長崎市内で開催された「みんなの平和学習会」(毎月9日開催)で原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の川野浩一共同議長が語った被爆証言を紹介します。
1940年、(現在の)北朝鮮と中国の国境にある鴨緑江(おうりょくこう)のほとりで1月7日に生まれ、父と母、姉と暮らしていました。父は日本人部落を守るために警察官でありながら兵隊のようなことをしていたのでしょう。
●警官だった父
現地の人たちや、日本人に逆らうような人たちを手引きした人を捕まえ、手を後ろに縛り、首を前に出させたたき切り、見せしめに電柱に首をつるしました。
現地の青年を網で捕まえては縄でくくり、日本に強制連行しました。
こうした話を父親は酔っぱらっては独り言のように話したこともあり、私には加害責任があるのではないかと思うようになりました。
戦争が激しくなると、父親も兵士として召集されました。父は母親と姉と私を連れて長崎の実家に送り届け、戦地に戻りました。爆心地から約3・1キロメートルの現在の慶華園があるところに家はありました。
戦禍が激しくなり、床下に防空壕(ごう)をつくり入りました。床下から見た風景が脳裏にしみついています。B29が長崎の空を編隊を組んで飛んでいました。空が真っ暗になるのです。地上から攻撃すれば、お返しがくるので手も足も出なくて。恐怖は今も体に染みついていて、病気の時などに夢に出て私を脅かします。
毎日毎日空襲警報が鳴り、防空壕を出たり入ったりしていましたが、9日は解除され、久しぶりに外に出ていました。
家の前の防火用水の前で近所の子どもと話をしていた時、かすかに飛行機の音が聞こえました。友軍機(日本の飛行機)だろうと思っていたら、友だちが走って逃げました。私の記憶はここで途切れました。
「ピカ」も「ドン」も聞いていません。10メートルほど吹き飛ばされ、起き上がった時にはB29が見え、近くの防空壕に入りました。この日の晩の長崎は火の海でした。
●バケツに遺骨
家には、やぶれたバケツに消し炭のようなものが入れられて床の間に置かれていました。祖母に「なんでこげんとを床の間に置いとっと?」と聞くと「浦上のおばあさんの骨よ」と言いました。祖父が探して持って帰ったものを置いていたのですが、怖かったです。
現在81歳。健康ですが、5年前に食道がんの治療をしました。
韓国の被爆者には在外被爆者への支援がありますが、北朝鮮にはありません。中国や北朝鮮をけしからんと言うけれども、おやじたちが何をやってきたか。
「慰安婦」や強制連行などの問題も認めることで新たな関係がつくれると思います。
平和でなくては、いくら経済的に豊かであってもダメです。核兵器禁止条約にはもろ手をあげて賛同して当然です。
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