刊。

1997年(59歳)

 11月、『食客風雲録・中国篇』『食客風雲録・日本篇』(青土社)刊。

1999年(61歳)

 12月、『少年曹操』(文藝春秋)刊。

2000年(62歳)

 5月、『あやかり富士』(翔泳社)刊。

2001年(63歳)
 この年より京都精華大学表現機構の文字文明研究所に協力。以後『文字』『表現』誌で座談会や執筆など行う。

2003年(65歳)

 佐賀に副島種臣の取材旅行。

シサム1995
『en-taxi』特集

2004年(66歳)
 2月、『歳三の写真 増補版』(新人物往来社)刊。
 12月、『荷風の永代橋』(青土社)刊。

2005年(67歳)

 3月、『en-taxi』09号に特集「草森紳一 雑文宇宙の発見者」掲載。月末、吐血により入院するが3日目に退院。
 10月、『随筆 本が崩れる』(文春新書)刊。
 12月、 四方田犬彦との対談『アトムと寅さん』(河出書房新社)刊。

2006年(68歳)

 1月、佐賀で「蒼海副島種臣 全心の書」展を見る。

2007年(69歳)

 7月、『表現』創刊号より「捕鼠 明治十一年の文人政治家副島種臣の行方」連載開始。

2008年(70歳)

 2月、恩師の慶応大学教授・村松暎氏死去。
 3月19日、江東区の自宅にて心不全で死去。
 7月、『夢の展翅』(青土社)刊。
 8月、『不許可写真』(文春新書)刊。

2009年
 2月、『「穴」を探る』(河出書房新社)刊。
 5月、『中国文化大革命の大宣伝』(上下2巻、芸術新聞社)刊。
 7月、『フランク・ロイド・ライトの呪術空間』(フィルムアート社)刊。
 8月、『本の読み方』(河出書房新社)刊。

2010年
 2月、『古人に学ぶ 中国名言集』(河出書房新社)刊。
 4月、『文字の大陸 汚穢の都』(大修館書店)刊。

2011年
 6月、『勝海舟の真実』(河出書房新社)、 『記憶のちぎれ雲』(本の雑誌社)刊。

2013年
 4月、『李賀 垂翅の客』(芸術新聞社)刊。

2014年
 5月、『その先は永代橋』(幻戯書房)刊。

2015年
 7月、『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ1 宣伝的人間の研究 ゲッベルス』(文遊社)待望の復刊。

 12月、『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ2 宣伝的人間の研究 ヒットラー』(文遊社)待望の復刊。

2016年
 5月、『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ3 煽動の方法』(文遊社)待望の復刊。

2017年
 1月、『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ4 文化の利用』(文遊社)待望の復刊。全4巻完結。

  このページで使用させていただいた写真の撮影者のお1人、遠藤正さんのご連絡先をご存じの方がいらっしゃいましたら、お知らせください。よろしくお願い申し上げます。
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