木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 3月23日には、読売新聞広告局の企画で、楽天の三木谷浩史さんと対談をしました。三木谷さんは神戸のお生まれで、一橋大学を出られたあと日本興業銀行に入社、ハーバード大学でMBAを取得されて、退社されたのは95年のことでした。お目にかかったのは、三木谷さんが97年4月に、日本最初のサイバーモール「楽天市場」の運営を始められて、まだ間もない時期で、対談記事は集英社が読売新聞朝刊に載せる、新書発売の広告紙面に掲載されるものでした。場所はたしか、ホテル・ニューオータニで、夜の9時から90分ほどの対談だったと思います。お話を伺っていて、とてもクレバーな方だという印象は受けましたが、後年、三木谷さんがこれほどの活躍をされるとは、まだ思ってもいませんでした。

 翌24日は、早朝6時にニッポン放送に入り、6時から8時半までの「高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団」に出た後、トーメンさんや、セントラルスポーツさんと打ち合わせをして帰阪、大阪本社で所用をすませ、夜は、平尾誠二さんや玉木正之さんと共に、和泉修君の出るスポーツ・トークライブに出かけました。

 26日はNGKのイベントに付き合った後、翌朝7時半から8時55分までの生放送の「報道2001」に出るため東京へ移動しました。さしたる打ち合わせもなく番組は始まったのですが、毎週この番組を見ていて、フォーマットが解っていたのと、ご意見番に竹村健一さんがいらっしゃった安心感もあって、無事に出演を終えることが出来ました。

 31日は、朝から、いくよ・くるよさんがパーソナリティーを務める、KBSラジオの「はりきりフライデー」に出た後、烏丸長刀鉾町に本社のある、ワタベウエディングの渡部隆夫社長にお会いしました。といっても、私が結婚式を挙げるためではなく、ちょっとしたお願い事があってのことでした。夜は翌日の劇場オープンに備えて岡山入り。

 4月12日は文部省での講演。実は2月に、義本博司さんという方からオファーを受けていて、同じ「ヨシモトつながり」ということでOKを出してはいたのですが、子供の頃に母親から「そんなに勉強しなかったら、大きくなってサーカスか吉本しか行かれへんよ!」と叱られて育った人間が、「果たして文部省で講演などをして、いいのだろうか?」という思いは拭えませんでした。慣れぬ場所での講演とあって、いささか緊張気味だった私の心中を察して、気分を解していただいたのは、当時大臣官房政策課長を務められていた寺脇研さんでした。およそ官僚らしくないフランクな口調で語りかけていただき、そのおかげもあって、無事に講演を終えることが出来ました。

 寺脇さんは、ラサール中学を首席合格され(因みに同級生に池畑慎之介・ピーターさんがおられたそうです)、その後進んだラサール高校では、250人中の230番台の成績でありながら、なぜか卒業生総代に選ばれ、「中学から入った生徒は卒業時120人になった。成績の悪い生徒を追放して実績を取る。それでもこの学校を素晴らしいと言えるのか」とスピーチして同級生から喝采を浴び、地元紙に「造反答辞」と報じられたというエピソードがあるそうです。その後、東大の法学部に現役で合格をして、キャリアとして文部省に入省。92年、初等・中等教育課長時に、「ゆとり教育」、「脱・偏差値」、「週5日制」などを推進して、マスコミの前面に出る機会が増え、「ミスター文部省」と呼ばれた方だと知ったのは、お目にかかった後のことでした。おこがましい言い方をすると、どこかで私は、この方のお人柄に、シンパシーを感じていたのかもしれません。寺脇さんはその後、退官をされて、今は、京都造形芸術大学の教授や、映画評論家として活躍をされています。そうそう、私を最初に誘っていただいた義本博司さんは、2001年1月の中央省庁再編に伴い、科学技術庁と統合し、改称された文部科学省で、高等教育局長を務められていると聞いています。

三木谷浩史さん

パーソナリティの高嶋秀武さん

報道2001のスタジオ風景

はりきりフライデーのいくよ・くるよさん「なんでラジオなのに衣装着てるの?」

渡部隆夫 社長(当時)

寺脇研さん