2011年11月14日 芦野 - 白坂 芦野から12.1Km/宇都宮から75.6Km 九
遊行柳から峰岸の集落を過ぎ板屋に入りしばらく行くと左手に諭農の碑というのが立っています。これは芦野の戸村忠恕が農民に諭す為に撰文したものが刻まれていますが、やはり大震災のせいで案内板が倒れ掛かった状態でした。板屋の一里塚は、道を掘削したために現在は頭上のずいぶん高い所に残っており江戸から44里目で両塚残っています。一里塚を後にして先に進むと旧道は再び国道294号線に吸収されます。45里目の泉田の一里塚を過ぎると瓢石(ふくべいし)が国道の左脇にあります。坂道を上ると栃木県と福島県の県境です、かつての下野と陸奥の國境です。この国境をはさんで2社があり「境の明神」と呼ばれています。手前の栃木県側が玉津島明神、福島側の住吉神社は奥に宮があり狭いが立派な作りですが東日本大震災の影響で石灯篭柵や鳥居が倒れたりしていました。二つの明神の中間には県境の標識、崖の上には領界石があります。福島側の住吉神社の境内には「風流のはじめや奥の田うへ歌」の芭蕉句碑があり、また、福島側の右手の崖の上には白河二所之関跡碑もあります。坂を下ると左手に大木があり「衣がえの清水」の標識が立っています。弘法大師がここの清水で衣を濯いで着替えたとの伝説があり、芭蕉もここで休憩したという解説もあります。その先、右に行く道は、旗宿道といって、古代の白河の関へ通じている。芭蕉は、奥の細道で遊行柳を見たあと、ここまで奥州道中をたどり、ここから右に折れて旗宿にある白河の関を訪れた。奥州街道は直進して国道を歩くと1kmほどで白坂宿です。
諭農の碑 板屋の一里塚
泉田の一里塚 瓢石(ふくべいし)
栃木県側の玉津島明神 領界石
栃木県と福島県の県境 福島側の住吉神社
芭蕉句碑 白河二所之関跡碑
衣がえの清水 旗宿道への分かれ道の大垣藩士の墓
2012年7月22日 白坂 - 白河 (白坂から9.5Km/宇都宮から85.1Km 十
昨年の11月に芭蕉の歩いた奥の細道を白坂で旗宿にある白河の関の方に曲がって以来8ヶ月ぶりに再び白坂に来ました。白坂宿には、昔の面影はまったくありません。旅籠「かめや」跡に子孫の亀山さんが屋号を表札に掲げているくらいでしょうか宿を出て人気のない山を越えて国道を進むと林間が開け小さな川を渡り皮篭(かわごの集落)に入ると集落の中程の左手に金売吉次の墓の標識が立っています。承安5年(1174年)に、吉次兄弟が砂金の交易で奥州平泉と京とを往来する途中、この皮篭で盗賊に襲われて殺害され村人が憐れんでこの地に葬り供養した。後に義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い八幡宮に合祀したと伝えられています。緩やかにカーブする山道を抜けて国道294号線と合流、国道289号線の交差点を直進して進んで街道が右に折れる角に、「戊辰の役古戦場碑」や、多くの碑が立っている。ここは幕末の戊辰戦争の白河口古戦場跡地で会津・仙台・棚倉の奥州連合軍が攻めてきた薩摩・長州・大垣の官軍を迎え撃った地であり、檄戦が展開され多数の戦死者がでた所です。松並を後にして街道を進む途中でT字路に突き当たります、右は南湖公園で、享和元年(1801)白河藩主松平定信が作庭した公園です。谷津田川に架かる南湖橋を渡ると、白河宿の始りです。月よみの庭という石を敷きつめた公園前を右折すると、道も何カ所か曲って進み、 町名も城下町らしい感じが残っています。途中の長寿院、関川寺や皇徳寺などには慶応4年(1868)の戊辰戦争戦死者の墓や供養塔があります。また皇徳寺には会津磐梯山で有名な「小原庄助の墓」がある。説明板によると、羅漢山人に絵付けを習いにきた、会津漆器の塗り師、久五郎という者で、酒飲みで、安政5年に没す。徳利に盃を載せた墓で、戒名は「米汁呑了信士」。時世の句として「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」を残したとするからスゴイです。本町が宿場の中心地で、やがて左折してJR東北本線のガードを潜り、田町大橋で阿武隈川を渡ります。聯芳寺(れんぽうじ)には戊辰戦争の戦没者、福島藩十四人碑があります。この辺が宿の出入り口だった所です。奥州道中の終点はその先の女石(おんないし)にある仙台松前道と会津越後道の追分です。ここも戊辰戦争で官軍と東軍とで激戦が展開され、その時に戦死した仙台藩士の供養碑が建っています。道中奉行管轄の奥州街道はこの追分が正式の終点です。私の、日本橋から始った五街道の歩き旅もここで終了
旅籠「かめや」跡 金売吉次の墓
戊辰の役古戦場跡にある戦死墓 月よみの庭
皇徳寺 皇徳寺の小原庄助の墓
聯芳寺の福島藩十四人碑 仙台藩士の供養碑
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2011年11月13日 越堀 - 芦野 越堀から8.2Km/宇都宮から63.5Km 八
国道294号線を横断し奈良川の橋を渡って芦野宿に入る。左折して町内入って行くが、その前に右手高台上に、日本三大聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院、三光寺)の一つである三光寺に寄りました。宿内に昔の面影はあまり感じられないが家々には往時の屋号や常夜燈が立っている。柳屋の屋号のある櫺子格子の家が右手に現れる。その先には安達家蔵座敷のある旅籠だった丁子屋がありますが、今は旅籠をやめて鰻屋さんです。街道右手に芦野宿形成400年の記念碑があり、ここを右に行った奥は明治天皇行在所跡の祈念碑もあり、芦野宿問屋があった所です。那須歴史探訪館は交差点を右に折れて坂道を上っていくのだが、その途中に芦野氏の家臣で上級武士だった平久江家の門と構えがあります。旧道が左に曲がると新町地蔵尊、ここが宿の出口です。旧街道は右に曲がるが、左手角の建物が、無料休憩所の遊行庵で、この裏手に、西行法師が休んだと言う遊行柳があります 。時宗の宗祖一遍上人(遊行上人)が旅の途中、遊行上人が使っていた柳の杖が根付いて柳になったとかの伝説が残る場所で、さらに西行、芭蕉、蕪村がそれぞれこの遊行柳を訪れている那須湯泉神社参道脇の左手の玉垣に囲まれたのが「遊行柳」で、その傍らに芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」の句碑がある。対面の蛯フ木の脇には西行の歌碑と、蕪村の句碑もあります。
芦野聖天・三光寺 芦野宿碑
安達家蔵座敷の丁子屋 平久江家
那須歴史探訪館 新町地蔵尊
遊行柳 芭蕉の句碑
2011年11月13日 太田原 - 鍋掛 (太田原から12.3Km/宇都宮から54.8Km) 六次
神明町交差点を先に進むと、「金燈籠」交差点の左角に金属製の灯籠が現れます。この先を行くと、左手に江戸時代から続く醤油屋・和泉屋があり、古い蔵が残っています。街道はこの交差点を直進し、仕出し弁当屋・まえむろの所を左手に折れ、ホテル・みつやの角を右手に折れて進む手前に旧奥州道中大田原宿寺町と刻まれた標石があります。暫く進むと曲尺手(枡型)となり、その先を右折すると旧道を右に大きく回りこむと大田原神社の参道階段が現れますので登っていくと、ここも東日本大震災の影響で神社の石鳥居が壊れていました。今は龍城公園となっている大田原城址を過ぎ車道と合流する手前、左手に大久保木戸跡の石碑が現れます。蛇尾(さび)川を渡り河原交差点を左折し、旧陸羽街道の県道72号大田原芦野線を進みます。中田原の一里塚を過ぎて市野沢小入口交差点は棚倉街道への追分です。やがて街道は練貫の先で右にカーブする。野間に入ると明治天皇駐輦記念碑があり、その先の街道左手には鍋掛の一里塚と、その奥には愛宕神社、温泉神社と鶏島神社の三社が合祀され改称された鍋掛神社があります。更に進んでいくとやがて鍋掛の十字路となり、そこを直進して進んでいくとその先が鍋掛宿です。
金属製の灯籠「金燈籠」 旧奥州道中大田原宿寺町道標
石鳥居が壊れた大田原神社 鍋掛の一里塚
2011年11月13日 鍋掛 - 越堀 鍋掛から0.5Km/宇都宮から55.3Km) 
鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、対岸の越堀宿と共に川留めの時など、大いに賑わったといわれます。宿の名前の由来は那珂川の増水で川留めとなった旅人たちが泊まりきれず、住民が総出で鍋・釜を出して炊き出しをしたためという説もあります。那珂川を昭明橋でわたるとその先が越堀宿です、ですから距離もたったの500mしか離れていません。右手の浄泉寺境内に黒羽領境界石があります。「従是川中東黒羽領」とあり天領の鍋掛に対し、川からこちらが黒羽藩領で有ることを示す石です。宿場の外れに来ると曲尺手があり、通過して進むと道は右に大きく曲がります。杉渡土公民館の所に伊勢大神宮遥拝碑があります。ゆったりとした坂道を上っていくと富士見峠(標高295m)にでます昔は富士が見えたと思われますが、今は周りが雑木林となっているので振り返って見ても富士山は見えませんでした。峠を下り寺子交差点の先の、はしか地蔵で知られる会三寺(えさんじ)を過ぎ余笹川の手前には余笹川見晴らし公園があり平成天皇皇后陛下行幸啓記念碑があります。川を寺子橋で渡りしばらく進むと その先の右手には夫婦石の一里塚が残っています。街道は右にカーブし眺めが開け、緩い下り坂の先に芦野宿が見えきます。
浄泉寺境内の黒羽領境界石 伊勢大神宮遥拝碑
富士見峠(標高295m) 夫婦石の一里塚
2011年9月27日13:00 佐久山 - 太田原 (佐久山から6.9Km/宇都宮から42.5Km) 五次
佐久山宿内は県道が走り、往時の面影は余りありませんが、堂々とした門に「運用膏」と刻まれた庵看板を掲げた八木沢家があります、道中薬の傷薬が評判で特に、幕末戊辰戦争の際、その評判を一気に高めたと云われています。御当地の英雄・那須与一も場所が場所(厠)だけにハバカレますが町内の公衆トイレには那須与一の勇姿が描かれています。その隣の消防センターの車庫前には新しい「旧奥州街道佐久山宿下町」の道標があります。郵便局の隣が本陣井上勘左衛門家跡だと言われていますが、現在は駐車場になっているだけです。箒川に架かる岩井橋を渡り暫く進み吉沢・地区にはいると、天然記念物のイトヨの棲息地がありますので寄ってきましたが、案内板が目に付くだけでイトヨの魚影を見る事はできませんでした。親園(ちかぞの)に入り薬王院を過ぎると、手入れの届いた樹齢200年「与一の里名木選・国井宅の赤マツ」が街道沿いに見事な枝をひろげています。加茂内川を女神橋で渡った先に湯殿神社が有り、参道脇には蒲蘆碑を納めたお堂があります。これは当地の代官・山口鉄五郎高品の善政を讃える石碑を今に残したものです。すじがい橋を渡るとまっすぐ北へ延々と延びる街道となりますが、気温が涼しくなったといえ日陰がないので暑いです。やがて街道は左にカーブして神明町交差点で右に折れて進むと大田原宿です。奥の細道紀行で一ヶ月前に一足先に太田原に来ていますのでやっと奥の細道紀行に追いついたのと、久しぶりの町並に懐かしさを覚えましたが本日はここまでで帰宅します。
「運用膏」の庵看板 那須与一が描かれた厠
イトヨ棲息地 湯殿神社と蒲蘆碑
2011年9月27日10:00 喜連川 - 佐久山 (喜連川から11.7Km/宇都宮から35.6Km) 四次
喜連川宿内に入り、暫く進むと右手に格式の高い朱色の山門の龍光寺が現れます。龍光寺は足利尊氏の開基、喜連川藩主足利家の菩提寺で、歴代喜連川藩主の廟所があります。街道に戻り進んで行くと再現された喜連川城の大手門があるので中に入るとそこは”現代の城?”である市役所でした。暫く進んで行くと右手に酒店があり、その角を右折します。台町の追分を右折して坂を下り、左折して金竜橋を渡る、国道114号線となった街道を進んで行くが これといって見るものもなく、黙々とひたすら歩くだけでした。田町公民館横の金鶏山神社前の上り坂をすぎて、菖蒲沢公園入口手前の馬頭観音を右手に見ながら下り、下河渡交差点を右折し進むと右に天皇御小休之際御膳水碑と大きな男女双体の道祖神があります。きつれ川幼稚園の先、「老人ホーム」の手前の公園には、明治天皇御休輦之處碑が建っています。街道は佐久山交差点で県道52号矢板那珂川線を横断し、前坂交差点を直進し下って左折すると佐久山に入ります。それにしても主要五街道を歩いてみて、明治天皇は全国をくまなく歩いている事がわかりますが、輦台を担ぐ人や警備・接待に動員された方々の事や費用を考えると、明治の大名行列だったのでしょう。それに比べ私の街道旅はエコと言う名の歩き旅、でも好きな時に自由に時間をつかえるのが一番かな。
龍光寺 喜連川城の大手門
金鶏山神社 男女双体の道祖神
2011年9月27日08:15 氏家 - 喜連川 (氏家から7.6Km/宇都宮から23.9Km) 三次 
氏家宿の面影は今は全く残っておらず、ひっそりとした静かな町並みでした。街道右側に光明寺という寺院があり山門を入ると正面に宝暦9年(1759)に鋳造された高さ3mの巨大な不動明王が鎮座しています。「上町交差点」が「奥州街道と会津街道の分岐点で、奥州街道はここを右折して行きます。桜野の交差点を越えて直ぐ左手には庄屋を務めた村上家があります。その隣の堂々とした長屋門の家が瀧澤家です。土蔵の屋根に望楼を載せた蔵座敷と鉄竹堂と言う明治天皇が休憩した建物があり鉄竹堂瀧澤記念館になっています。その先をさらに進むと、やがて左手民家の塀の上に「一里塚」の掲示板が現れたので庭をのぞいて見ると庭木と祠と一里塚とが一体となった狭間田の一里塚がありました。旧道と国道の分岐点の手前に新旧2体の大黒天の石像と案内板があるので読んで見ると左の像に水準点が刻んであると説明されています。日光街道・幸手宿入口の神明神社にも灯篭の台座に、漢字の「不」の字のような記号が彫られていた事を思い出しました。これは几号水準点と言い、明治時代に東京・塩竃間の高低測量(水準測量)が開始され、この測量で用いられた標石のことで、各地の神社の灯篭や鳥居等に残存しているそうで、ここでも同様な水準点と再会しました。ここからは右折して弥五郎坂を国道で進むと両側は桜並木になり喜連川スカイタワーも見えて来ます。荒川にかかる連城橋の袂の右手には寛延元年1748)建立の道標が「右江戸道、左下妻道」と刻まれ案内板も立っています。連城橋を渡ると、その先は喜連川宿です。
須賀神社 瀧澤家
鉄竹堂瀧澤記念館 狭間田の一里塚
大黒天の石像 連城橋の「右江戸道、左下妻道」道標
2011年9月26日14:30 白沢 - 氏家 (白沢から5.7Km/宇都宮から16.3Km) ニ
白沢宿は徳川家康の会津の上杉攻めに際し、鬼怒川渡河の案内役をつとめたのが白沢村庄屋の宇加地家と上岡本村庄屋の福田家でした。その功績が認められ宿駅が許され宇加地家は本陣を福田家は脇本陣を務めたと言われています。また道路の両側に用水路がありますが、その昔は道の中央を流れていたとのことです。 宿場は短く、約300m程で宿の終りの「鍵の手」に達してしまいます。その突き当たりに、「澤姫」という地酒の蔵元、井上清吉商店があります。右折してすぐに九郷半橋を渡ると左手に白澤の一里塚碑が立っています。街道を進んでいくとやがて鬼怒川の土手でT字路となり、土手を左手に進みます。風に吹かれて田園風景を眺めつつ土手道を歩くのは実に気持ちが良いものです。途中で下って行くと川端に棒杭でできた鬼怒川の渡し跡があります。土手に戻り川を阿久津大橋で渡り更に街道を進んでいくと右手の林の中に将軍地蔵堂が現れます。日光山に修行にいった僧達が修験僧のそうめん責め遭ったときに、この地蔵が現れて、そうめんを平らげて助けたことから別名「そうめん地蔵」とも呼ばれるようになったそうです。勝山城跡から右に入りスーバー・ベイシアの手前で左に折れ東北本線を旧奥州街道踏切で横断し、一本道を進むとT字路に突き当たります。ここは奥州道中と大谷街道の追分で、道標には「右 江戸海道」「左 水戸・かさま・下だて・下づま」と記されています。ここを左折すると氏家宿に入ります。今日は戻って宇都宮駅前に宿泊予定ですので、早めですがJR駅に近い氏家で終わりにします。
白沢宿の町並と水路 「澤姫」蔵元・井上清吉商店
白澤の一里塚碑 鬼怒川の渡し跡
将軍地蔵堂 奥州道中と大谷街道の追分道標
2011年9月26日10:30 宇都宮 - 白沢 (宇都宮から10.6Km) 一
今回は1泊2日で、太田原まで芭蕉が歩いた奥の細道紀行とは異なる奥州街道でゆっくり行く予定です。大船駅発のJR湘南新宿ラインに乗ると一本で宇都宮駅に約2時間半で着くことが出来て非常に便利です。宇都宮宿は日光街道・奥州街道で最大の宿場町で二荒山神社を中心に発展してきた町です。奥州街道は宇都宮市伝馬町で北に進む日光街道と、まっすぐ駅方向に行く奥州道中に分かれます。その追分の所に本陣跡があったといわれますが、本陣跡は見つける事はできませんでした。幕末の戊辰戦争で宇都宮城下はほとんど焼失してしまいましたので致し方ありません。大通りを進むと右手に下野国一ノ宮である宇都宮二荒山神社へ最初に寄り道中安全祈願をします。正式名称は二荒山神社ですが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために地名を冠して呼びます。田川に架かる幸橋を渡るといよいよ奥州道中に踏み出すことになります。交差点を左に折れますが、その角に黒漆喰壁の大きな土蔵づくりの家が現れます。江戸時代から醤油醸造や肥料商を営んでいた旧篠原家の住宅であり重要文化財に指定されています。竹林町交差点を越すと堂々とした長屋門の旧家もあります。上海道町に入ると、車道の左手に専用の歩道が設けられていて杉並木が続いており稚児ケ坂の下りになると河内地域自治センターバス停の所に白澤宿標識があります、「ここは江戸より三十里」と記されています。緩やかな下り坂を進んでいくとT字路となり、左手に曲がると白沢宿の宿場に入ります。
宇都宮二荒山神社 旧篠原家の住宅
長屋門の旧家 白澤宿標識
和風旅館

 江戸時代の主要五街道のうち東海道中仙道甲州道中日光道中を歩き終えましたので、いよいよ日光道中から続けて奥州街道へと足を延ばします。栃木県宇都宮以北の区間を北海道函館まで奥州街道と呼ぶ説もありますが、起点をどこにするかによって呼称が変わったりします。これは徳川幕府の道中奉行が管理した街道が白河迄で、白河以北が脇街道とされ各大名の管理下におかれた事にもよると思います。この様な理由で宇都宮から白河に至る道だけが一般的には奥州街道と呼ばれるようになってしまいました。この区間は総延長21里18町14間半(85.1Km)です。白河以北の脇街道にも、白河から仙台までは仙台道、仙台から青森の三厩を経て蝦夷筥館(はこだて)までは松前道と呼ばれています。
同時進行で松尾芭蕉の「奥の細道」も歩いていますが、彼は日光からは日光北街道で太田原に出て黒羽からは那須街道で湯元へ行き芦野に戻り、芦野から白坂の間だけを奥州街道を歩くだけで、まさに奥州街道を中心にして左右、縦横無尽に名所旧跡を訪れていますのでトレースするのも結構大変ですが、、、楽しみながらテクテク歩きをしています。

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