青面金剛のオリジンをさぐる。第1報 日本の石仏No72(1994冬号)    
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夏号の原稿募集の言に励まされて、青面金剛の起源の謎のすべてに挑戦し答えを出してみた。
もちろん問題提起の意味であり、思い切って大胆な仮説を提案してある。読者からの大激論を期待する。
1.庚申善神
青面金剛はもと流行病を流行らせる悪鬼であったが、のち改心して病魔を駆逐する善神になったという。これは「渓嵐拾葉集」という鎌倉時代に日本でまとめられた本に書いてある仏教説話であり、こういう説明が日本人には一番分かりやすかったものと思われる。
儀軌の青面金剛の描写は非常に精密なので、想像を混じえず素直に描いて見ると、左図のようになる。(二鬼、四薬叉、二童子を略)

この姿は日本人の感覚からは、どう見ても病を流行らす悪鬼の時代の姿であり、全身に蛇を巻き付け、病の犠牲になった人のどくろを勲章のように誇らしげに腰の回りに飾っている不気味な死神の姿に見える。鬼退治の物語には赤鬼青鬼が出てくるが、日本では赤鬼は火事などの災害、青鬼は病気の象徴であった。※

信仰、礼拝の対象としては「悪鬼」時代の姿では不適当である。
平安時代から江戸時代にかけての日本人が仏師や石工に要求したのは「儀軌に書かれた悪鬼」の姿ではなく、「改心して善神」になったあとの青面金剛の姿であった。これが一貫して儀軌どおりの四手青面金剛が作られなかった理由であろう。
横浜市保土ヶ谷区坂本町に「庚申善神」と彫られた青面金剛(元禄9)があり、以上の考えを裏付けている。(相鉄線上星川下車五分 蔵王神社隣の薬師堂前)
※日本では青鬼は蒼白い病魔を連想するが、インドの絵画の約束ごとでは、青色の像は「怒り」を表すことになっている。「真っ赤になって怒る」のはまだ序の口で、「青くなって怒る」のが本当の怒りである。蛇やどくろも強さ、勇敢さを強調するための飾りに過ぎないのであるが、日本人の目から見ると大変気味悪く感じるのである。
●青面金剛によく似た話として鬼子母神がある。鬼子母神はもと人の子供をさらって食べる女鬼であったが、仏陀の説教のおかげで改心し一転して子供の守り神となった。鬼子母神の像は子供を大勢周りに集めてやさしく微笑む保母さんのような姿に描かれることが多い。

 

2.青面金剛夜又=正面金剛夜又明王
奈良東大寺には鎌倉時代の青面金剛木像があり、「善神」としての青面金剛のオリジンと思われるが、六手の持ち物のうち剣と輪以外が失われているため、手がかりがつかめず深く研究されたことがない。有名なミロのヴィーナスの失われた二手がどんなポーズだったのか、何を持っていたのかについて、欧米では多数の研究があると聞く。我々も東大寺青面金剛木像の失われた持ち物についてもっと議論する必要がある。(2−A図)
最大のヒントは左中手にあり、この手だけは二本の指を緩め、三本指で何かを軽く吊り下げている形をしている。この手の持ち物は多分「鈴(金剛鈴)」であり、しかも今まさに鈴を鳴らしている形と推定出来る。眠っているのか笑っているのか分からない不思議な表情は、実は鈴の音に聞き入っている顔であり、電車の中でイヤホーンの音楽に陶酔している若者と同じ表情である。(2−B 復元図)    →→追記へ
この像は五大明王の一つで「青面金剛夜叉」と名前のよく似た「金剛夜叉明王」のパロディーと思われる。
金剛夜叉明王は六手で宝剣、輪、金剛杵、弓、矢、金剛鈴を持つ。剣を振り上げ、目を剥いて威嚇している姿に作られ、烈しい動きを表すために裾が大きく翻っている。(左図)

青面金剛木像は持ち物はこれと同じだが、動作が全く対象的な姿に作られている。
振り上げていた剣は腰の位置に戻され、膝の辺りで固く握りしめていた鈴は、耳に近い胸元に引き寄せられて静かに振り鳴らされている。
裾の乱れがまったくないことを示すためにひだが克明に彫られている。すなわち金剛夜叉明王の「動」に対してそれと正反対の「靜」の極致を表わそうとしたものである。
何から何まで正反対な二人の人物が登場したとき、「一人二役(変装)」を疑えというのが推理小説のトリックを見破るための法則の一つなのである。

更にこの像には青面=正面という言葉のトリック(掛け言葉)が使われている。「正」とは正常=ノーマルの意味である。観音(聖観音は後世の当て字)とは「十一面観音」「千手観音」などの多面多手の異形観音に対して一面二手の観音菩薩のことであり、儀軌に出てくる正式な名称である。
  (「観音」を「本来の観音=元祖観音」と解説している本があるが、誤り。)

金剛夜叉明王は、「三面五眼」という特異な顔が特徴であるが、「正面金剛夜叉」とすることで、「顔だけはノーマル(一面二眼)な金剛夜叉明王」という意味に読み替えられている。
青面金剛は改心して病を流行らせる「青鬼」ではなくなったから、「青面」の名前は意味を持たない空虚なものになった。「青面=正面」の読み替えで何とか意味を持たせようとしたのであろう。
ショケラのモデルは、胎蔵界曼陀羅の大黒天である。この曼陀羅の一番外側の枠が天部で100ほどの諸天が描かれている。大黒天(マハーカーラ)は天部の左隅上から三番目にある。髪の毛で吊りさげられた人物が膝まづいて合掌している不自然なポーズで明らかにショケラのモデルである。ただしこの吊り下げられた人物の正体もショケラの語源も不明である。
ショケラの正体や語源についてその後かなり解明された。
第2報、第4報を参照

 

3.大津絵の青面金剛

初期の大津絵には、儀軌通りの持ち物を持った四手像が残っており、青面金剛のもう一方のモデルとされたことはすでに定説となっている。
後に東京駒場の日本民芸館を建てた民芸品の収集家 柳宗悦は、大津絵の収集家研究家でもあるが、儀軌通りに描かれた初期四手青面金剛の大津絵が珍品であることに早くから気づき積極的に収集した。
柳の収集品は現在、日本民芸館に数点保存されているが、一般の方には大津絵のまとまった資料は入手しにくいと思うので紹介しておく。
●追記 柳宗悦は四手青面金剛の大津絵を珍品と考えて収集しているが、大津市歴史博物館に収集されている大津絵青面金剛を見るとそのほとんどが四手像である。「大津絵青面金剛は儀軌四手像」と決まっていたのではないか。

YAは寛政〜寛文のものでしっかり描かれた大判。Cは寛文中期で粗雑な描き方である。

儀軌通りとはいっても、蛇とどくろで飾り立てた原型のままでは土産物として売りにくかったらしく、蛇とどくろの数を大幅に減らして不気味な印象を少しでもなくそうと努力している。どくろを連ねた首飾り(ヨーラク)はなくなり、額のどくろが1ケ残るだけである。全身に巻き付く数匹の大蛇もすべて省略され、棒に巻き付いた蛇だけが残されている。

大津絵は利益幅の小さい手内職的な商品であったから、出来るだけ製造工程を減らすための工夫がされている。まず防水した紙に図柄を切り抜いた型紙に絵の具を刷毛で刷り込んで色刷りし(合羽刷りという。)、次にトリや光輪など一部の図柄は木版の黒で押し、最後に筆で手書きして仕上げるという行程になっている。

ただし大津絵YAは手描き。ユーモラスな大津絵の特徴は備えているが、1枚しか現存しておらず、土産物として市販されたものかどうかは疑問。どうも特注品らしい。
●後記のように、たった一枚しかないはずの特注品の図柄が江戸の初期青面金剛石仏に正確にコピーされている。誰からの特注品だったのか、大津絵YAの成立事情を示す重要なヒントである。
初期大津絵を同時期の青面金剛石像と較べて見るとその影響が明らかである。

寛文四(浦和)の青面金剛は大津絵YAそのままの四手である。
衣服の裾の表現、腰に巻き付くヘビ。「腕の曲げ方」や「棒の描き方」(バナナサイズ)もよく似ている(左右反転)。
棒に巻き付いたヘビが省略されているのが相違点だが、この省略には深い意味があることが後で分かった。(第4報参照)
板橋(寛文2)の庚申は、四薬叉、二童子、猿、トリが賑やかだが、四薬叉の比較でも明らかなように大津絵Aがモデルであろう。
短足、ガニ股、ギョロ目など大津絵の特徴が取り入れられ、虎皮のパンツの上にフンドシを重ねている奇妙なスタイルもそのままである。大津絵の「頭を掻く赤鬼」が石仏の左上にもいること、矛の形が似ていることにも注意。
●「パンツの上にフンドシを重ねる」のは、四天王寺系のお札や掛け軸も共通。庚申の鬼だけの特徴で、地獄の鬼や大江山の鬼はフンドシか虎皮パンツのどちらかである。
取手市小堀・水神社の四手青面金剛(寛文9)(中央)は裾にまつわる二匹の立猿が可愛らしいが、この猿は大津絵だけの特徴。
大津絵Cは大量生産品で、「合羽刷り」で刷りやすいように選ばれた形の猿である。
(防水紙にサルの形を切り抜いて、刷毛で泥絵の具を塗る。)

猿のほか、四手の持ち物(とくに生の蛇)や後頭部の光輪も含めて大津絵Cそのままのデザインである。
大津絵Cは、関西で大量に作られ多数残っている。このタイプ(儀軌4手、2匹の立猿)の石仏は関東7県に1体しかない。

左:駒場日本民芸館所蔵 「民芸大鑑」 大津絵C
右:大津市歴史博物館カタログ 大津絵C
大津絵には制作年月が書いてないため、大津絵がいつ頃から作られ、土産物として売り出されたのかについての資料が乏しい。
「大津絵の筆の始めは何仏」という松尾芭蕉の句(元禄4)が大津絵の起源を推定する資料としてしばしば取り上げられるくらいである。
小堀の寛文9年庚申塔に大量生産様式の大津絵Cが写されている事実は、大津絵の歴史を探る上でも重要な手がかりである。
寛文年間は関東ではようやく青面金剛信仰が普及し始めたばかりの時期だが、関西ではすでに土産物として大量に売られるほど青面金剛信仰が普及していたことになり、青面金剛信仰の関西と関東の普及度の違い(関西が数十年早い)を示す好例である。
今でも「青面金剛は江戸で始まり、徐々に全国に普及した」というのが定説とされているが、とんでもない間違いである。
横浜市保土ヶ谷区橘樹神社(寛文9)(相鉄天王町駅下車5分)は光輪や円頭から見て大津絵Cに合掌2手をつけ加え、蛇やどくろなどの不気味な要因を一切取り除いた青面金剛像である。(横浜市最古の青面金剛)
光輪を持つ青面金剛は少ないし、バナナサイズの「棒」は大津絵Aとよく似ている。

六手青面金剛は、「儀軌の四手像に合掌二手をつけ加えたもの」と書いてある本があるが、この説は少々怪しい。儀軌の四手の持ち物に合掌二手が加わった像はほとんど存在せず、この保土ヶ谷の像が唯一の例である。※
合掌型六手像はすでに寛文三年から出現して標準型として普及しており、この保土ヶ谷の寛文九年像を中間型と見るには時期がやや遅すぎる。この像は「儀軌に合掌二手を加えた」というよりも、前記のように「大津絵Cに合掌二手を加えた。」というべきものである。

※中山正義氏:関東六県初期青面金剛一覧(寛文〜延宝)で再チェックした。

関東地方には純粋な儀軌4手は非常に少ないが、「儀軌4手+合掌」「儀軌4手+弓矢」は地域によりかなりの数現存する。近くでは「儀軌四手+合掌」(寛文8)が品川の本覚寺にある。

 

4.儀軌の青面金剛とチベット寺院壁画の六手マハーカーラ
これまで、日本で作られた青面金剛のモデルについて述べてきたが、次に儀軌の青面金剛のオリジンについて述べる。
戦後チベットは中国の管理下にあり、外国人の立ち入りが出来ない鎖国状態にあった。十数年前になって、ようやく入国が自由になり、日本の研究者やカメラマンによって、チベットの仏教寺院の壁に極彩色で描かれた壁画がカラー写真で紹介されるようになった。数種の豪華写真集も出版されているので、図書館などで閲覧することが出来るだろう。

これまで穏やかな表情の日本の仏像に慣れていた日本人にとって、どくろや蛇にかこまれた血塗れの怪奇な仏像は大きな驚きであったが、その中でチベット寺院の壁画の中でもっともポピュラーな「マハーカーラ」という護法尊の姿が儀軌に書かれた青面金剛と全く同じであり、青面金剛の姿のオリジンはマハーカーラであることが分かってきた。(下図)
チベットのマハーカーラにはいくつかのタイプ(六手像のほか、土地神と混淆した二手像、三神合体像、后と抱き合ったタントラ型など)があり、その成立時期や変遷の課程もほぼ正確に分かっている。ここで取り上げるのはもっとも原型に近く、もっともポピュラーな「六手マハーカーラ」である。

マハーカーラと青面金剛のそっくりな点を挙げると、青色三眼、大張口と牙、炎のように逆立った髪、頭上に蛇とドクロ、持ち物のうち三叉戟、索、輪(数珠)、虎皮のパンツ、バンド代わりに腰に巻き付いた2匹の大蛇、ドクロのヨウラク(生首のヨウラク)、四匹の小鬼(四夜叉)、踏みつけた二鬼(この図では象の形の神だが、二神を踏みつけた壁画もある。)、長い爪などである。これだけの共通点がそろえばこの二つが同一人物であることは間違いない。

もちろんチベットの像が伝わって青面金剛になったわけではなく、インドのマハーカーラがチベットに流れて現存の壁画となり、一方中国などに流れて青面金剛の儀軌として伝えられたということである。気の遠くなるような時間と空間の隔たりを考えるとこの相似は驚くべきものといわざるを得ない。

次に相違点について述べる。
儀軌の四手像に対し、チベットのマハーカーラは六手である。これは本来の四手像に二手を加え、それにチベット仏教の「潅頂(=高弟に秘伝を伝える儀式)」のための神聖な法具であるドクロ杯と金剛杵を持たせることで、本来ヒンズー教の神であったマハーカーラ(シヴァ)が仏教に帰依したことを表したものである。チベットに入ってからつけ加えられたことがはっきりしているので、問題にしなくてよい。

儀軌の「逆さに垂れて相対する二匹の竜」は多分肩の辺りに翻るリボンを見間違えたものであろう。多くの絵図を眺めているとリボンと竜が意外にも同じ表現になることが分かる。
もっとも重要な相違点は、儀軌の「四肢に巻き付く四匹の赤大蛇」である。チベット壁画にも手足の方向に伸びる正体不明の赤っぽい物体が描かれているが、何だか分かるだろうか。
種明かしをすると、マハーカーラ(シヴァ)はライバルであった象の姿の神を倒し、その皮を剥いで背中にかぶっており、「四匹の赤大蛇」に相当するのは「象の生皮の四足部分」なのである。儀軌の記述者はそれが分からず、四匹の大蛇と誤認した。

この間違いは次のような重要な結論と結びつく。
後述するように象の生皮を剥いで着ているのはヒンズー教のシヴァ神の基本的な姿であり、インドであれば子供でも知っていることである。ところが青面金剛の儀軌の記述者はこれを「四匹の赤大蛇」と誤認した。マハーカーラの図面だけが説明抜きで、シヴァ神について知識のないインドの国外に流出し、青面金剛の姿とされたことがこの一事だけで明かである。

民俗学者 南方熊楠の親友であり、のち高野山の管長になった土宣法龍が南方とやりとりした一連の手紙の一部が最近新発見された。その中で法龍は「儀軌の青面金剛は五大明王が起源」との説を述べている。「青面金剛+四薬叉+二童子」の構成は「不動明王+四明王+二童子」と同じというのが主な根拠であるが、二童子まで含めて員数が合っている点で多分賛同者は多いと思う。
私の説との共通点としては、儀軌の青面金剛の姿は本来「病を流行らす鬼」というレベルのケチな鬼の姿ではなく、もっと根元的な偉大な神の像だったものが、何かの間違いで陀羅尼集経に紛れ込み、青面金剛として伝えられたということである。
        →→マハーカーラ論

 

5.マハーカーラのオリジンと持ち物

青面金剛のオリジンがマハーカーラであることが分かると、更にそのオリジンをたどることは容易である。マハーカーラは、同じインドのヒンズー教の最高神の一つであるシヴァ神を仏教の「護法尊」として取り入れたものであることはすでに公知であるからである。

青面金剛の特徴や持ち物の一部は明らかにシヴァ神から来たものである。

1)三叉戟
シヴァ神のもっとも重要な持ち物であり、座禅を組むときもお后を抱くときも手元から離さない。一振りすると巨大な火柱が立ち町や村を一瞬に破壊してしまう恐怖の破壊武器である。シヴァ神は、気分一つで町や村を破壊しては創り直すきまぐれな神として畏れられている。お祭の日、信者達は大人三人がかりで担ぐような巨大な三叉戟を奉納し、シヴァの寺院には奉納された三叉戟が林のように立ち並んでいる(TVのクイズ番組にて)。ヒンズー教シヴァ派の経典には「三叉の戟の持ち主」という表現で、シヴァ神を示している部分がある。(定方著:インド宇宙史)
2)蛇の巻き付いた棒
インドの絵画の約束ごととして蛇の巻き付いた棒は男性器を表す。シヴァ神の彫刻の画材の一つに「宮殿で后を抱くシヴァ」がある。このシヴァは四手で、三叉戟、数珠、蛇の棒を手にし、残る手でお后を抱いている。お后の持っている貝殻様のものとの対比からも蛇の巻き付いた棒の正体は明かである。
またインドには、「蛇の巻き付いた棒」から棒を消して蛇の形だけから棒を暗示する表現方法があった。
シヴァのオリジンを更にたどっていくとリンガ(男根)信仰に行き着く。シヴァは自分のオリジンであるリンガを手にしているのである。
3)三眼と髪の中の蛇
シヴァ神は額に第三の目を持っており、ふだんは見えないが何かの時に見開いて光を放つとされる。インドの町の露天で売られている極彩色のシヴァ神の絵を見ると、第三の目や髪の中に隠れた小蛇が描かれている。


シヴァは様々な姿で描かれるが、この図は凶暴な「破壊神」としてのシヴァ
このポーズが仏教の護法尊マハーカーラの基本形として取り入れられたらしい。
6.まとめ
日本の仏教にはその歴史を通じて、実質上仏敵は存在しなかった。四天王など守護神はあるが、何に対して仏教を守るのかはっきりせず、「煩悩」など内面的な敵からの守護と説明される。
ところが本場のインドの仏教は絶えずヒンズー教、イスラム教の外圧、内圧に苦しんでおり、こうした仏敵から仏教を守るために強力な護法尊が必要とされた。しかし仏教には敵と戦うような強い仏など居ないため、ライバルであるヒンズー教の最高神の一人であるシヴァ神を護法尊マハーカーラとして取り入れた。注)

この四手のマハーカーラがチベットに伝わり、チベット仏教の秘具を持った二手をつけ加えた六手像マハーカーラの壁画として現在まで伝わった。

一方四手マハーカーラの姿が中国に伝わり、何故か陀羅尼集経に紛れ込んで儀軌の青面金剛の姿として記録されて日本にも伝わった。

日本には庚申講とつながる以前の平安鎌倉時代から流行病防除の神として青面金剛信仰があったらしい。日本人は儀軌に描かれた四手青面金剛を病を流行らす「悪鬼」時代のの姿として嫌い、信仰の対象としては「善神」になってからの青面金剛像(六手)を求めたので、仏師や石工たちは文献資料にない「善神」の姿を模索し工夫することになった。

鎌倉時代の木像は、「青面金剛夜叉=正面金剛夜叉明王」という解釈で作られた六手像であり、金剛夜叉明王を一面二眼にし、鈴の音に聞き入る姿で表わしたものである。江戸時代の石工はこれを「善神」青面金剛の原型としたが、持ち物のうち金剛鈴が早い時期に失われていたため、江戸第一号の青面金剛は石工の工夫でこの手に胎蔵界曼陀羅の大黒天の持つショケラを持たせ、これがのちに剣人標準型になった。

大津絵の青面金剛は、蛇とどくろを大幅に省略することで「善神」青面金剛をあらわそうとした。この大津絵も石像のモデルの一つとして模写され初期の青面金剛に影響を与えた。

注)その後のマハーカーラ
1)仏敵の圧力が更に強まり、より強力な護法尊が必要になったが、シヴァより強い神があろうはずがなく三神合体の三面マハーカーラ像が創られる。小錦、武蔵丸、曙を合体させれば、天下無敵の力士が生まれるという発想である。
前記の曼陀羅のマハーカーラ(大黒天)はこの時期の三面マハーカーラが伝わったもので、大太刀を持つのが特徴である。※
チベット寺院の壁画には三面マハーカーラも多数見られるがショケラや山羊をぶら下げているものはなく、ショケラの正体は不明。
  注)ショケラについては第4報参照
その後編纂された「別尊雑記」では、大黒天の姿が「三、大太刀」→「一、三叉戟」の初期の姿に戻っている。

2)その後、創られたのがお后と抱き合ったタントラ型マハーカーラである。(後期密教)
お后は百万馬力のエンジンの役をすることでマハーカーラをパワーアップしているのであって、歓喜天のような意味で抱き合っているのではなく、その証拠に必死のすさまじい表情をしている。タントラ型はチベットにも伝わり壁画や仏像が多数残っているが、中国や日本には伝わらなかった。

文献資料:

魅惑の仏像(五大明王−教王護国寺)、
続仏像心とかたち(望月、佐和、梅原)
日本石仏事典(庚申懇話会)、日本石仏図典(日本石仏協会)、
仏像事典、仏像図典、新纂仏像図鑑(S5−復刻版)、
仏教大辞典、密教大辞典

マンダラの仏たち(頼富本宏)(S60東京美術新書)、
曼陀羅 (朝日カルチャーブック19)(1983。大阪書房)
  密教の憤怒尊(頼本)
  胎蔵界曼陀羅に見るインドの神々(高木)
インド神話 ベロンカ・イオンズ 青土社 1990
インドアート(神話と象徴)ハインリッヒ・ツインマー せりか書房1988

                           

インド宇宙誌 定方成 春秋社
インド再発見 前田行貴 日本写真印刷S63

ラダク 内海邦輔 みずうみ書房 1980 仏教最後の安住の地
チベット美術の旅 真鍋俊照 昭和56 六興出版
ブータン・マンダラ(写真集)
チベット・曼陀羅(写真集)
ラダックマンダラ(写真集)岩宮武二

(大津絵)柳 宗悦全集13(民画) 
     民芸大鑑(日本民芸館収蔵品写真集)
     大津市歴史博物館カタログ

追記 2000/12

東大寺青面金剛木像
二〇〇〇年十二月、中国国宝展を見に東京国立博物館に行ったら、本館彫刻室でこれまで写真でしか見たことのなかった東大寺の青面金剛木像(平安後期)が特別展示してあるのに偶然出会い感激した。前後左右からじっくり検討して実物で次のポイントが確認する事が出来た。

☆左中手の三本指で持っている(失われた)持ち物はやはり金剛鈴で、固く握りしめるのではなく指をゆるめて静かに鳴らしているのであろう。
☆怖ろしい顔の割にはのんびりした表情は写真通り。とくに眠っているようにも見えるとろんとした眼は鈴の音に聞き入っている場面であろう。目は閉じているのではなく開けているのだが、うつろな表情である。
☆左中手の近くにあるものは、口を開けてねじれあったヘビである。手の持ち物ではなく帯の代わりに胴の回りに巻き付いている。


円心様式の軍茶利明王(醍醐寺)
                          
日本の美術「五大明王」で再調査
(1)青面金剛木像の全身に蛇が巻き付いているが、蛇のモデルは「円心様式」の軍茶利明王である。
彫刻の軍茶利明王ではこれほど大量の蛇が彫られた例はない。絵画には別尊雑記で「円心様式」と呼ぶ五大明王の様式があり、大量の蛇が描かれる。京都醍醐寺の軍茶利明王図(鎌倉時代)が代表例で、生々しい蛇の質感までそっくりである。
(2)絵画彫刻とも、五大明王には三本指で軽く持つ持ち物の例はない。「鈴を鳴らしている」場面と考えてよいだろう。
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儀軌の青面金剛(四手  経典に書かれた仏の姿
儀軌(儀式の軌範)はそれぞれの仏の「礼拝の作法」を書いたもので、呪文や合掌の形のほか、絵姿を説明している。
陀羅尼集経九 大青面金剛呪法

一身四手。
左辺上手把三股叉。下手把棒。右辺上手掌拈一輪。下手拈羂索。
其身青色。
面大張口。狗牙上出。眼赤如血。而有三眼。
頂戴髑髏。頭髪聳堅如火焔色。頂纏大蛇。
両膊各有倒懸一龍。龍頭相向。其像腰纏二大赤蛇。
両脚腕上亦大赤蛇。
所把棒上亦纏大蛇。虎皮縵胯。髑髏瓔珞。

像両脚下安各一鬼。
其像左右両辺各当作一青衣童子。髪髻両角手執香炉。
其像右辺作二薬叉。一赤一黄執刀執索。
其像左辺作二薬叉。一白一黒執銷執叉。
形像並皆甚可怖畏。手足並作薬叉手足其爪長利。
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